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ゴッドチャイルド  作者: 桂木直
第二部 神なき大地
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第四章 追想 6

「まだ赤いようですが、大丈夫ですか?」

 言いながらルスターが指差してくるので、ハリスは頬を押さえた。

 鏡を見なければ詳細は判らないが、触れたところは自覚している輪郭よりもわずかに丸みをおびている。きっと腫れているのだろう。

「痛みがない、と言ったら嘘になるな。カイ様は、剣技はまだ荒削りで多分に成長の余地を残しておられるが、単純な力のみならば、なかなかお強い。こうもまともにくらっては」

「ならば避けられれば良かったのに」

 ルスターは小さく吹き出す。

 表情と言葉から、この後輩はすべてを理解しているのだと知ったハリスは、何やら照れくさく、誤魔化すように唇に笑みを浮かべた。

「カイ様が抱く貴方への憎悪に気付いた感じた時から、おかしいとは思っていたのです。私が知るハリス殿という方は、どんな相手にも思いやりを忘れず、ゆえに人に嫌われるような方は滅多にありません」

「それは買い被りだ、ルスター」

 ルスターは小さく首を振ってから、頬を押さえる手をどかすよう目で合図を送ってきた。

 ハリスが無言で従うと、彼の手にあった冷たい水に浸された布が、頬に触れる。冷やされる事で熱が徐々に緩和されていき、心地良かった。

「カイ様の拳を受ける貴方を見て、さすがの私も理解しました。カイ様やリタ様が必要としていたものは、誠意ある謝罪でも、理解者でも、優しさでもないのだと。おふたりが欲していたものは、ためらいなく憎悪や怒りや苛立ちを向けられる相手であり、貴方はそれを理解した上で、わざとあのように、より不興を買うような言葉を口にされたのですね?」

 ハリスはわずかに間を空けてから、先ほどと同じ言葉をもう一度口にした。

「それも買い被りだ、ルスター」

「では、なぜカイ様の拳を避けなかったのです? 貴方ほどの方が、感情に任せて振り上げられた拳など、避けられないわけもないでしょう。貴方の実力がその程度ならば、私は今頃、聖騎士団一の剣豪です」

 ルスターにしては鋭い切り返しだとハリスは思った。

 だがよく考えてみれば、エア・リーンの失踪によって第18小隊が事実上の解散となった17年前を最後に、ハリスはルスターと職場を同じくした事がない。地方勤務や遠征隊に配属されない限りセルナーンを離れる事がないため、言葉や剣を交わす機会はたびたびあったが、これほど長く会話をしたのはずいぶんと久しぶりになる。

 17年もあれば、誰でも変わる。むしろ、流れた時の長さを鑑みれば、変わっていないほうなのだろう。ルスターだけではない、ハリス自身も――まるで時の流れを恐れているかのように。

「殴られた事がわざとであるのは認めよう」

 認めると、ルスターは満足そうに微笑んだ。彼に限って悪意はないはずだが、勝ち誇ったようにも見える微笑みから、ハリスは目を反らす。

「申し訳ありませんでした」

 さほど間を空けず、ルスターの声で紡がれた謝罪の言葉が耳に届いた。

「君が何を謝る必要がある」

「カイ様のお心につい先ほどまで気付かずにいた事です。それによって、憎まれ役を貴方ひとりに押し付けてしまいました。カイ様のお傍にあるのは、ハリス殿でなく私であるのに」

 ハリスは気付かれないよう苦笑いしてから、ルスターの肩を小突いた。

「今日からは君のほうがカイ様に近いとは言え、トルベッタに滞在していた日々やトルベッタからセルナーンまでの旅路をお供したのは私なのだから、仕方あるまい。それにカイ様とて、負の感情を強く抱く相手が常に傍にあっては、不快なだけだろう。事実、セルナーンまでの旅路では、ずいぶん苛立っておられた」

「ならば、こちらに戻ってから喧嘩を売られば良かったのでは?」

 ハリスは再び苦笑した。今度は、隠そうとはしなかった。

「その時はその時なりに事情があったのだ」

 だが今になって思うと、無意味だったのかもしれない。

 温くなった布を外し、触れると痛みが走る頬をひと撫ですると、自分を睨みつけてくるカイやリタの眼差しが、寄り添うようにして去っていくふたりの姿が、はっきりと脳裏に蘇る。

 行方不明になっていたもうひとりの神の娘が発見された事にも驚いたが、そのリタとカイの間にすでに面識がある事実は更に驚きだった。しかもどうやら、互いの事を憎からず想っているようだ。しぶしぶ神の意志に従ったカイにとって、リタの登場は奇跡とも言える幸運なのだろう。

