669 どこまでも平穏
緑の深い、夏の大森林。
その一角で、辺り一帯の地面が消失してしまったかのような、深く広い穴を眺めるような位置取りでエルフのために気合の入りすぎたメガネの手によるお弁当をいただく我々。
平和である。
恐らく、大規模な地面陥没と言う、もしも場所が違ったら甚大な被害のまぬがれぬ災害が起こったすぐそばだ。
平和と言う言葉は、きっと最もふさわしくなかった。
しかし、実際はどこまでも平穏だ。
さわさわと森を抜けて風が吹き、濃密な緑のにおいが鼻腔をなでてて逃げて行く。どこかで小鳥の声がして、頭上で揺れる無数の梢は夏の日差しをやわらげてまるで輝いているようだ。
静かだった。
けれども、静寂ではなかった。
私は、たもっちゃんがエルフのために真心込めて焼き上げたチーズ入りハンバーグをふかふかのパンにそっと載せ、その上に調味ダンジョンで産出されたソースと、マヨネーズの適量を見極め慎重に掛ける。
そして仕上げにふかふかのパンの片割れで絶妙にサンドし、繊細な仕事に満足感を覚えながらに問い掛けた。
「この穴さ、いつできたの?」
答えるのは調査隊を構成しているエルフらだ。
「……さて、去年の……」
「いや、去年はもうあっただろ。狩りをしていて、追い込んだ獲物が穴に落ちて獲れなかった覚えがある」
「それ去年か? もっと前だったような……。確か、レギナルト老のところの小さいのが迷子になってからちょっとして……」
「あったなぁ。しかし、それよりはずっとあとだろう?」
エルフらはぽんぽんと言い合い大体の時期を割り出そうとしたが、全然なにも解らない。
あまりにもふわふわ。
「エルフ、時間の概念ざっくりしすぎじゃない……?」
「リコ、これが長寿を生きるエルフ時間ってもんなのよ」
たもっちゃんはたしなめるみたいにそう言って、なぜだかちょっとドヤとした。うれしそうだった。
いや、私もね。
なんか変だなとは思ったんですよ。
ここにあるのは地下に空洞が存在し、その天井が崩れたことで地上に姿を現した穴だ。
ならば、そこに植物は存在しない。
いや、するのかも知れないが、それは崩れた天井部分ともろともに穴の底へ落ちてしまった地上の草木が傷付いたものか、光の差さない地下空間でも成長できる種類の植物だけだろう。
なのに今、我々がお弁当をいただきながら見下ろしている谷のように巨大な穴は、あふれるような植物の緑で満たされていた。
さすがに、穴のふちをぐるりと囲む切り立った崖はほとんどがむき出しの地盤だ。しかし、それでも一部にはツタのような植物がいくらか這っているのが見える。
加えて、深い穴の内側にはすでに、もさもさとした雑草やひょろりひょろりと細い木々ならいくらでもあった。
時間よ。
崩れてからの。
植物が充分に息を吹き返すくらいには、まあまあの時間の経過を感じるの。
もうこれ、穴ができたの最近の話じゃねえだろ多分……。
そんな思いで、あまりに寿命に差がありすぎて相容れぬエルフとの感覚の違いにしみじみしつつ、私はハンバーグサンドにかぶり付く。おいしい。
結局、地下空洞の崩落で大森林を陥没させた大穴は、もはやいつできたのかも定かではなく時間の経過をだいぶ思わせる様子であった。最近とは。
しかし、その規模が、被害が、かなり広範囲に及ぶのは変わらない。
それよりもさらに広大な大森林の全体を思えばほんのわずがかも知れないが、矮小なる人の目で見渡す限りの勢いで大崩落した穴の様子はいっそ壮観なほどだった。
やはり、人ならぬものの感覚としてもなにか訴えるものがあったのだろう。
さっきからそわそわうろうろと、谷のように切り立った穴のふちへとぐいぐい近付きすきあらば断崖へ身を乗り出そうとするのは金ちゃんだ。
危険である。
金ちゃんちょっと待ってと障壁に閉じ込め食べ物を渡し、我々も急ぎお弁当で腹ごしらえを済ませた。
この時点ではまだ、バイオレンスを含めた意味での冒険を前に、金ちゃんがそわそわとアップを始めたと思うだけだった。
それが、どのタイミングでのことだっただろうか。
いつもと少し違うかも、と気が付いたのは。
高層ビルのような落差を持った崖の下。視界いっぱいに広がるような広い穴の底のほうから、ガウガウと獣のような声が響いてきた時だろうか?
