638 悪魔の素養
メルヒオール・ホラーツは、悪魔の素養を持ちながら基本ほぼほぼ人間である。
これがかえって扱いを難しくさせた。
まじりっけなしの悪魔なら、天界の裁量でどうとでも処断してしまえるからだ。
昼間、メルヒオールの母親の中から悪魔的なものを引きずり出して、問答無用で天界に回収したように。
けれども天使は、天界は、地上の命に関わらないと言う鉄則がある。
正直、人間である私には理解しかねる部分はあるが、とにもかくにも便宜上はそうなっていた。
ならばメルヒオールはどうだろう。
人間だ。けれども母が悪魔と契約した状態で、彼を身ごもり出産したことでその力の一部が彼にも遺伝してしまっている。
その力は危険ではないのか。
今はそのつもりがないとして、けれども人間は気まぐれだ。将来的にその力を悪用し、彼もまた悪魔のような振る舞いをしない保証はどこにもないのに。
金の巻き毛と空色の瞳を持った我が家の天使とその上司たるよく光る玉は、そんな感じで深刻に話し合っていたようだ。
玉ヴィジュアルの上司さんは声を発さずぴかぴか光るだけなので、実際なにを言っているのか我々には解らない。レイニーだけが上司の話を理解して、やたらと神妙に、それかめちゃくちゃ居心地悪そうに受け答える姿を少し離れた後ろのほうからぼんやり眺めてどうやら会話が成立しているらしいと思うくらいのものである。レイニーには一体なにが聞こえているのか。
天使的な容姿を持ったレイニーがぴかりぴかりと光る玉と真剣に、低くひそめた小さな声で「はい、それは……でも、大部分が人間ですし……天使として、命のありかたをどう捉えたものか……」などとごにょごにょ協議している姿はなかなかシュールなものがある。
人一人の人生が――もしくは命さえ掛かった話し合いである。
時間が掛かるのも当然と言えたし、それだけ繊細な問題だった。
しかし、もう夜。それもそろそろ寝ようかと言う頃の。
私は、この時点でそこそこ長くなっている天使たち話し合いに飽きた。
「たもっちゃん、あれまだ長くなると思う?」
「まぁ、大事な話だから……そうだねぇ」
「もうだいぶ眠たいんだけど、先に寝ちゃダメかな……」
「解る。俺ももう寝たい」
よく考えたら我々は上司さんとの天使会議に全然参加できてないので別にいなくてもいい気がするが、レイニーはわざわざ、あとは寝るだけの状態のメガネと私を連れ出している。
上司玉の光信号がなに一つ解らない我々に頼るくらいだ。多分だが、誰でもいいからそばにいて欲しい気持ちだったのだろう。もはやちょっとかわいそう。
「大体さあ、悪魔的な力ってなんなの? それがあるとどうなの? 今はまだなんもしてないけどこれから悪いことするかも知れんから野放しにできんって話だったらさ、人間全般ほぼほぼみんなそうじゃない? 心の中に天使と悪魔を飼い殺してるのが人類ってもんじゃないですか?」
「天使と悪魔飼い殺してんの物騒過ぎる」
たもっちゃんは「世紀末なの?」などと一旦は心の距離を置いたが最終的にはまあ解るけれどもと理解を示した。
そうか。飼い殺しではなかったか。
言葉って難しいなあ。とか言って、しょうがないからだいぶ眠たくなりながら天使たちを見守って、それはそれとしてヒマを持て余した我々は大体の感じでうだうだ話している時だ。
全体的にこそこそしている我々の、視界を白く焼かんばかりに強い光が一帯にパッと強くまたたいた。その根源にあるのは上司玉である。ひどい。人類の目をもうちょっといたわって欲しい。
けれども取るに足らぬ人間のことになど構わず、上司さんはぱややと上機嫌に輝く。なんだがエウレーカとでも言ってそうだった。
翌朝、我々はまだ全然眠たい感じで起き出すと、ホラーツ邸の厨房でアイテムボックスから探し出した備蓄の料理でもっちりもっちり朝食とした。
一応よくは寝たのだが、これが全回復の難しいお年頃と言うものなのだろうか。恐ろしい。
けれども今日はじゅげむの塾の日なので、なんとか起きて送って行ったり見送ったりをしなくてはならぬ。
あのあと、ひらめいた! みたいな感じで光を強めた上司さんは「あーあーあー、はいはいはい。なるほどね!」みたいな様子でぴかぴかとエレクトリカルに帰って行った。電気ではなく恐らく自力で光ってるので、エレクトリカルではなかった気もする。
上司さんの意志を通訳するレイニーによるとメルヒオール少年の対応を思い付いたので、そのまま待機していろとのことだ。
正直、なんでもよく食べすぎる金ちゃんの薬が手に入ったらもうこの街での用事はないのだが、まだもう少し滞在しなくてはいけないらしい。
朝ごはんにメガネ秘蔵の手もみの塩をぱらぱら振り掛けた栗ご飯などをいただきながら、「どうする? 時間できちゃったね。草でもむしりに行く?」といつもの感じで提案した私が「草かぁ……」と気乗りのしない男子らに聞かなかったことにされ、じゅげむだけが「いいとおもう! ぼく、おてつだいする! あっ、でも今日、おきょうしつ……」と一生懸命にフォローして、でも予定が立て込んでいるのでお手伝いできないことにしょんぼりしてしまっているところへ、ちゃんと自分でお着換えを済ませたメルヒオールがやってきた。
「あ、朝どうする? 栗ご飯なんだけど、パンがよかったらパンもあるよ」
メルヒオールの顔を見るなりメガネがすかさず問い掛けて、問われた側の少年も「ありがとう」と一応言った。
しかし結局、彼が朝食にできるのはもう少し時間が経ってからだった。
なぜならばメルヒオール少年はこの時、ものすごく困っていたからだ。
「起きたら、ベッドの中にこれが……」
戸惑いを強くにじませそう言って、彼はまだ大人になりきらぬ両手をおずおずと体の前へと差し出した。
その手の平に包まれていたのはなんらかの、楕円のような、うっすら円錐形を持つ丸っこく硬い物体だった。
そのビジュアルに、思わずこぼれたと言うふうに誰かの声がぽつりと落ちる。
「卵……?」
解る。それ以外にちょっと思い当たらない、鶏卵に酷似した形状をしている。
我々の思う普通の卵よりこちらのほうがいくらか大きく、かと言って異世界で出会ったマンゴーサイズの卵ほどの大きさはない。
その卵はなぜだかうっすらときらめいて、わずかにざらつく、けれども同時になめらかな殻の表面で不可思議にオーロラ状の光の波が絶えず生まれては消えて行く。なにこれ。
この、ビジュアルからして完全にただならