691 まぼろし
それは恐らく、彼に取ってはなにげない世間話だったのだろう。
薬売りとして大森林に配された溶岩池周辺を担当する隠密は、「あれっすよね」とメガネから渡された二つめのウロボロス焼きにうきうきした空気を出しつつ言った。
「さすがっすね。今年の冬はアォフゲーエンがよさそうだって情報、どっから仕入れたんすか? それで秋じゃなく、わざわざこの時期にきたんっすよね?」
温泉につかり甘いものをもりもり食べてリラックスしたのか、薬売りはうんうんとうなずき、解ってます。解ってますよ。みたいな感じでべらべらと語る。
「出ない年もあるってか、出る年のほうが少ないっすもんね。それだけに高値なんすけど、あの氷」
「なにそれ」
いやマジで。なにそれ。
さすがもなにも、全然知らん。全部初耳。
これまで数々の誤解をそのままにしてきた身に覚えがなくもない我々としては恐らく深すぎる誤解の上にだいぶ買いかぶられている予感がしたが、しかし、情報をすっぱ抜いたり売ったりをなりわいとしている隠密たち。
その顔を隠し持つ薬売りの話に、どうしようもなく強い興味をかき立てられる。
特に高値とか言う辺り。
僕たちお金、とても好きです。
そこでまあまあ飲みなよと追加のミルクで薬売りのお腹をたぷたぷにして、もう知ってること全部言っちゃいなよ楽になるよと我々は詳しい話を執拗に聞き出した。
いわく、その氷はまぼろしとも呼ばれているらしい。
大森林で数年に一度、木々の合間にひっそりと泉が現れる。
この泉そのものも出現率がまぼろしに近く、しかもそれが冬、氷のできる季節に現れるのはさらにまれな確率だった。
しかも質のいい氷を採集するには、シビアなタイミングの見極めが必要になる。
氷なら魔法で作れそうなものだが、――魔法が使えるかどうかは別として。
けれどもアォフゲーエンの氷と呼ばれるそれは、なんだかすごく特別で、貴重で、本当に笑うほど高い値段が付くと言う。
それはキミ。だいぶ欲しいじゃん。
アォフゲーエンの氷が取れる泉もまぼろしながら、今年はすでにそれらしき存在が確認されているそうだ。
これは期待できると言うことで、大森林での経験が深く腕に覚えのある冒険者たちが冬の装備を整えてまぼろしの泉らしきポイントでキャンプを張ってそのタイミングを待ち構えているとのことだ。
と、ここまでは薬売りの隠密がめちゃくちゃべらべらと教えてくれた情報である。
温泉につかりながらの冷えた牛乳と甘いもの。消化には悪そうな感じだが、賄賂としてはてきめんに効果があった気がする。
大丈夫だろうか、情報が命のようなイメージの隠密。すごいべらべらしゃべってくれるけど。
そして、ここからがお金と、数年に一度しか採集のチャンスがないと言うものめずらしさに目の眩んだメガネが念入りにガン見して入手した情報になる。
どうやら今年の泉はずいぶんと大きく、まだ氷が取れるには半月やそこらの猶予があるそうだ。
もちろん泉の位置も誰よりも正確にガン見で捕捉した上で、我々は大森林を一旦離れて王都へと向かった。
便利なアクセスポイント扱いしている王家の農園の農家さんに残り少ない手持ちの保湿クリームで冬のごあいさつを済ませ、防壁の門をちゃんと通って入った王都でもはやなんの疑問も気遣いもなくアーダルベルト公爵家へとアポなしでおジャマし、秋の大森林でエルフ全面協力のもとだいぶ集めた素材をもとにこれからお歳暮として配り歩く大量の保湿クリームを一気に生産するためである。
日頃のご高配に感謝してお歳暮を贈る相手であると同時に、もはやすっかり公爵家のメイドさんたちを保湿クリーム量産のための戦力として数えてしまってる。申し訳ない。
でも、公爵家のお屋敷に入るやいなや「保湿クリームの季節ですね?」とばかりにキリッと素早く生産体制を整えてくれたメイドさんたちの頼もしさ。
作った保湿クリームを入れるための容器も公爵家で消費するぶんは以前のものを回収から洗浄まで済ませて用意して、外へ配るものはちょっと素敵な高そうな容器を新規発注してくれてもいた。そろそろこの時期だと思っていたとのことである。
公爵家のメイドらに抜かりなどないのだ。助かる。
お陰で、保湿クリームの素材をぶち込んだ大きな魔女鍋をひたすらまぜるだけのマシーンに専念できると言うもの。
