693 アォフゲーエンの氷
数年に一度しか採集のチャンスがないと言う、アォフゲーエンの氷について。
その情報を我々にもたらした、大森林の薬売りからも聞いていた。すでにいくつかのパーティが貴重な氷を得るために、森に潜って待機してるみたいなことを。
だからアォフゲーエンの氷が生まれる泉の周辺に、先客がいるのも当然と言えた。
しかし、我々はその先客たちの存在にたじろいでしまった。
彼らとの出会いは大森林の、日を追うごとに寒さが深まる冬のこと。
少し暗く灰色の、重たい雲から気まぐれにちらちらと白い雪が落ちてくる。
冬にも緑の葉っぱを豊かに付けた、背の高い木々が密集した中に目的の泉はひっそりとあった。
まぼろしだと聞いていた。
めずらしい氷を作る泉そのものが。
実際に見て、そのことを納得のように理解した。
数年に一度現れると言うまぼろしの泉は、恐らく厳密な意味での泉ではないのだ。
甘いような植物の香りに包まれて、木々の立ち並ぶ森からはあちらこちらで密かな水音がちゃぷちゃぷと響く。
その足元。苔むした岩がちらほらと転がり、やはり細かな苔におおわれたふかふかと弾むようにやわらかい地面。
ぼこぼことやわらかなその地面がゆるゆるくぼんで低くなった場所で、どこからか水のようなものが集まりたまり、静かな泉のようになってた。
水没林と言うのだろうか。
泉はその低い場所に生えていた木々の根本を巻き込み沈め、凪いだ水面を見せている。
その、つんと冷たくほのかに陰る冬の空気を甘く染めた植物の香りは、泉に近付くほど強くなる。
たもっちゃんのガン見によると、どうやら森に泉を作り出すこの水のようなものは、辺りに生える木々からしみ出し集まった樹液らしいとのことだった。
水ではないのでわずかに甘く、そして不思議な氷を作り出す。
私は思った。
いや樹液て。
それを考えると深さはそれほどなさそうながら、二十五メートルプールか、それより一回り二回りほどの面積を持つ泉はずいぶん大きいと思う。樹液でこれて。
めずらしいと言っても、氷は氷だ。地味な素材だと思っていたら、なんか割と異世界だった。
木ってこんな、ざぶざぶ樹液出したりすんの……?
だが、まあそれはいい。
我々もこう見えて異世界にきて数年目。何年なのかすぐにはちょっと出てこないけども。
しかしさすがに不可思議な現象やら訳の解らない素材にも、耐性がいくらかなくもない。
が、それでいて今回の仕事は少しだけ、これまでとは決定的に違った。
我々の中からわき起こり体の内側を全部満たすみたいな、ほとんど本能に近いそれ。
これを恐れと言うのだと思う。
めずらしい氷が高値で売れると言う甘言に前のめりの自発的に食い付いて、文明を離れて訪れた深く寒い森の中。
私たちはその場所で、自らの、そして人間の、逃れようのない本性をまざまざと突き付けられていた。
――それはほかならぬ人間である。
――それはまがりなりにも同業の、我々と同じ冒険者でもあった。
ただし共通するのは本当に、同じ言葉を話、同じ文明に生き、同じ冒険者ギルドに属していると言う部分だけだ。
彼らは七人ほどの集団だった。
戦闘能力がものを言う冒険者として、危険な魔獣や訳の解らない植物であふれ人間は生存することですら厳しい大森林に分け入って、獲物や素材を持ち帰るに足る実力と自信をむきむきと持った獣族の男たちが大半の。
そしてその中心に、ふんわりと愛らしい容姿をさらにもふもふと薄茶のやわらかな毛皮で包み、小柄な体をレースやフリルでふわふわと飾ったある意味で完全武装のウサギっぽい獣族の女子がいた。
「ふええ……」
無自覚に口からうめき声を出し、我々は震えた。
筋サーだ。筋肉サークルの姫やんけ。
そんな訳の解らない衝撃に震えた。
もうなんか、ウサギ女子の頭を飾る自前の長い耳ですらツインテールの暗喩に見える。
やだあ、純粋で幼く見えて実際はえげつない策士なんでしょその姫。やだあ。
と、なんとなく「詳しいんだ俺は」みたいな気持ちで腰を引かせていたのだが、よく考えたら知ってるは知ってるでもふわっふわのネットミームでだけだった。
よくない。オタサーのあれみたいに言いながら、筋肉サークルやそこに姫が実在するかは日陰の住人である我々には解らぬ。