 しかしハリスからしてみれば、リタの登場は面白いものではなかった。

 運命に従う事を決めたカイに、神の娘を拒絶する道は残されていない。だが、神の娘のどちらを選ぼうと許されるだろう。リタか、シェリアか――その2択を迫られた時、カイの出す答えは、誰の目から見ても明らかだった。

 命を捨ててまで大地の救済を願ったエイドルードや、この大地に生きる人々のためだけを考えるならば、カイがどちらを選ぼうと問題はない。カイがリタと決めたならば、誰ひとり反対する事なく、話が進むことだろう。

 そしてひとり残されるのだ。新たなる神の母となる事を心から望む唯一の少女、ハリスが生涯をかけて贖うと誓った主は。彼女がたったひとつ抱く望みは、けして叶えられる事なく。

「シェリア様がどうかなされたのですか?」

 思考に拭ける中、前置きもなく確信を突かれ、ハリスは慌ててルスターに振り返った。

「その様子を見ると当たったようですね。まあ、この所の貴方の噂を聞く限り、貴方の行動の理由となるものは、シェリア様のためかエイドルードのためか、ふたつにひとつしか考えられませんし、トルベッタからセルナーンに移動するまでの間に事情が変わるとすれば、シェリア様のほうとしか考えられないのですが」

「単純な人間だと笑われている気がするな」

「まさか。私ごときに他者の単純さを指摘する権利などございません」

「否定はしないでおこう」

「少しは否定してください」と主張するルスターに笑顔を投げかける事で、ハリスはその場をごまかした。

 ルスターの言う通りだ。エイドルードやシェリアのためならば、カイやリタに憎まれようとも辛いとは思わない。ハリス自身も人である以上、哀の感情が湧き上がる事は否定しないが、耐えられないようなものではない。顔も性格もまったくと言ってよいほど似ていないくせに、なぜかエア・リーンに似ている気がするカイに拒絶される事は、少しばかり痛かったが。

「ともかく、細かい事は気にするな。今更私を拒絶する神の御子が増えたところで、変わりはないのだから」

 ルスターは首を傾げた。

「まるでシェリア様もハリス殿の事を拒絶しておられるように聞こえます」

 ハリスが無言によって肯定すると、ルスターは更に続けた。

「とてもそうは思えません。シェリア様はその……ああいったお方ですから、誰かに対して強い感情を抱く事は考えられませんし、それを差し引いても、ハリス殿を頼りになさっているように、私の目には……」

 力強く語るルスターを好ましく思いながら、彼が心からの労わりと信頼を持って述べる言葉を遮るために、ハリスは首を振った。

「ルスター、慰めは心よりありがたく思うが、私はそれを必要としていない。私は傷付くどころか、むしろ喜ばしいとさえ思っているのだ。『ああいったお方』であるシェリア様が、誰かの事を心から嫌悪する事実は、奇跡とも言える喜びではないだろうか?」

 ルスターは肩を落とし、長く息を吐いた。浮かべる笑みは複雑で、ハリスに向ける瞳は、まるで奇怪な生き物を見ているようだ。

「貴方がどんな人物であるか上手く表現する言葉が、私の中からは見つかりません。あえて選ぶのならば、そうですね。逞しい、とでも言えば良いのか」

「褒め言葉として受け取っておこう」

 ハリスは咳払いしてから続けた。

「君へ返す褒め言葉には、善良以上に相応しい言葉は見つからなそうだな」

 いつものルスターならば、すぐに礼の言葉を口にしようものだが、今回はそうではなかった。しばしの間ハリスから目を反らし、何か考え込むそぶりを見せている。

「少年時代ならばいざ知らず、今となってそのようなお言葉をいただいても、素直に喜べるものではないような気がします。多少なりとも嫌味が混じっておられるような」

 ハリスはルスターの肩を叩く事で彼の言葉を否定した。

「何を言う。君のように真に善良な人間に対して嫌味など口にすれば、こちらが惨めになるだけだろう」

「そうでしょうか」

「善良である事はひとつの才能だ。カイ様は今、聖騎士団そのものに嫌悪感を抱いているかもしれないが、君に対して強い敵意を抱きはしないだろう。君が誠心誠意お仕えする分には、気を悪くすまい」

