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Nについて

作者: 宮ノ木 渡


私の友人にNというものがいる。高校時代に田舎で初めて知り合い、その後、東京の同じ大学に進んだことから、何かと言えば連絡を取り合う仲だった。大学生時代など、Nは小言のように私に言ったものだ。


「間違え、ミステイクというものをぼくは許すことができないのだ。それが能力の欠如、あるいは不足から来るものであればまだ可愛げがあろう。しかし、能力十分な人間がする気の緩みや怠慢、あるいは慢心による失敗には目も当てられない。ぼくにはそれが信じ難いし、どうしようもなく許し難いのだ。堅牢なダムだって、たった一点のひびから決壊することがあるのだから、よくよく注意しなくちゃいけない」


そう言う時のNは決まって神経質そうな、張り詰めた表情をしていた。


Nの矛先はいつも、出来損ないの人間に対してではなく、有能な人間に対して向けられた。その切っ先が一層鋭くなるのは、テレビニュースで政治家の汚職の話題が流れる時だったが、身近なところでは教授連中の些細な言い間違えなどにも及んだ。そしてその考えを別段優秀でもない私にさえ向ける時のNの主張はこうだった。


「ぼくから見れば君は余程優秀な人間なんだろう。昔から苦労もせずに中の上程度の成績を維持している。しかし、それはある種の怠慢と言えるんじゃないのか?つまり、ぼくが言いたいのは、君はやればもっとできるというのに、その能力を隠して平々凡々と生きているということだ。学業だけに限らんのだよ。人間関係にだって、なんにだって、実際君が本気で臨んでいるところを見たことがない。ぼくに言わせれば、それは君の怠慢だ。君のことを買い被り過ぎているだろうか?」


大抵の場合、私は過不足のない努力というものを信条にしているという屁理屈でNに反論を試みたが、通用しないことの方が多かった。のらりくらりと日々を過ごすこと、必要な時に必要なだけの力を注ぐことに何も悪いことなどないではないか。そのような主張も、いや、そのような主張をすること自体がNにとっては怠慢ということになるのだろう。   


私の意見を言わせてもらえれば、なるほどNは確かに努力家だった。人並以上の能力を持ちながら常に努力を怠ることはなかったし、その結果、大学でも優秀な成績を残し、奨学生に選ばれるほどだった。そんなNからしてみれば、私などの努力は大したものではなかったのかもしれない。

Nが私を褒める時にはいつだって、真剣な調子の裏に少しだけ皮肉が込もっていることに私は気が付いていた。しかし、私はNの悪く言えば人を見下したような態度を見てもなお、友人としての関係を続けていた。Nの性格は高校時代から知っていたし、大きな問題があるようにも思えなかったからだ。また同郷の友人というものは、東京の溢れんばかりの人々の中では貴重な存在だったのだ。


当時私が住んでいたボロアパートの一室に、Nはなにやら落ち着かない様子でやってきたことがあった。夏の定期考査が一段落したタイミングで、酒を飲み交わす約束をしていたのだ。


「もう何回も訪ねるのに、君の部屋は落ち着かないな」


だったら店で飲めばいい、と私は言ったが、結局は金がないために安酒を誰かの部屋で飲むことになるのだ。Nは私の言葉に対して何も言わずに、いつも通りに部屋の中を見回すと壁際の本棚を眺め始めた。上から下まで一通り物色した後で、


「君はニーチェなどは読まないのか?」


と驚いた調子で言った。私は理工学部の環境生物学を専攻しており、哲学書はそれまで読んだことがなかった。読むのであれば小説だ、と私は言った。


「ふむ、しかし小説の中にも哲学は現れるだろう。哲学者が小説を書くことだって珍しいことではない、サルトルみたいにな。まぁ強要することではないか」


言ってから、ようやくNはテーブル近くの座布団に腰を下ろした。私はNの部屋の本棚を見たことがあるが、そこには法律学、歴史学、経済学、政治学、宗教学、それに哲学書等が整然と並んでいた。本にかける金には糸目をつけないようだった。Nの専攻は法律学である。

簡素なグラスと猪口をそれぞれテーブルの上に置き、酒を注いだ。わたしはビールを飲み、Nは日本酒を飲む。つまみなどはないが延々と同じ酒の杯を重ね、酔っぱらうことができれば上出来、といった飲み方をした。夕暮れ時のようやく涼しくなってきた時間帯、網戸を張った窓からは火照った頬に心地良い風が滑り込んでくる。私の方で上機嫌になるころ、Nはまだ飲み足りない風だった。実際Nが酔っぱらってへべれけになるところを私は一度も見たことがない。


