第五章 砂漠の神殿へ 3
周囲に気を配り、感覚――主に聴覚を駆使しながら道を進んだエアは、再び大扉と対面する事となった。
不幸にもなのか幸いにもなのか、気絶させた少女を最後に、迷宮内で見かけた者は居ない。つまり、残りの11人は、すべて神殿の敷地内で構えているという事だろう。
エアは深呼吸してから扉を仰いだ。
『すべての恵みは天上より授けられる』
神聖語を紡ぐと同時に、ランプの明かりを消す。
重々しく開かれる扉の隙間から、強い太陽光が差し込んできた。日差しは砂漠で浴びていたものと変わらないはずだが、不思議と柔らかく、刺すような痛みはない
エアは素早く鞘から剣を引き抜いた。自分ならば、この扉の前に武装させた侍女たちを待機させておくと考えたからだ。暗闇から明るい陽の元に出たばかりの、視力が弱ったところを狙った方が、事を有利に進められるだろう。
しかし扉が完全に開ききっても、誰かが飛び込んでくる様子はない。仲間である可能性を考慮しての事かもしれず、エアは警戒しながら扉の外に出てみたが、そこに人の姿はまったく見つけられなかった。
エアは辺りを見回す。足元は砂ではなく、壁の向こうが砂漠である事を考えれば充分みずみずしいと言える土が広がっていて、植物たちがあちらこちらで成長している。身を隠す場所ならいくらもあり、何者かが身を潜めているかと疑ったが、その気配は感じられない。
太い木に駆け寄って、幹に身を隠してから、一息つく。
少しだけ休もうと木に背中を預けたひょうしに、伸びた木々の向こうに白亜の建物が見えた。光を浴びて眩しく輝く白に、捜し求めていた神殿が迫っている実感を得ると、体の中心からこみ上げてくる感情で息が詰まった。
「名を」
深い年輪が刻まれた声がエアの耳に届いたのは、木の幹から背を放した直後だった。
近付かれている事に気付かないとは迂闊だった。足場が土では、石畳であった迷宮より足音に気付きにくいのは確かだが、だからといって接近を許すとは、油断以外の何者でもない。
エアは静かに振り返る。声と同じように、年月の重みを身に刻みつけた老女が、毅然とした態度でそこに立っていた。
相手が女性というだけでやり辛いというのに、年配者となれば余計で、エアは眉を顰めた。
老女の他には誰も居ない。老女までの距離は、10歩ぶんもない。素早く駆け寄って、意識を奪うが得策だろうか。
「青年。名を、教えてはいただけませんか」
拳を握り締めたところで、エアは違和感を覚えた。
老女の周りには誰も居ない。誰かが隠れている気配もしない。名を尋ねてくるという事は、エアが侵入者である事を察しているのだろう。
だというのに老女は、仲間を呼ぶ様子も、エアを糾弾する様子も見せないのだ。ただ純粋に名を知りたい様子だった。
いや、そう油断させた上でエアを捕らえる作戦なのかもしれない。見ただけでは想像も及ばないなんらかの力で、エアを諌める自信があるのかもしれない。
「なぜ、名を聞く?」
疑えばきりがない。けれど、どうしてもすべてを疑いきれず、エアは問い返す。
すると老女は首だけを傾けた。声を受け止める事でエアの居る方向を定め、まっすぐに見上げてきたのだ。
「わたくしが存じあげる名であればと、期待しておりますゆえに」
老女の言葉に、見えていないと知っていながら、エアは小さく首を振る。
「残念だが、俺は名が知れているような人間ではない。こんな辺境の奥地となれば、なおさらだ」
「貴方がご高名な方と期待しての事ではありませんが」
「ならば、なぜ――」
駆ける複数の足音が、エアの声を遮った。
エアは反射的に木の幹に身を押し付ける。すでに老女に居場所が知れているのだから、隠れる事に何の意味もないのだと気付いたのは、隠れたすぐ後だった。
「メレディア様!」
中年の女性が呼んだ名の持ち主が老女である事はすぐに理解した。
メレディアは悠然とした態度で振り返り、落ち着いた視線を中年の女性に向ける。
「騒がしい事。どういたしました」
「先ほどリリアナ様が、ふたつめの扉が開いたとおっしゃりました。何者かがここを通られませんでしたか?」
エアは自身の心臓が跳ねる音を聞いた。
ちらりと向こうを覗き見る。老女以外には中年の女性がふたり、エアと同年代の女性がふたり。老女と合わせれば5人だが、若いふたり以外は武器も持っていない。
