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リナの仕事に追加注文はなかった。リナは荷物をまとめ、ホテルを引き払い、自分の街へと帰ることになった。事務所側が急ピッチで進めたいらしく、打ち上げをする時間は取れなかった。リナがその知らせを受けたのは夕方で、その時間になるとこの街にはリナの街へ向けて走る便はもうなかった。なので彼女の相談を受けたユイが暇をもてあましていた俺を家まで呼びに来て、俺が彼女の街まで送っていくことになった。そう、塗装の剥げた、助手席側のドアに穴の開いた、年代もののトライアンフで。前回彼女の手伝いで隣町へ赴いた一件以来、俺はこのトライアンフの状態に疑問を感じ始めていた。「これはどこにでも出かけていける車じゃない」そういう思いがなんとなく脳味噌の片隅に芽生え始めていた。リナを隣に乗せてエンジンをかけながら、俺はリナを送り届けたあとでこの車を綺麗にしてやろう、と決意した。リナはなんだか塞ぎこんでいた。あまりにも急だったせいで気疲れしているのかもしれないな、と俺は思った。カー・ラジオを小さな音で流して、必要なこと以外はあまり話しかけないようにした。時々リナは小さな寝息を立てていた。神経をすり減らしそうな仕事だものな。俺は仕事に向かうときの彼女のキリッとした表情を思い出した。無理してるんじゃなければいいけどな、とも思った。そして、まあ、この仕事にカタが着いたら休暇らしいし、俺があれこれと心配することもないかな、と結論付けた。そもそも俺があれこれと考えたところで、どうにもならない話ではあるが。一時間も走らないうちに日が暮れてきた。日が暮れると腹が減ってきた。リナが短い眠りから覚めたタイミングで、だだっ広い荒野にポツンと建っていたレストランに車を止めた。
「車の修理工場?」
「ああ。」
「まさか、あの車直すの?」
ああ、と俺はもう一度言った。
「あの車で遠出すると恥をかくことが判ったんでな。」
ふふ、とリナは笑った。あのときの俺の顔を思い出したのだろう。
「そうね、その方がいいかもね。じゃあ、わたしの知ってるところ教えてあげるわよ。」
そこまで考えて、リナは、ん?という顔になった。
「ねえ、ってことは、車直るまであっちに居るの?」
「そういうことになるな。」
「大丈夫?お金持ってる?」
俺は、ポケットに入れたままの、彼女の上司からもらった封筒を見せた。ああ、と、彼女は納得した。
「街からこんなに離れたのは初めてなんだ。」
俺がそう言うとリナは驚いた表情になった。
「本当に?」
「うん。」
「どうして?」
そうだな、と俺は口ごもった。
「考えたこともなかったな。街を出ないことも、その理由も。」
と口にしている間に、あるひとつの考えが頭の中に浮かんだ。俺はそれをそのまま喋ってみた。
「離れちゃいけないような、そんな気がしてたのかな。どうしてかは判らないけどね。」
リナは、妙に真剣な表情になって俺のことを見ていた。俺はなんとなく話し辛くなって肩をすくめた。
「だからさ、この機会に知らない街をぶらついてみるのもいいかなと思ったんだ。」
リナも調子を変えて微笑んだ。
「そうか。」
そして、あーあと背伸びをする。
「わたしが暇だったらなぁ。あちこち案内して上げられるのに。明日から激務だわ。あーあ。」
俺は笑った。
「とりあえず、美味いコーヒーが飲める店だけ教えておいてくれよ。」
そうして俺たちはまたリナの街を目指して走り始めた。向こうへ着く頃には夜中になっているので、リナは街の修理屋に電話をして修理の予約を取り付けておいてくれた。「友達が走る骨董品に乗ってそちらへ行きますので、徹底的に直してあげてください」それからホテルに電話をかけて、一部屋予約しておいてくれた。
「友達が働いてるとこなの。安くしてくれるって。」
「ありがたいね。」
小さな街を抜ける途中でガソリンを入れてトイレを借りた。こんなに長いドライブは初めてで、肩と目が痛かった。スタンドの中のショップで、ガムと缶コーヒーを買った。リナはキャンデーの袋をひとつ買った。
「楽しいわね、こういうの。なんだか家族旅行みたいで。」
ほうら、リナ、出発するぞ、早く乗りなさい、と俺はおどけた。なんで娘役なのよ!とリナが俺の肩を叩いた。
それから一時間近く、リナはまた眠っていた。眉間にしわを寄せて、苦しげな表情で寝ていた。本当に疲れてるんだな、と俺は思った。人生とはこんな疲労を背負うものなのだろうか。生まれた場所の違いか、設定された人生の違いか―そもそも俺にそういうものに対する意識が足りないせいなのか…街を長く離れたことのない理由すら考えたことはなかった。本当にただ漠然と、ろくに記憶にもない両親や、かろうじて覚えている爺さんのことや、街の連中たちのことを思いながら、あそこで暮らしていただけだった。俺の見てきた人生はなんだったのだろう。そんな思いがふと脳裏に浮かんだ。ヘッドライトに浮かび上がったほんの数メートルの荒れた路上を見つめながら、俺は自分の人生に名前をつけようとしてみた。だけどそれはどうしても上手くいかなかった。




