第三章 女神ライラ 4
案内されるがままエアたちは、まず風呂に入って埃や汚れを落とし、用意された清潔な服に着替える。
旅先であろうとも、聖騎士の名に恥じないよう、精一杯身なりを整えていたのだが、広い浴場でたっぷりの湯や香りの良い石鹸を使って体を洗う機会や、綻びも皺もない真新しい服を着る機会はまずなかったので、妙に緊張してしまう。与えられた客室はひとり部屋なのだから、人目を気にせずくつろげば良いはずなのだが、ついつい背筋が伸びてしまった。
「すごいですよね、服。ぴったりですよ」
ハリスが肩回りや袖を主張しながら言った。
「余裕のある形状ですから、ある程度ごまかしはきくんでしょうけど。どんな人が来るかも判らないのに、全員に対応できるよう、色々なサイズを用意してたんですかね」
「そうだろうな」
「俺がぴったりなのは判りますよ。聖騎士の中じゃ標準サイズみたいなもんです。でも、隊長の身長にも合わせられるなんて、準備万端にもほどがありますよね」
「そうだな、ところで」
感心して語り続けるハリスに雑な相槌を打つと、エアは寝台に腰かける。それから首を傾け、部屋の中をゆっくりと見回した。
まずはエアに語りかけるハリスに、続いて壁際に立つジオールに、最後に入り口近くに立つルスターと、順に目が合った。
「せっかくひとりずつ部屋を与えられたんだ。ゆっくり自分の部屋で休んだらどうだ。食事の時間になったら迎えに来ると、女官長が言っていただろう」
ひとり部屋と言っても、エアが両手足を広げて休める大きな寝台に、荷物がしまえる棚や箪笥、書きものができる広い机、余裕をもって食事が取れそうなテーブルと椅子が2脚、ゆったり休めるソファまであって、さらに歩き回れる余裕があるほどの広さだ。彼らが居て狭いとか、邪魔だと言いたいわけではない。
しかし、エアは思う。彼らは長い旅の最中、ずっと上官と顔を突き合わせねばならなかった。いくらその上官が年若く、細かい事を気にしないエアだからと言え、やはり気を使わずにはいられなかっただろう、と。自分だけの空間が与えられ、エアと離れて行動する事が許された今くらいは、心身ともにゆっくり休めば良いのではないか、と。
「いや、そうなんですけど。どうも落ち着かなくて、ですね」
ハリスが言うと、他のふたりも肯いた。
「現実離れしていると言うか、とにかく不思議な雰囲気ですよね、ここ」
「とりあえず、どうせ居るなら座ったらどうだ」
「あ、失礼します」
エアが手近な椅子やソファを勧めると、まずハリスが腰を降ろし、他のふたりも続く。
「言いたい事は、判る」
本音を端的に言われる事で、エアは彼らがここに滞在したがる理由を薄々理解した。エア自身、彼らと同じ気持ちを抱えていた。
これまで目にしてきた、普通の人々が暮らす大地よりも、はるかに富んだ土地。老朽などという言葉とは縁遠い、輝くばかりの神殿。人の領域を超えたとしか思えない、神秘的な美しさを持つ、女神ライラ。
ひとりで思い起こしていては、夢や幻だったのではと疑ってしまうそれらを、現実なのだと確認するために、同じものを見た者たちと語り合いたいのだろう、ハリスたちは。
「噂通り、美しい方でした。外見だけでなく、内からにじみでる光までもが」
半ばひとり事のように、ジオールが呟いた。起きていながら、まるで夢を見ているかのような眼差しで。
「噂通りと言うか、噂以上と言うか」
「想像以上だったな。非礼かどうかなどと考えもせず、思わず見惚れてしまった」
「ええ、ええ、そうです!」
興奮しているのか、必要以上の大声で答えながら、ルスターがしきりに肯く。膝の上においた拳を、力強く握り締める。
「まさに女神と呼ばれるべき、神々しい雰囲気の方でしたね。さすが天上の神に選ばれる女性です」
「……と、いう事は」
何か驚くべき発見をしたのか、ハリスは真顔で虚空を見つめる。ルスターは律儀にハリスの視線を追っているが、当然その先には何もない。
「砂漠の女神様も、同じくらい美しい方なんでしょうか」
ハリスの発言のせいで、部屋の中には沈黙が訪れた。特に森の女神の美しさに一番衝撃を受けたらしいルスターは、目を見張ってハリスを凝視する。ジオールは表情には出さないが、内心うろたえているようだった。
