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おかしな夢の感触を目覚まし代わりのシャワーで洗い流し、服を着た。そして、今日のうちに着替えも少し買っておこうと思った。考えてみれば、この街に滞在するつもりなんか、出発したときにはまるでなかったのだ。ずいぶんとあわただしい旅だ、と俺は思った。だが、そんな適当な時間を手に入れたことについては、妙に浮かれたような気分を感じていた。どちらにしても、まずは昨日リナに教えてもらった修理工場に行こう。プジョーが直せるのなら、トライアンフだってすぐに直せるだろう。フロントは朝のラッシュを迎えていた。若く、背の高い赤い髪の女に、出かけるのだが鍵をどうすればいいか、と聞いた。赤い髪の女は、にっこりと笑ってから、お持ちいただいていても結構ですよ、と言った。一瞬そうしようかと思ったが、無くしてしまうのも困るな、と思って預かってもらった。赤い髪の女は両手で鍵を受け取り、いってらっしゃいませ、と頭を下げた。そのまま俺は地下に降りて、若い小太りの男の駐車場係に鍵を出してもらうよう頼んだ。駐車場スペースのナンバーを告げると、ああ、あのおんぼろ車の、という顔をしたが、何も言わずに鍵を出した。駐車場から表通りへ出た瞬間に、最後の禊が始まった。歩道や車道の通勤途中のサラリーマンやOLたちが、インベーターを見つけたような顔をして俺の車に、そしてそれを運転している俺に遠慮会釈のない視線を浴びせた。若く、いい車に乗り、パリッとしたスーツを着ているような連中はみな、示し合わせたような冷笑を浮かべていた。俺はその一人ずつに車をぶつけて、いいかね、この車は今から修理工場に行ってお前らの車に負けないくらいの美しい姿を手に入れるんだ、なんて説明してやりたくなった。だが、すぐにそんなことは馬鹿馬鹿しいと思った。そりゃあ、まったく何でもいいということはないが、車なんてものはただの移動手段だ。エンジンとタイヤがついている箱ならそれでかまわないというものだ。まあ、今では、ある程度はちゃんとしたほうがいいとは思ってはいるが。
修理工場はすぐに判った。リナの地図は実に判りやすかった。曲がるべき角の目印がきちんと描かれてあったので、それほど見返すこともなく辿り着くことが出来た。クラッシャー・バンバン・ビガロを少し人間並みの体型にしたような作業服姿の親父が、俺の車を目ざとく見つけて駆け寄ってきて、あんたかい、弁護士先生のお友達は、と言った。そう、走る骨董品のオーナーだよ、と俺は答えた。俺は彼の誘導に従って車をガレージに入れた。
「あんたは車を乱暴に扱うタイプなのか?」
モリ、と名乗った親父はそんなことを言った。誘導するときに、助手席のドアの大穴を見たのだろう。そうじゃないんだ、と俺は弁解した。
「買ったときからこの状態だったんだ。エンジン系統は新品と変わんないよ。」
「なぜ見てくれもそうしてやらない?」
「俺は、辺鄙な田舎町の人間でね。車ってのは見てくれよりもちゃんと走るかどうか、ってことだと思ってた。だけど、最近いろいろあって、少なくとも洋服くらいには気を使うべきだと気付いたのさ。」
俺がそう言うとモリは満足げに頷いた。俺の返答しだいでは直してもらえなかったのかもしれないな、と俺は思った。
「それで、見てくれを綺麗にしてやればいいんだな?なあ、これ、もとは何色なんだ?」
それが判らないんだ、と俺は言った。やれやれ、と、モリは肩をすくめた。
モリは、エンジン系統もあれこれと調べてくれた。その結果、交換しておいたほうがいい部品がいくつかあることが判った。
「絶妙のタイミングだよ。」
と、モリは言った。
「このまま走ってたらいくら整備が万全でも数ヶ月以内にイカれてただろう。あんた、腕がいいよ。仕事は何をしてるんだ?」
工場で働いてる、と俺は答えた。
「その仕事は、長く続いてんのか?」
「二十年以上はやってるな。だが、工場自体がいつまで続くかは判らないな。」
「もし、失業するようなことがあったら、この街に来てウチで働かないか?素人でこんな骨董品をこれだけ整備出来るんだ、あんたがちゃんと車のことを覚えたら、そこらへんの修理屋じゃ歯が立たんぞ。間違いない。」
考えてみるよ、と俺は言った。話がややこしくなりそうなので、今工場が閉まっていることは言わなかった。
モリのところにはない部品もいくつかあったが、すぐに取り寄せられるということで、一週間程度で出来るだろう、という話に収まった。それじゃあ、よろしくと言って、俺は店を出ようとしたところで、モリが俺を呼び止めた。
「あの弁護士の穣ちゃんは、クラシック・カーのクラブにでも入ってるのかね?」
俺は首を横に振り、自分の頭をトントンと指で叩いた。
「たぶん、ここがクラシックなんだ。」
モリはにやりと笑った。