もはや私に意志などいらない。巨大な木ベラでえんやこらとひたすらまぜるだけのマシーンと化すのだ……。
この異世界で冬は貴族の社交シーズンでありながら全然ヒマにしている公爵は直接作業を手伝おうとしたところを有能執事に止められて、せめて作業のお供に朗読でもと最近のお気に入りの一冊をたずさえ公爵家のメイドさんたちがいつになく張り切り働く一時的に保湿クリーム製作工房となっている厨房へとやってきた。
イケメンイケボのイケ朗読。
トータルするとなんかじわじわおもしろいのはなぜだろう。
そうしながらにねりねりと魔女鍋をかきまぜ、体力の限界を迎えた辺りで休憩がてらにたずねてみると公爵もアォフゲーエンの氷のことは知っていた。
「あれはねぇ、貴族……いや、王族でも滅多に口に入らないから……、あれだよね。もう、縁起物」
「あ、食べるんだ」
食べるものなんだ。なるほどね……。
氷、普通に魔法で作ることもできるのになんでわざわざ大森林まで苦労して取りに行くのかと思ってたんですよ。私は魔法で氷作れないので普通にってこともないけども。
食べるんだ……。そして縁起物なんだ……。
あれかしら。養殖の高級魚より天然もののほうがなんとなくありがたがられるやつみたいなもんなのかしら。
なんとなくそんなふわっとした納得にうなずいていると、これは微妙に正しくなかった。
「あれは……あれはねぇ……何と言ったら良いのかな……こう、何だろう……言葉にするのが難しいんだけど、あの、あれ。何とも言えない食感と味わいが……んん、難し……難しいな……」
「公爵さん、落ち着いて」
なんか苦悶するようでいて、はあはあと息が荒くなっている。
どうした。
いつも麗しいアーダルベルト公爵の、こんな姿は初めて見……いや、なくはないか。ちょっとジャンルが違うけど、我々関連で取り乱した時とかに。
おぼろげな記憶を掘り起こしながらの食レポで苦しみ出した公爵になんかめずらしいなと思ったが、よく考えたらこう言うの初めて見た訳でもなかったわ。気のせいだった。
公爵は結局、悩みに悩んだ末に「あれは食べてみないと解らない」とコメントを述べた。内容が薄い。本当になんの参考にもならないやつだった。
ただいたずらに謎を深めただけの休憩を切り上げ、とにかく保湿クリーム量産のため心を失ったマシーンとして大きな木ベラをにぎりしめてねりねりと働く。
保湿クリームのできたものからお屋敷のメイドさんたちや塾の合間のじゅげむがビンに詰めてくれていて、なにやら王都の高級菓子らしき賄賂を受け取ったレイニーももぐもぐとした使命感に保存の魔法を振る舞っていた。
さすが貴人の空気を読んで自分から仕事を見付けて行くタイプのメイドたち。いともたやすくレイニーの扱いを見極めてくる。
健やかなる保湿クリーム製作を全力でサポートしてくれた公爵家のメイドさんたちに一番に、そしてちょっと多めのお歳暮として作ったばかりの保湿クリームでお渡しし、じゅげむが塾でお世話になっているエディリーン先生にも念入りに冬のご挨拶を済ませた。
この私塾の女性教師は公爵家に仕える一族で有能執事のいとこに当たるが、普段はそれらしく落ち着いているのに強靭な健康が付与されたスキンケアシリーズを受け取る時だけなんかすごい熱量になる。あと早口にもなる。
それからごはんを食べて覚悟と言う名のカロリーをためこみ、王城へ。アポなしで。
逆にあえて。逆にね。急にきたら王様とか王妃様とかお姫様とかえらい人に会うことなくお歳暮だけ置いて帰れるのではないかと言う完璧な計算。逆にね。我々も、えらい人の前では緊張する人間の心がちょっとだけある。
ただ少々計算外だったのが、一国の姫でありながら若武者みたいに溌剌と勢いのありすぎる姫のフットワークの軽快さ。
「ありがたい! 感謝する。これがあると毎日の手入れが簡単に済むから、サボって侍女たちに叱られずに済む!」
お日様みたいにぱやと笑ってそう言ったのは武者姫で、王城の門で用件を告げたら「あっ、お前らか!」みたいな感じでもはや我々担当とばかりに見覚えのある隠れ甘党がすぐ呼ばれ、その案内で別室に向かう途中で機動力の高すぎる姫が颯爽と現れたのだ。元気。