「つまり、それは自尊心の問題なんだよ。酒に飲まれて面倒をかけるということを、ぼくの自尊心が許さないのだ」


そう言うNに対して、私は酔っぱらったふりをして、君が酒豪であるということを認めよう、などと適当なことを言った。真面目そうに酒を飲むNをからかってみたくなり、空になった猪口に酒を注いでやりながら、私はこんな時にしかできない下世話な話を切り出した。つまりは、異性交遊についての話である。私にはNに女の影というものが何一つ見受けられなかったから、一度訊いてみたいと思っていたのだ。

訊くと始めにNはいつもの見下したような態度を取ったが、酒の力がそれをいくらか軟化させたように見えた。


「そんなことが知りたいのか?」


存外、真剣な調子で言うものだから、私の方が気圧される格好になった。私はNの久しく見ない真剣な表情に見とれ、酔いに任せてにやつきながら頷いた。


「君とそんな話をするとは思わなかったな。しかし、面白い話などできやしないよ、ぼくにはね。君の方が浮いた話は多いような気がするけどな」


私はNがこの手の話をしたがらないことを知っていたが、珍しく弱気な調子で話をするNを見て、内心で驚いていた。


顔は上気しているのに身体の芯は冷めていくのが自分でわかった。つまり私は、酒を飲みながらもNを注意深く観察していたのだ。手酌でビールを注ぎながらNの言葉に対してため息をついた。

Nは平均的な日本人と比べれば身長はかなり高く、また痩せこけているわけでもなかった。むしろ筋肉質な身体をしていたし、顔だってそんなに悪くはない。面長の輪郭に太い眉毛と切れ長の目、つまりは昭和の舞台俳優のような顔をしているから、若い女には騒がれないが、齢を重ねた女性には人気がある。需要のあるところを狙えばそれなりの成果は出るだろうに、Nはまるで自分というものに気が付いていないようだった。


「ぼくにはね、女性経験というものが一度もないのだ。自分では恥ずかしいとも思っていないのだが、あまり公に言う必要もないだろうと思って、黙っているんだがね。しかし、君にそんな話をするとは思わなかったな」


酒のせいか、それとも羞恥のせいか、Nの頬と額に赤味が差している。あるいはいくらか酔いが回ったのかもしれないな、と私は思った。


「男兄弟で育ったから、女というものをそもそも得体の知れないものとして認識しているんだよ。君には全然わからないことかもしれないが、なんだか、女の嫌な噂ばかり耳にするものだから、わざわざ近寄ろうとも思わんのだ。何よりもぼくの一生の伴侶に足る女を見つけなければならないわけだから、慎重にもなるというものだ」


Nは数か月前に二十歳を迎えていた。それにしてはずいぶん純朴なことを言うものだと思った。それにしても一生の伴侶に足る女、とは大きく出たものだ。私はNが人間関係を精査するためにわざと偉そうな態度を演じているのではないか、と時折疑うことがあった。自分より能力の劣る人間を振るいにかけているのではないかと。しかしNは思ったことを正直に話しているように見えた。


「女にも良い奴と悪い奴がいる。それは男でも変わらないだろう?」


と私は言った。言ってからNの反応を見た。Nは黙って頷いていた。


「男を種馬としか見ていない女だっているし、逆に女を財布としか見ていない男もいるだろう?要するに自分のために、相手を都合良く利用してもいいと思っている人間が大勢いるんだよ。君は優秀なくせに、その辺がまだまだうぶなんだねぇ」


私はなんだか、あははと笑ってしまった。Nは珍しく縮こまったみたいにして、猪口に口をつけていた。


「君もいつか結婚して子どもを持つのだろうけれど、なんだか優秀な子どもを持ちそうな気がするよ。私は予言者じゃないから適当なことを言うけれど、君の息子だか娘だかを楽しみにしている。きっと君に似ているんだろうな」


Nには皮肉のように聞こえただろうか。私の頬からは微笑が自然と零れ落ちていた。あまりNが考え込むようなので、私は窓際に立ち煙草に火を点けた。一口吸ってから吐き出すと、青白い煙が部屋の中にゆっくりと漂いながら入ってくる。Nは少し苛立ちながら咳払いをした。Nが煙草を吸わないことを私は知っていたのだ。二、三口吸ってから煙草を灰皿にもみ消し、冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。手酌でグラスにビールを注いだ。


