第三章 神の娘 9
ハリスは呆然と足元を見下ろしていた。
鮮烈な赤、人の身からこぼれ出たばかりの血の色が、眼前に広がっている。それはおぞましい青色の液体と混じりあいながらも、溶け合って新たな色を作る事はけしてなかった。
まだらな色は引き摺られるように先へ伸びていた。ハリスはおそるおそる首を動かし、2色の行く先を目で追う。目の奥には剣が太陽光を反射した際に焼きついた残像がちらついていて、ハリスの視界を不自由にしていたが、それでも。
やがて、辿りつく。どうしても目にしなければならなかったもの。
だが、けして目にしたくなかったもの。
「やめて、くださいよ」
ハリスは呟いた。若かりし日の自分が、若かりし日の彼に語りかけるように。
口元に皮肉混じりの笑みを浮かべたが、目は思う通りに笑ってくれない。もう一度、何か言葉を紡ごうと口を開くが、声は出てこない。
ハリスは剣を投げ捨て、赤と青を辿る。靴の裏に纏わりついた2色が、自身の足跡を刻んでいくが、気にもとめなかった。
辿り着いた先では、剣を体に埋め込んだ魔物が、青い体液を垂れ流しながら力無く倒れていた。それを押しのけようと、ハリスは腕に力を込める。だがその体は大きく、重い。ハリスの両腕では動かなかった。殴り飛ばしても、蹴り飛ばしても、巨体を揺らすがせいぜいで、その場から転がる事すらしてくれなかった。
「隊長……エア隊長!!」
体中が生温かい青に染まっていき、人間の血液とは違う異臭に噎せ返りそうになる。それでもハリスは、叫び、動き続ける。
止められるわけがなかった。魔物の遺骸の下には、人の体が横たわっているのだ。魔物の牙に食い千切られて右腕を失い、突進してくる勢いを殺しきれず体を地面に叩きつけられ、別方向から切りつけて来る剣を避けきれず背中に傷を負い、血を流し続ける男が居るのだ。
「隊長っ! なんで、こんなっ……!」
青い液体に手を滑らせ、体勢が崩れる。同時に、足元に広がる液体に足を取られたハリスは、その場に膝を打ち付けた。
瞬間、目が合った。ハリス自身の乾いた瞳と、優しく細められた瞳が。
人の精神では耐え難い激痛をその身に負っているだろうに、なぜ、そうも穏やかなのか。もうすでに、痛みなど感じていないのだろうか。
「ハリス」
先ほどまで剣を合わせていた相手が発したとは思えないほど穏やかな声に名を呼ばれ、ハリスは手を伸ばす。自身に向けて伸ばされた、赤と青に汚れた、震える左手に。
硬く、小さな傷がいくつも刻まれた手だった。望む生を生きるため、追っ手から逃げるために、人と、あるいは魔物と、戦い続けた履歴が刻まれていた。息子への愛情のひとつの形がそこにあり、ハリスはその手を強く握り締める。
「今更、俺は、選べなかった。お前の……エイドルードの言葉に、従う事など」
力の無い声は、懺悔のようにも聞こえた。
「判ってます。エア隊長は、そういう人だった。ずっと、ずっと」
「だが……お前が、選んだんだ。きっと、正しいんだろう」
「……違……俺は、隊長」
目の前の男と戦う事に、感傷に浸る事に精一杯で、周囲に目を向けられなかった。魔物が近くに迫っている事にも気付かず、剣を振り下ろす事しか考えられなかった。
挙句、剣を交えるはずだった男に救われながら、救い返す事もできない、無力で、愚かな人間。それが自分。
正しくなどない。
正しいわけがない。
ハリスの心は叫び続けたが、言葉は胸と喉に詰まって音にならなかった。
「誰にも、許されなくてもいいと、思っていた」
掠れたジークの声が、ハリスの中で滞っていたものを開放した。
「たい、ちょう」
横たわるジークの上に、次々と雫が落ちていく。彼の体に纏わりつく赤と青が、少しずつ洗い流されていく様が、徐々に歪んでいった。
「だが、本当は、ずっと……許されたかったのかも、しれない。リリアナと、カイと……できる事なら、お前に」
どんな障害があろうとも、どんな苦悩にまみれようとも、自分が決めた道を進む事を諦めなかった男が、静かな瞳に空を映しながら語る。
もう、何も見えていないのかもしれなかった。彼が感情を伴わず空を見上げた事など、ハリスが知る限り、ただ一度としてなかったのだから。
「なんですか。これは贖罪のつもりなんですか。だとしたら、貴方は大馬鹿です。俺は、いつだって、貴方の事を許していたのに」
一度は夢見た事がある。彼が大人しく大神殿にカイを任せてくれていればと。聖騎士に戻り、カイの護衛隊長としての任についてくれていれば、と。
そうであったなら、今よりもましな結果になっていたかもしれない。何より、若かりし日にハリスが抱いていた小さな夢が、実現したかもしれない。
だが彼は、そうはしなかった。ハリスと道を違えるどころか、ハリス自身が進まねばならない道の障害になった。
それでも恨んでなどいない。ただ、嬉しかったのだ。この男が、自分とはけして相容れない存在であり続けてくれた事が。
「そう、か……」
ジークの震える口元に笑みが浮かぶ。
その唇は二度と音を発しなかった。歪む視界でははっきりと判らなかったが、最後に「リリアナ」と、「カイ」と、かたどっていた気がした。
両手で包み込んだ手から力が失われていく。
耐え切れず、ハリスは固く目を伏せた。
頬を伝う熱を自覚する。それによって、ジークに降り注ぎ続けていた雫は自分の涙だったのだと、ようやく気付く事ができた。
「ずるいですよ……隊長」
もう応えてくれる事はないのだと、理解はしている。それでもハリスは語りかける。
「結局、一度も俺に勝たせてくれなかったんですね」
口ではそう言いながら、ハリスは己の心が満たされているのだと気付いていた。
そうだ。これでいいのだ。
エア・リーンが、自分などに負けていいはずなど、なかったのだから。