彼らがそう期待するのは当然だろう。同じように神に選ばれ、同じように厳重に守られた女神ならば、同じように美しいに決まっていると、何も知らなければ思い込んでしまうだろう。エアとて、彼らと同じ立場なら、そう考えていたはずだ。
しかしエアは、砂漠の女神リリアナの容姿を知っている。
誰よりも輝かしく愛らしい、と感じてしまう個人の感情を封じ込め、あくまで冷静に判断するならば、「田舎の村にしては可愛らしい少女」だ。単純な容姿の優劣では、森の女神と同格ではないだろう。
それを事実として認識しているからこそ、どう反応して良いか戸惑ったエアは、無表情のまま硬直するしかなかった。
「隊長?」
沈黙の長さを不審に思ったか、ルスターが首を傾げてエアの顔を覗き込む。
「いや。叶うならばいつかお会いしてみたいものだなと、考えていただけだ」
「エア隊長なら、いつか行けるんじゃないですか?」
「しかし現女神リリアナ様の代での補給任務は、来年だけだろう。再来年、次代の女神様を神殿にお連れする時でもお会いできるかもしれないが、それでも機会はもう2回がしか残されていない。難しいだろうな」
「そうか。仮に将来派遣される事になっても、リリアナ様の代ではない可能性が高いって事ですね。それは残念」
自分の事でもないのに、心底無念そうにハリスが肩を落とした。
その様子が愉快で、ルスターが小さく笑い声をもらす。エアがつられて笑みを浮かべると、ハリスは不服そうな視線をエアとルスターの間で泳がせた。
笑う事で緊張がほぐれると、緊張で忘れかけていた疲労が押し寄せてきた。体を起こしている事も億劫になり、エアはそのまま寝台に倒れこむ。
上体が、羽布団に埋もれた。柔らかな感触とシーツの爽やかな肌触りが心地良く、思わず目を伏せる。
「珍しいですね」
ハリスが短くそう告げる。
はじめ、それはルスターかジオールに対して投げられた言葉だと思っていたエアは、構わずそのまま横になっていた。しかしふたりが返事をする様子がなく、エアは身を起こした。
3人の視線はエアに集中していた。どうやら、ハリスの言う「珍しい」は、エアの事だったらしい。
「私が、か?」
「はい」
ハリスは大きく頷いた。
「大神殿を出てから今日まで、けっこうな日数一緒に居るのに、隊長が姿勢を崩すところ、見た事ないですから」
「そうだったか?」
「自覚してないんですか。それじゃあ疲れるでしょう」
ハリスは穏やかな笑みを浮かべ、ルスターが小さく繰り返し肯く。
どうやらエアは、自分で思っていた以上に神経を張り詰めさせていたようだった。神に対する裏切り行為を企んでいる事を悟られないために、真面目で立派な聖騎士を装っていた事が原因だろうか。
「隊長はこんな事で怒らないと思いますから、正直な気持ちを言わせてもらいますけど、結構不安だったんですよ。入団1年目、まだ20歳にもならない方の下に就けって辞令をもらった時は。隊長は武術大会に優勝されましたが、それで証明されるのは剣の腕だけですからね。むしろ剣術が優秀だからこそ、それ以外のところで頼りない可能性もある」
「ハリス!」
ジオールが声を荒げて窘めようとするが、ハリスはやめなかった。
「でも隊長はすぐにそんな不安を払い除けてくれました。使命を果たす事に迷いがないですし、俺たちの事を考えてくれてるってのも判るし、頼りがいがあります。ちょっと無愛想な所があるし、凄く優秀な方なのに、人使いが下手だったり親しみやすいところもあって」
「すまないが、ハリス。ひとつ聞く」
「はい」
「もしかして俺は今、褒められているのか?」
「あ、隊長って、本当は自分の事俺って言うんですね」
エアの問いに答える事なく、からかうような口調でハリスがそう言うので、エアは慌てて唇を引き締める。
そんなエアの様子を真っ直ぐに眺め、ハリスは勝ち誇った笑みを口元に浮かべた。
「もしかしても何も、全力で褒めてるじゃないですか。どうして疑問に思うんですかね」
「ところどころに皮肉がこもっているように思えたからだ」
「あれ? そうですか? そんなつもりはなかったんですが」