「本当に誰とも付き合ったことがないのか?」


と私は右手に持ったグラスを持ち上げ顔の横で揺らしながら、深く酔いが回っている風を装って訊いた。今ではNの方が酔いが回っているようだった。


「ないね。何度でも言うが、誰に誓ったところで答えは一緒だ」


そう言って右の拳で胸を叩いたNは急に青ざめた顔をして立ち上がった。それから、トイレに駆け込むと、胃をひっくり返したみたいにして吐き始めた。Nの自尊心はこの時ばかりはどこかに行ってしまったみたいだった。


その後、Nと私は学業を修了し、別々の道に進むことになる。私は田舎へ戻り父親が創立した小さな商社に入社し、Nは卒業後も東京に残り独学で語学を修め、ドイツへ向かった。しかし、私にはNがなぜドイツを目指したのかわからなかった。その頃には連絡を取ることがほとんどなくなっていたし、Nは遠く離れた友人に進路を連絡するようなタイプではなかった。なんとなく、几帳面だと聞くドイツ人の気質がNには合っているような気がしたが、だからといってそれがドイツ行きの理由ということにもならないだろう。

実際、Nがドイツに行っていたということを知ったのは、Nが帰国してからだった。私は二十五歳になった年の初夏が到来した時節に久しぶりにNから連絡をもらい、私の方でも何かと伝えたいことがあったので、仕事には適当に都合をつけて東京でNと会うことにした。


待ち合わせの喫茶店に入り、テーブルで待っているとNが隣に可愛らしい女性を従えてやってきた。


「やぁ、久しぶりじゃないか」


Nは学生時代よりも溌剌とした態度だった。日に焼けて余計に健康的に見える。私は立ち上がり、Nと握手を交わした。


「元気だったか?」


私は仕事ばかりの毎日だというようなことを言った。それからNは隣の女性を私に紹介した。


「こちらはシルヴィア・ハンゼン。ドイツで知り合った、ぼくの婚約者だ」


シルヴィアはカールした美しい金髪を肩で切りそろえ、口元は愛らしく澄んだ青い瞳の小柄な女性だった。Nによればドイツ人の父親とフランス人の母親から生まれたハーフとのことだった。Nの半歩後ろに立つシルヴィアは、Nよりも頭一つ分背が低く、Nの体格を強調しているようにも見えた。幼い表情も相まってなんだか少女みたいに見える。私はドイツ語などわからないので、よろしく、と拙い英語で言った。


「私は、シルヴィア、です」


と彼女は片言の日本語で言った。


「まだ日本語に慣れてないんだよ。飲み込みは早いと思うんだがね。やぁそれにしても日本は暑いな。何か飲みながら話そうじゃないか」


Nは抜け目なく店内に気を巡らせているウェイターを呼びつけるとアイスコーヒーを二つとアイスレモンティーを注文した。学生時代のNには女っ気というものがなかったためか、朴訥としたぶっきらぼうな雰囲気があったが、シルヴィアを隣に座らせたNはなんだか性格が開けたような気がした。神経が張り詰めたような雰囲気はどこかに行ってしまったようだ。  


私が馴れ初めを訊ねるとNは事の発端からしゃべり始めた。しかし、私には正直、Nとシルヴィアの馴れ初めを聴きたくはなかった。というか、その時の私には興味がなかったのだ。だからNの顔を仔細に眺めていた。話を進めるNは善良な顔をしていた。善良でつけ入る隙がどこにでもありそうな顔。良き伴侶を見つけたことで自信をつけたようにも見えたが、同時に人生に満足して腑抜たようにも見えた。シルヴィアはNの隣で大人しそうに座り、レモンティーに口をつけている。


Nの話を聴いている間、シルヴィアが私の目を見つめていることに気が付いた。私と目が合うとシルヴィアは視線を外し、私がNを見て頷いているとまたじっとこちらを見つめているのだ。何かを探っているような視線なのだろうが、シルヴィアの考えていることはわからなかった。ただ私にはなんだか、異性を誘惑する時の表情に見えた。彼女の魅惑的な視線はどう考えてもNではなく私に向けられていた。