「そう願いたいものです。御身に流れる血が尊いばかりに、重圧を押し付けられる事となったカイ様が、ここで少しでも安らかに過ごせるよう」

 ハリスは無意識に微笑んでいた。ここでカイ個人の幸福を願えるからこそ、彼は間違いなく善人なのだと、心の中で納得しながら。

 少しだけ腫れが引いた頬を手の甲で撫でた後、ハリスは立ち上がった。懐かしさが手伝ってずいぶん長話をしてしまったが、あまり油を売ってもいられない。

「ハリス殿。お忙しいところ申し訳ありませんが、最後にひとつお訊きしたい事があります」

 立ち去ろうとした引き止められ、ハリスは歩き出す事をしなかった。

「なんだろうか」

「エア隊長の事です。今……どうされておられますか?」

 その名を絞り出すためには苦痛を伴ったのだろう。ルスターの眉間には深い皺がいくつも刻まれ、端整な横顔が歪みはじめる。

 ハリスも、ルスターと同じかそれ以上の苦痛を受けていた。エア・リーンの名前には、それだけの力があるのだから。

「私にそれを訊くか」

 苦笑とため息を交えて返すと、ルスターは真剣な眼差しで言った。

「カイ様にお訊きするわけにはいかないと判断しての事ですが、間違いでしたか?」

「いや、正しい判断だ」

 ハリスはゆっくりと目を伏せた。

 名と共に蘇るものは、痛みを増幅する光景だ。魔物狩りジーク――若かりし日の自分たちがエア隊長と慕った男の血液と、魔物の青い血が混じりあって広がる、忌まわしくも鮮やかな色彩。

 誰よりも鋭く剣を振るう右腕は失われ、光を失った瞳は空を見上げ、力のない声が許しを請う、悲しい最期。

「亡くなられた。街の英雄として、トルベッタで手厚く葬られたようだ。私は葬儀に参加しなかったが」

「そうですか」

 呆気ないほど容易に、ルスターは彼の人の死を受け入れた。はじめからある程度の予想はしていたのだろう。だからこそ、ルスターはカイに訊こうとはしなかったのだ。

 ルスターは悲しむ事も喜ぶ事もせず、ただ静かに虚空を見つめた。シェリアを彷彿とさせるほど、感情を失った瞳で。

 ひとりで抱えていればいい事実を口にしてしまったのは、その瞳に急かされたせいかもしれない。

「私が……隊長を殺したようなものだ」

 ハリスの告白に、ルスターは顔を上げる。虚ろであったはず瞳は、一瞬にして心を取り戻していた。

「ハリス殿にエア隊長が殺せるとは思えません。いえ、ハリス殿でなく、他の誰にも」

 責めたてる事も、労わる事もしない口調だった。笑っているようにも見える表情は、悲しそうにも見えて、彼もまた自分とは別のところで複雑な想いを抱いていると肌で感じた。

「エア隊長は、本当に生きるつもりがあったのならば、どんな事があろうとも生き残ったと……そう思います。ですからエア隊長はいつも通り、自分で勝手にそう決めて、勝手に死んでいったのです。きっと」

 柔らかい口調でありながら、強い力の込められた言葉を聞いたハリスは、一瞬呆けたのち、吹き出した。

 エア・リーンについて語り合いながら笑える日が来るとは思っていなかったハリスにとって、そんな自分自身は驚きの対象だったが、ルスターは優しく微笑み、戸惑う様子も見せず、ハリスの反応を受け入れてくれた。

「頭が回らなかった自分が悔しいな。その台詞、ぜひとも隊長に言ってやりたかった」

 ルスターは首を振った。

「私だから好き勝手に言えるのですよ。一切を知らぬまま突然見捨てられ、再会すら許されなかった、私だからこそ」

 エアやハリスに対して腹を立てているとも思える口調に反し、かつて見た事もないほど優しい微笑みで、ルスターは語った。

「話してくださってありがとうございました、ハリス殿」

「私は隊長の死の報告をしたのみだが」

「それでも――17年前から抱き続けていた迷いが、晴れた気がするのです」

 17年前。エア・リーンがすべてを裏切り失踪した年。

 真意を何も知る事なく、ただ隊長を信じていたルスターの困惑は、今でも覚えている。それが時の流れの中で風化する事なく残り続けていたのならば、とても辛い事だったのだろう。

「君は、第18小隊に所属していた事を、誇りに思うか?」

 ルスターの出す結論に強い興味を抱いたハリスは、彼に問いかけた。

「いいえ。ただ、幸せな事だったと、そう思っております」

 いい答えだ、とハリスは思った。

 実に彼らしい、彼が出すべき答えを、彼は正しく導き出したのだと。

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