それとも、その声に怒鳴り返すようにして、金ちゃんがゴウゴウと暴風めいた雄叫びを上げた時?
もしくはズガンと激しい衝撃が足元から突き抜け辺りを揺らし、あ、と思う時にはもう遅く我々の立った地面ごとごっそり崩れて谷のほうへ崩落。みんながみんなわちゃわちゃに慌ててぎゃーぎゃー言って、魔法を使える者が魔法を駆使してどうにか全員やんわりと地面――穴の底へと無事着地。
なにこれなんなのマジ恐いじゃんとただただ人様の温情と尽力により無傷で済んだ私が、あわわわと腰を抜かしているところへ。
金ちゃんのほかには初めて見る。
そしてどこか金ちゃんとも違った、恐らく変異種とでも言うべきなのだろう。それぞれ特殊進化した異形のトロールが数体――。
我々の前に現れた時だっただろうか?
すっかり我々との生活になじんだ金ちゃんは、大森林の暴れ者。つまりトロールと呼ばれる生物だ。
二足歩行で道具を使い、ざっくりとなら人族に似てるが気性は荒く争いを好む。
同種と群れを作る程度には社会性を持つものの、人族、獣族、エルフですらも意思疎通は難しい。出会ったら、もうその瞬間から生き残りを賭けた殺し合いを覚悟しなければいけない。
いい悪いの話ではない。
そう言う性質の生き物なのだ。
この大前提にかんがみるなら、我々になじむ金ちゃんのほうこそむしろ変異種と呼ぶべきではと思いさえする。
魔道具の首輪で縛っていても、穏やかに……いや、金ちゃんもごりごりにケンカを好むのであくまでも比較的ではあるけれど。
暴力こそ正義みたいなトロールが、人族と、そしてなにより小さな子供と、普通に共存してくれるのはもはや訳の解らない奇跡だ。
――と、言うような異世界の常識とトロールの細かな生態について知る訳がない我々に、ひそひそと教えてくれたのは調査にきた大穴にうっかり落ちたその底で、しっかり張った障壁の中に共に避難した調査隊のエルフたちだった。
魔法で作った薄い防壁をはさんだ向こう。
その障壁の術式が魔力によって淡く光る合間から、透けて見えるその先に腰布のベルトから引き抜いた特殊金属の斧を手にした隻腕のノーマルトロール金ちゃんと、武器はなく徒手ながらにやにやと余裕ありげな変異種のトロールが相対しているのが見える。
「金ちゃーん! 戻ってー!」
「金ちゃーん! 男の意地はそこで張らなくていいのよー!」
我々のため、そしてエルフたちの安全のため、穴の底へ着地するなりしっかりと障壁を張ったのはメガネだが金ちゃんはその魔力の防壁ができあがる前にゴルゴルと喉を鳴らして最前線へ飛び出してしまった。
いけない。
このままでは野良犬同士の血で血を洗うギャンギャンとしたケンカが始まってしまう。
金ちゃん野生動物とケンカすると感染症とかが恐いのよとメガネや私が必死で声を上げて説得したが、そもそも人語を解さないトロール。全然聞いてもらえなかった。
もはや一触即発である。
ごくりと固唾を飲むように、視線はトロールらへと向けエルフたちがぼそぼそと話す。
「まさか、穴の中にトロールの巣があったとは……運が悪い」
「いや、元々トロールの巣があって、そこが崩れて穴に閉じ込められたのかも。だとしたら、そのお陰で周辺に被害が出なかったと言うべきだ」
「それより、あの変異種は何だ? 崩落がなければ、あんなのが好きにうろついていたのか?」
そんなことを言い合う中で、一人のエルフがふと言った。
「トロールに言葉は通じない筈だが……あれ、話しているように見えないか?」
確かに、金ちゃんも特殊進化したトロールも、互いに張り合うようにしてガルガルとうなり声を上げている。ただそれだけで、意味なんかなにもないのかも知れない。
しかしもしかしたら意味が解ったりしないだろうかと、エルフが持ってた花から集めた蜜を対価に周辺の精霊へと呼び掛けた。