長い話が終わった後で、Nはシルヴィアを満足気にちらりと見やった。


「こんなぼくでも、婚約者ができたんだ。君にも誰か良い人がいるじゃないのか?」


不意にこちらを向いてそんなことを言うのだ。私には良い人なんていない。こんな人間と人生を共に過ごそうとする人間なんてこの世にはいない。そう言おうとしても言葉が出てこなかった。


「今は仕事が楽しいから……」


「なんだ、そんなことじゃあ、だいぶ時間がかかりそうだな」


シルヴィアはレモンティーの最後の一口を飲み終えたところだった。すっかり丸みを帯びた氷の粒が、グラスの底に塊になって落ち着いている。薄切りにされた用済みのレモンがグラスの内側に張り付いていた。


Nと別れた後で、私はなんだか落ち着かない心地がした。シルヴィアの魅惑的な視線が私の脳裏からいつまでも消えることはなかったし、私は夢にまでシルヴィアの微笑を見るようになった。

真っ白い清潔そうなベッドの上でNとシルヴィアが交わっている夢だ。シルヴィアがNの上に跨り、恍惚の表情を浮かべながら揺れ動いている。Nは下からシルヴィアのこじんまりとした乳房に手を伸ばし、シルヴィアの顔を見つめているのに、シルヴィアは髪を乱しながら、その熱っぽい視線を私に向けているのだ。彼女は一体何をしているのだろう、と私は思った。あるいは私はシルヴィアに嫉妬していたのかもしれない。私が欲しかったものを彼女は横から奪っていったのだから。


夢はひと月ほどで見ることはなくなった。私はそれから出張で東京に行く度にNと会うようになった。私と会っている時のNは学生時代に戻ったようだった。ただ一つ違っていたことはNの話す内容のほとんどがシルヴィアについての話題だったことだ。


「私は昔からあなたのことが好きだったんだ」


Nの語るシルヴィアの話を遮って、なぜだか、私の口から言葉が出ていた。私たちは暗い部屋の中にいた。私とNの間にはそれ以上近づくことのできない空間、あるいは空白があった。そのような状況で私は長年押し込めてきた感情を始めて吐露したのだった。Nは私を見ながら


「ぼくにはシルヴィアがいるから」


と当たり前のように返事をした。私はなんだかその言葉が妙にNらしく感じられ、思わず笑ってしまった。そして、Nが私の涙に気付く前に部屋を後にした。


なぜだか一度だけNが夢の中に登場した。私が大量に日用品や食料を買い込んだ後で、Nは私からレシートを取り上げた。その細長いレシートを無言のまま逐一チェックしている。五分ほどの沈黙の後、Nは無表情のまましばらく私の目を見つめ、そして言った。


「カンタイを目指してください」

それは低く、か細い声だった。はて、カンタイとはなんだろう?というのが私の最初の疑問だった。それからなぜNはそんなにかしこまった調子で私に伝えたのだろうか。その時のNの無表情は学生時代に見た、少しだけ翳りのあるものだった。


私は起きぬけにカンタイという言葉を辞書で探したがNの言う文脈に合う言葉は出てこなかった。完成体、あるいは完全体を目指せというのであれば、Nの言いそうなことだが。私はNの性格を踏まえて完体という言葉を造語した。そして夢をもう一度思い出した。


「完体を目指してください」


確かにNはそう言っていたように思えた。Nの言う完体とは一体どのような状態を指すのだろうか。Nが常日頃言っていた、間違いを犯さない人間になれと言いたかったのだろうか。それは結局Nが果たせなかったことなのだ。


それから三年が経ち、Nは自殺した。Nは自分の人生の重みにとうとう耐え切れなくなったのだ。その時、すでにシルヴィアは故郷のドイツに帰っていた。Nの自殺の知らせは、私の腹の中の子に動揺を与えたように思えた。腹部に両手を当てると微かにではあるが、確かに胎動を感じることができた。

私はNの子どもを産んだ。躊躇いなどあるはずもなかった。男の子はすくすく育つとまるでNに瓜二つの顔、体格にも恵まれた。似ているのだ。私の遺伝子の影響なんてこれっぽっちも受けていないようだった。

今でもNの命日には息子と墓参りに訪れる。墓標の前で手を合わせながら、目を閉じてNを思い浮かべる。


「君は平々凡々と生きている」


と言っていた時の彼の表情を思い出し、声の調子を思い出し、そよ風に吹かれながら自然と微笑してしまうのである。私のしたたかな人生にNは飲み込まれ、その代わりに可愛い赤ん坊を私に授けてくれたのだ。



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