飛び出すと当時に手前の女から槍を奪い取り、それで隣の女の腕を打ち武器を落とす。そこまでやれれば、あとはどうにでもなる――脳内で取るべき行動を想像し、手前の女が背中を向ける瞬間を待っていたエアは、地面を蹴る直前、
「わたくしを目にしたとたん驚いて、迷宮の中に戻って行きましたよ」
老女の予想外の発言に、無言で息を飲んだ。
「まあ。では、本当に不審者だったのですね? 王都からの使いの者ではなく」
「ええ、そのようです。今追えば、先んじた者たちとで挟撃が可能かもしれません」
「判りました。行きますよ、皆さん!」
先頭に立つ中年の女性の声に残りの3名が応え、4人は老女を残して扉へと向かって行った。彼女たちが合言葉を唱え、扉を潜ると、その場にはエアと老女だけが残される。
エアは木の影から姿を現すと、メレディアを睨むように見つめた。
老女はエアの視線に臆する事をしなかった。長い年月を生きた者だけが持つ、穏やかで柔らかな芯の強さでエアの眼差しを受け止め、小さく微笑むのみだった。
「名を、教えていただけますね」
静かな声は、それでいて抗えない力を持ち、エアを捕らえた。
「エア。エア・リーンだ」
偽名を名乗るとの選択肢がまだ残っていたが、エアは素直に本名を伝えた。それが、エアを庇ってくれた老女に対する、せめてもの誠意に思えたからだった。
老女は浮かべる微笑みに深みを増した。エアに対する警戒心を薄れさせたように見え――同時に、乾いた瞳がうっすらと潤んだようにも見えた。
「お待ちしておりました」
「何を」
「貴方をです。エア・リーン殿」
なぜ、と問いかける前に、メレディアはエアに背を向けていた。他の侍女たちと変わらない、加齢による衰えを感じさせない美しい姿勢で、ゆっくりと歩き出す。
エアはもう一度あた辺りを警戒してから、なるべく人目に付かないよう木の陰に隠れながら、メレディアの後を追った。
土の表面に浮かぶ砂や落ち葉が、乾いた風に舞った。少し離れたメレディアを見失いそうになり、エアは足を速める。
「俺が何をしに来たか、知っているのか」
エアは老女に尋ねた。低く、静かに。
「司教様や聖騎士団長様、国王様やどこぞの領主様のお使いでいらっしゃったわけではありませんね。貴方は、貴方自身の意思にのみ従い、ここまで来られた」
「判っていて、なぜ」
「わたくしは貴方を待っておりました。もう、40年になるでしょうか」
「40年では、まだ俺が生まれる前だ」
「待っておりましたよ。貴方のような方を、ずっと」
それきりメレディアは、神殿を目の前にするまで、ただの一言も口にしようとはしなかった。
エア自身、老女の背中が語る途方もない悲哀に、問いかけを投げかける気力が湧いてこなかった。彼女が自分にとって敵か味方を冷静に判断する必要があるだろうに、それもできなかった。
おそらくエアは、頭で理解するよりも早く、心で知ったのだ。この老女が、エアの味方である事を。
「少し、ここでお待ちください」
神殿が目の前まで近付くと、木々に身を隠したエアに振り返り、メレディアは言った。
「リリアナ様をお守りする侍女が数名、神殿内に残っております。わたくしは彼女たちをリリアナ様から引き離しますので」
エアは表情を変えなかったが、手のひらが触れていた木に、動揺が伝わった。幹に僅かな力が加わり、それは振動となって枝先に伝わり、葉を揺らす。
擦れ合う葉を見上げて、メレディアは微笑んだ。
「敷地内の警戒にあたっている者もおりますから、中には3名しかおりません。3名程度ならば、少し腕に覚えのある方ならばものともしないのでしょう。ですがわたくしは、何も知らない娘たちの身を、できる限り傷付けたくないのです」
「それは、俺も同じだ」
「そうですか。ならば良かった。逸る気持ちもあるでしょうが、抑えていただけますね?」
エアが肯くと、返すように老女も肯き、エアをその場に置き去りにして神殿の中へと姿を消していく。
閉じられた扉は重く、暗く、待ち人であるエアに冷たかった。
やはり罠なのではないか、あるいは2度と扉は開かないのではないかと、不安に駆り立てられたエアは、自身の膝に爪を立て、緩慢な時の流れに対する苛立ちを解消する。僅かな痛みは、乱れる一方の思考を落ち着かせてくれた。
エアは静かに深呼吸を繰り返す。木に体重をかけ、目を伏せ、来るべき時を待った。
そうしているうちに扉が開いた。見覚えのない顔の女性たちが3名、武器を手にして神殿を飛び出していく。エアには見向きもせず、迷宮の入り口へ向けて一目散に走り去っていった。
