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ゴッドチャイルド  作者: 桂木直
第二部 神なき大地
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第五章 守り人の地 16

 優しいルスターの事だ。いくら魔物と化したとしても、もともとは義弟であった存在を斬る事に、迷いを抱かなかったわけがないだろう。それでも彼は、カイの護衛隊長であるとの事実と誇りを忘れず、戦う事を決意してくれたのだ。

 その矢先に、迷いを蘇らせる存在が目の前に現れるとは、不運としか言いようがなかった。動揺したルスターの剣は鋭さを失い、確実にユベールを捉えるはずだった剣先は、虚しく空気を抉る。

 ユベールは裂けた口をつり上げて笑い、身を翻した。軽やかに床を蹴り、飛ぶように進む。カイやルスターとは反対――レイシェルが呆然と立ち尽くすほうへと。

 レイシェルを人質に取ろうとしているのは明らかで、ほとんど同時にカイとルスターは走り出していた。徐々に距離を詰めるが、はじめからレイシェルに近い位置にあったユベールのほうが、当然有利だ。奇怪に歪んだ手が、レイシェルを捉えようと伸びる。

 無謀だと判断する冷静さや時間を自身に与えぬ内に、カイは手にした剣を投げていた。鋭い切っ先は、レイシェルに伸ばされた手に突き刺さり、ユベールは奇声を上げながら身を捩った。

 その隙にルスターは、レイシェルの前に立ちはだかる。

 本来ならば、妹を背に庇った状態で牽制したいところだろうが、武器を手放したカイを確認したルスターは、すぐにユベールに斬りかかった。カイにもレイシェルにも跳びかかれないようユベールの動きを封じ、剣や鋭い爪による攻撃を、避けたり鎧で受け止めたりしている。

 カイは急いで剣を拾い上げ、レイシェルの手を引いた。まだ戸惑いが強いのか、自ら動こうとしないレイシェルの体は重い――いや、違う。レイシェルはカイの導きに従わなかった訳ではない。逆らっていたのだ。

 その場から動きたくないとばかりに、意志の力で足を床に縫いつけ、カイの手を振り払う。唖然として振り返るカイの目に映ったのは、ユベールを追い込み、今にも剣を突き立てようとするルスターの背に、レイシェルが絡みつく場面だった。

「邪魔を、するな、レイシェル!」

 叫ぶルスターに、レイシェルは髪を振り乱しながら返した。

「嫌です。兄上、何をなさるのです! 兄上が斬ろうとしているのは、私の夫です!」

「違う、魔物だ。御子に、エイドルードに仇なす、邪悪な存在だ。ランディの死を汚し、今ザールを襲っている魔物を率いている者も、おそらくは」

「嘘です。彼は、ユベールです。兄上、目を覚まして!」

「覚ますべきなのは――」

 お前だと言いかけて、ルスターは歯を食いしばり、レイシェルを抱いて横に飛んだ。力強く打ち込まれたユベールの拳が、掠めるように脇腹を打ち、小さく呻く。

 何もできないルスターに代わり、続いて振り下ろされたユベールの剣を受け止めたカイは、相手の攻撃を流すと同時に斬りり返した。皮膚が裂け、流れ出した血は、やはり人間のものと違っていた。

「なぜここに来た。ハリス隊長の指示を聞いていないのか。非戦闘員は自室に避難せよと言われているだろう。すぐに戻れ」

 戦線に復帰しようとするルスターの足に縋りつき、レイシェルは叫ぶ。

「嫌です。私が戻れば兄上は、ユベールを魔物だと言って斬り捨てるおつもりでしょう!?」

「魔物であろうと義弟であろうと、御子のお命を狙う存在を始末する事は私の使命だ」

「ならば絶対に戻りません! 兄上を、放しません!」

「レイシェル!」

 兄妹の会話を耳にしたカイが、「異形と化したユベールの姿を見てもまだ判らないのか」と疑問を抱いてしまうのは、昨日までザールに足を踏み入れた事もない他人だからなのだろう。

 レイシェルは昨日まで、いや、この戦いがはじまるその時まで、何も疑わず、家族として妻としてユベールに接していたはずだ。そんな彼女に受け入れろと言っても、無理に決まっている。悪い夢か幻である事を望む心を、カイは責められなかった。

「くっ……そっ……!」

 ユベールと対決する中で、幾度か切りつけたカイだったが、深手を負わせる事ができないでいた。魔物である事を隠すのをやめた時から、ユベールの皮膚はかなり硬化している。魔物ゆえの生命力か、リタが落とした雷に焼かれた部分も治りはじめていて、動きが徐々に早くなっているのも問題だった。

 脅威になりつつあるのは守備力や回復力だけではない。力が増したのか、拳は鈍器のようであったし、短いながらも鋭く尖った爪は、刃物に近い切れ味だ。どんな攻撃であれ食らってはならないという本能的な恐怖が、カイを積極的な攻撃に出させてくれなかった。

「カイ様!」

 悲痛なルスターの声がカイの名を呼び、妹の手を無理矢理ふりほどくと、カイの元へ駆けつけてくる。

 精神的に傷付いている人物、まして、同じ痛みを共有する妹を無下に扱う事で、彼の心の痛みはより増してしまうのだろう。判ってはいたが、彼が本来の仕事を成すためにカイの元に来てくれた事への安堵のほうが大きかった。

「カイ!」

「カイ様!」

 力強い足音と共に、リタとジオールが駆けつけてきた。ルスターと並び、ユベールの剣を受け止めながら、ふたりの姿を目視したカイは、唇に笑みを湛える。

 当のハリスの姿が見えないためにどうなったかは読めないが、駆けつけてきたという事は、なんらかの形で片が付いたのだろう。どちらもシェリアだけを置いてくるほど無神経な人間ではとは思えないので、ハリスは助かったのだとも予想できる。衣服に切り裂かれた跡や血の跡が残っている点は気になるが、今現在は問題なく動いており、怪我などはなさそうだ。