それに、これはオタサーのほうの話になるが、そもそもコミュ障の集まりであるオタクの中に一人まざるその女子がゴリゴリのオタクでないと誰が判断できるのか。
いや、仲間内ならあいつ違うなとうっすら解るのかも知れないが、オタサーのアレだと決め付けるのは大半が嘲笑を浮かべた外部の人間であるように思う。
それを偏見と言うのではないのか。
「いやー、よくない。よくないですね! なにが本当のことなのか人が人の心の内まで理解を及ぼすのは不可能に近く、その人物が本当はどんな人間でどんな考えを持っているのかは実際にそうなってみるまで誰にも解らないみたいなとこあるじゃないですか? そこをキミ。偏見で決め付けんのはマジでよくないですね!」
ふええとした怯えから急に猛省を口走る私に、樹液の泉からいくらか離れてこそこそ座り陰の者のスキルを発揮し気配を消しつつメガネがばっさり指摘する。
「でもリコ、それはそれとして距離は取っちゃってるじゃん。筋サーと。ないのよ。説得力がもう何も」
「だって知らない人だから……それはそれとして、なんかメンズが女の子囲んできゃっきゃしてる感じがパリピだから……」
女の子にいいとこ見せようとする筋肉はなんか、テストステロンがむんむんしてておっかねえから……。これも大体の偏見ではありますが……。
ちなみに我々がそうしてひそひそと、人見知りと偏見を炸裂させるのは樹液の泉からある程度離れ、同時に筋サーのキャンプ地点からも泉の外周をぐるりと回って距離を置いた辺りでのことだ。
同じ泉で同じ素材を狙うため、できるだけ争いの種は排除せねばならぬと言うテオの助言による配慮のような、ただただ知らんパリピなんとなく恐い一心による措置である。
あとウサギ女子、なんだかたまにキッときつめの感じでこっちを見てくる気がすんの、どうして……。我々なにもしてない……今はまだ……。まだ……かろうじて……。
なお、今回のメンバーは日陰に住まうメガネと私。本人はきらきらしい天界出身の人外ながら、割と性格が薄暗いレイニー。それから筋サーとその姫のただれた雰囲気を小さきものに見せてはいけないと思ってか、いつになくフェネさんをもふもふときつめに抱きしめているテオである。
じゅげむと金ちゃんはじゅげむの塾の日にかぶってしまい、不参加であります。
まぼろしの氷の採集は繊細な仕事で、それもタイミングが重要だそうだ。
だからじゅげむの塾の日になったのは九割がたまたま、あとの一割は金ちゃんいるといつがっぷりと宿命の大一番が始まってしまうか解らず落ち着かないのでその日がきたら急に塾の特別授業が始まったりしないですかね……と特に念入りに健康に練り上げた追加の保湿用品を手に公爵家の塾教師であるエディリーン先生に相談したりしていたのが関係してなくもないこともない可能性はある。
割合はちょっと逆だったかも知れない。
とにかく、裏工作の有無は置いといて、金ちゃんが留守番なの気持ちの上で正直助かる。
こうしてそんな、あんまりよくない意味でそわそわと、ウサギ的な姫を囲む筋肉たちを豆粒ように遠く見ながら日陰の者はこちらでおとなしくして息を殺しておりますのでなにとぞ。なにとぞお目こぼしいただきたく……。と言った気持ちで自分たちの周りに障壁を張り総菜パンなどをもそもそ食べて英気を養ってその時を待った。障壁はなにが出るか解らない大森林で、食べ物のにおいをまき散らしてはいけないと言う全方位に完璧な配慮だ。
だから、我々のせいではないはずだった。ないといいなと心から思う。
甘い香りのただよう泉の周辺に、ギャウギャウと騒がしく中型のサルに似た魔獣の群れが現れたのは我々が軽食ののちに甘いものをもりもりいただいていたさなかのことだ。
最初は、接近されたことすら知らずにいた。
それらは冬にも豊かに葉っぱを付けた木々の枝から枝へと飛び移り、真っ先に筋肉とその姫である獣族の冒険者たちを襲ったからだ。
彼らがサルの群れに襲撃されて、筋肉と武器で反撃するも素早く数の多い魔獣に手間取りやっと、かなりまずいと気が付いたのだ。
たもっちゃんやテオが急ぎ戦闘に備えるそのそばで、私は遠く筋肉の声を確かに聞いた。
「兄者!」
「兄者っ!」
「くっ……! お前たちだけでも……!」