3人が飛び出してから少々間をあけ、メレディアが扉から顔を覗かせる。真っ直ぐにエアを見つめるその視線が、「来い」と語っていた。
エアはあたりに人気がない事を確認してから、木の陰を飛び出し、神殿の入り口へと駆け寄った。
「涼しいな」
神殿の中の空気は、熱を帯びた体を心地よく冷やし、扉一枚向こうで燦々と輝く太陽の明かりを忘れさせてくれた。おそらく、ずっと生活をするには快適な温度なのだろう。外と違って程よい湿気を帯びた空気が、肌を優しく撫でてくれる。
「リリアナ様は奥の部屋におられます」
メレディアは簡潔にそれだけを言って、閉じた扉の前に直立したまま動かなかった。見張りの役目を請け負うつもりなのかもしれない。
「貴女も、狂っているのか?」
まだ状況が理解できないせいだろう、混乱を抱えたエアは無意識に、脳裏を巡った中から最も礼儀に欠いた問いを口にした。声に出して空気を伝った瞬間、口にしたエアの方が驚いてしまったほどだ。
「ええ、きっと」
だがメレディアは機嫌を損ねた様子を見せる事なく、微笑みを浮かべたままで肯いた。
「きっと、そうなのでしょう。わたくしが女神様にお仕えするようになって50年近くの時が過ぎております。その間、何度女神様の代替わりを見届けてきた事か」
穏やかで優しく温かな、それでいて内に闇が溢れるその微笑みに、エアは懐かしさを覚えた。なぜだろうと少し考えて、アシュレイの浮かべていた笑みとよく似ているのだと思い至った。
「任期を過ぎた女神がどうなるかご存じないでしょう?」
「死を迎える事は知っている」
「なぜ命を落とされるかは?」
沈黙を産む事で知らないと伝えると、メレディアは続けた。
「女神のお役目は、尊き祈りによって天上の神のお力を地上に届けるだけではありません。女神は天上の神の妻。その胎内に、神の子を宿すのです」
エアは目を細めてメレディアを凝視した。
「けれど人でしかない母体は、エイドルードの力を受け継いだ子に耐え切れず、臨月を待たずしてその身を醜き肉塊へと変えます。そして充分に育つ事なく母体を失った子は、母の後を追うのです」
メレディアは一呼吸挟んでから続けた。
「5年に一度、無残に果てた母子の遺体を始末する事も、わたくしたちの仕事のひとつなのですよ」
「ふざけるな!」
耐え切れず、エアは叫んでいた。老女の背中の向こうにある扉に、拳を叩き付けながら。
「そんな事……神ならば、人に何をしても良いと言うのか!」
腹の底から湧きあがり、全身を震えさせる怒りの矛先は、エイドルード以外にありえなかった。しかしエイドルードはここにはおらず、乱暴な言葉は、鋭い視線は、メレディアへと降りかかる。
「エイドルードは御子を欲しております。それは、この大陸の生きる我らのためであるのでしょう。けれど、けれど――何も知らない女性たちを騙す事から逃れ、あの惨い屍から目を背けられるのならば、わたくしは……!」
堪えきれなくなったのか、メレディアは空ろな瞳から静かに感情を溢れさせた。深く皺が刻まれた頬を伝った涙が輪郭をなぞり、雫が床に落ちる頃、老女は力無く崩れ落ち、その場に膝を着いた。泣き崩れたというにはあまりに静かすぎて、声や嗚咽を上げるほどの気力が彼女には残されていないのだろうと、エアは直感で理解した。
哀れだと、哀れな老女だと、エアは思った。
無残な未来を知っていながら歴代の女神たちを見捨て続けた彼女に、憎悪や憤怒を叩き付けても良かったのかもしれない。エアのような存在を待ち続けていたという事は、今回もエアが来なければ、リリアナとその子供の遺体を片付ける心づもりでいたのだろうから。
だが責められなかった。零れ落ちる涙が、神への反逆だと知りながらエアを導く行動が、彼女もエイドルードの犠牲者である事を伝えてきたからだ。
きっと彼女も若き日は心から神に祈り、女神に仕える役職に憧れと誇りを抱いて、ここに来たのだろう。その誇りが、年月と共に少しずつ磨耗した結果が、今の彼女なのだろう。
エアは力強く拳を握り締めると、走り出した。
メレディアに礼を言う事も、詫びる事もしない。それらは、自ら罪に穢れる勇気がない老女の代わりに、彼女の望みを叶える事で充分だと知っていた。
「リリアナ……」
リリアナ。
リリアナ、リリアナ、リリアナ。
声に出して一度、心の中で何度も、砂漠の女神と呼ばれる女性の名を呼ぶ。
5年間、何よりも誰よりも求めた、大切な者の名を。