 力で勝るユベールが、剣を押し返すと共にカイの体を突き飛ばす。カイを庇うように壁とカイの間に身を入れたルスター自身は、強く背中を打ちつけて小さく咽こんだが、間髪入れず繰り出されるユベールの攻撃を、カイと共に床に転がって避けた。

 すぐさま体勢を立て直したが、続けざまに振り下ろされた剣は、避けるにしても受け止めるにしても、カイたちに少々不利だった。

 重い一撃を苦い顔で受け止めるルスターにとっての救世主は、駆けつけてきたばかりの男だった。左手で構えた剣でユベールに切りかかり、盛り上がった腕に深い傷を残す。同時にジオールの隣に小柄な体を滑りこませたリタは、殴りかかる勢いで手を伸ばし、ユベールの体を宙に浮かせた。

 通路の先の方に飛ばされたユベールが、床に叩き付けられた音は、重く、鋭い。それを合図にするかのように、ひとつの扉が開いた。

 ユベールとカイたちの間を遮るように、何人もの影が出てくる。まだ居たのか、居たならなぜ今まで表に出さなかったのかと瞬時に疑問を抱いたカイだったが、誰に問わずとも答えはすぐに出せた。

 現れた者たちは皆、どこか欠けていた。額を貫かれた上に肩から丸ごと失っている者や、脇腹が噛み千切られ抉れている者、首から上がない者もいた。見るも痛ましい傷跡は、彼らがすでに死者であると誰の目から見ても明らかにしており、今まで操っていた者たちのように、何事もなく潜入させる役には立たなかったのだろう。

「どこまで死者を利用すれば満足するわけ」

 低く、唸るようにこぼれたリタの声には、明らかな怒りが込められていた。

 カイは目を細めながらもけして瞬きはせず、人壁の向こうでゆっくりと身を起こすユベールを見つめていた。

 少しだけ期待をしていたのだ。見た目が明らかに違っていても、やはりユベールは他の者たちと同じように、操られているだけなのではないかと。リタの力によって解放されてくれないだろうかと。それならば、多少は救われるだろうと。

 だが、期待は無残に散った。ユベールは内から闇を消す事なく、立ち上がった。

「あんた、一体なんなの?」

 問いかけるリタの声はわずかに震えていた。

「変な力で操られているんじゃないとしたら、あんたはユベールじゃないって事? 別の魔物が、ユベールに成り代わっただけだってわけ? だから、自分が治めてたも同然のザールの民に対して、こんな酷い事ができるわけ?」

「いいえ。私はユベールですよ。生まれた時から、今この時まで」

 ユベールは静かな笑みで言った。通常ならば穏やかと称しても良い表情なのだろうが、邪気が勝ちすぎているからか、禍々しくも見えた。

「人として生まれ、人として育ち、人と結婚した、ただの人間でしたよ。この地にやってきて、すでに空の主が亡き事を知り、偉大なる存在の声を聞くまでは」

「ユベール!」

 操られた死体たちを抑えていたルスターが、半狂乱なレイシェルの叫びに、わずかに反応する。

 ルスターと並んで剣を振るうジオールも、ふたりのやや後ろで構えて力を使う機会を窺っているリタも、辛そうな顔をしていた。

 誰もが一瞬で理解したのだ。ユベールが語る「空の主」が、「偉大なる存在」が、何を示しているのか。

 彼もまた、神亡き世界の被害者なのだろうか。

 神が失われる事で緩んだ結界によって、魔獣が人を呼び、手足となる魔物へと変えたのならば、事はユベールだけの問題ではない。今後も被害者は増え続けるかもしれない。人ではない、ためらいも罪悪感もなく人を傷付ける存在へと化す者が次々と現れ――そうしてやがて、この地から人が消えるのかもしれない。エイドルードに変わって地上を守る者が現れなければ。

 カイは、ふらついた体でユベールの元へ駆け寄ろうとするレイシェルの肩を掴んで引き止めた。女性とは言え、遠慮なく突き進もうとするレイシェルを抑えるには少し力が必要だったが、自身の体を壁にして押さえつければ、難しい事ではなかった。

 耳元で叫び声が響く。ユベールユベールと、まるでそれしか言葉を知らないかのように、レイシェルは同じ人物の名を繰り返していた。

「すみません」

 カイを押しのけようと、レイシェルの拳が何度もカイの身を叩いた。

 レイシェルはもう、カイが何者であるかを忘れているのかもしれない。この惨状でレイシェルもユベールも救う事のできない神の子など、敬うに値しないと思っているのかもしれない。

 その通りだ、とカイは思った。本当に、カイ自身には何もできないのだから。

 何もできないのはきっと、カイだけではないのだろう。リタの力でも解放できなかったユベールを、本当に意味で解放し、救う事は誰にもできないのだろう。

 救えないならば、ユベールにしてやれる事はただひとつ。

 カイは振り上げられたレイシェルの腕を掴み、空ろにユベールを呼び続けるレイシェルの目を見据えた。ルスターに良く似た面影の女性は、瞳の色もルスターと同じで、彼女自身のものだけではなく、兄が抱く苦しみも、合わせて映しているように見えた。

 だから、ほんの少しでも。

 少しでも、楽になれるのならば。

「命令だ、ルスター」

 振り返らず、カイは掠れた声でルスターの名を呼んだ。

 ジオールやリタと協力し、操られた死体を倒していたルスターは、一拍間を開けてから返事をする。

「なんでしょう、カイ様」

「ユベールを斬れ」

 空気が張り詰めた気がしたのは、きっと気のせいではないのだろう。

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