ハリスは困惑を顔に浮かべる。表情がめまぐるしく変わる男だなと、エアは半ば呆れた。残りの半分は、この正直で気さくな男に好感を抱いているのだと自覚していたが、素直に認めるのはしゃくだった。
「何が言いたかったんだったかな、そうそう、俺は……俺たちは?」
ルスターとジオールの顔を覗き込み、2人が肯くのを確認してからハリスは続ける。
「隊長を信頼して着いて行きますから、あんまり無理しないでくださいねって、そういう事です。命かかっているところならともかく、普段はもう少し油断したっていいと思いますよ」
再びハリスが穏やかな笑みを浮かべた。
エアは一瞬戸惑った後、深い息を吐く。
立派な聖騎士であるためには、聖騎士になると決めてから4年足らずという短い時間と、出自が農民である事実は、少なからず不利だった。それを覆すために無理をして、その結果部下に心配されてしまうとは、なんとも情けない。
「そうだな。そうさせてもらおう」
「はい」
「と言う事で、出ていけ」
「はい?」
エアは再び羽布団に身を沈めた。
「疲れたから、迎えが来るまで少し休む。お前たちが居るとうるさくて眠れないから、出ていけ」
「冷たい命令ですね」
「命令じゃない。お願いだ」
エアが寝台の上を転がり、部下たちに背中を向けると、小さく吹き出す笑い声や、気の抜けたため息が耳に届く。
「そういう事なら、了解です」
「失礼しました!」
「ごゆっくりお休みください」
背中の向こうから、3人が立ち上がり部屋を出て行く音が聞こえた。できる限り音を立てまいとする、静かな足音と、扉の開閉の音。
扉を閉めてすぐは、まだかすかに足音が聞こえていた。それすら遠ざかり、完全なる静かさが訪れると、エアの胸の内に焼けつくような想いが広がりはじめる。
苦い、とても苦い。
苦痛に耐えようと、エアはゆっくりと目を伏せる。無意識に眉間に皺が寄る様子が、触れずとも、鏡を見なくとも判る。
まったく、忌々しく、腹立たしい。
その対象は部下たちではなく、自分自身だ。
「くそっ……」
エアは頭から布団をかぶり、吐き捨てた。
彼らがエアに寄せる信頼に偽りは無さそうだった。同様に、エアも彼らを信頼しはじめている。
ジオールは真面目で、融通がきかないところもあるが、頼んだ事は思った通りにやり遂げてくれる。ルスターは少々危なっかしい部分も見うけられるが、いつも一生懸命で、周りの気分を明るくできる。ハリスは誰よりも周りを気遣ってくれていて、空気を損ねる事なくこの長旅を続けられたのは、彼の存在あっての事だ。徐々に本性を現してきたせいで、たびたびこちらの調子を崩され、扱い辛くなってきているが、それを本心から不愉快と思ってはいない。
隊長という、僅かながらも人の上に立つ者としては、こうして下の者と信頼を築ける事は喜びなのだろう。
だがエアは、素直に喜ぶ事などできそうになかった。そう遠くない未来、彼らを裏切ると決めているから――彼らの命を奪うわけでも、その身から流血を誘うわけでもないが、彼らがエアを隊長として信頼する心を砕く事は間違いないだろう。
いちいち気に病むな。
そう、エアは自分に強く言い聞かせる。
部下たちを裏切る。砂漠の神殿に勤める21人の女官たちと戦う。そんなものは一角にすぎない。地上に生きる者にとって大切な女神を、奪って、独り占めしようとしているのだ。目に見える形でも、見えない形でも、恨みも憎みも抱いていない相手を傷付ける事はなど、この先いくらでもあるはずだ。それは、はじめから判っていた事だ。
だというのに、いちいち気にして胸を痛める己の甘さが、エアは不愉快で仕方がなかった。リリアナを失った日に決めた覚悟は、脆弱なものではない。何よりも強固で、揺るぎないもののはずだというのに。
「リリアナ」
忘れられない、忘れるつもりもない少女の姿は、エアの想い出の中で、16才から成長する事はない。
蘇る彼女の笑顔はいつも明るくて、温もりと幸福を与えてくれるというのに、徐々に歳が離れていく事が悲しい。
その感情を糧にして、エアの内にある願いを、より強く燃え上がらせた。
「リリアナ」
幾度も幾度も繰り返し、愛しい少女の名を呟く。
その響きこそが、苦痛を和らげる優しい呪文。
部下たちを、聖騎士団を、国中を裏切って、それでも望みを果たすために、必要な力だった。




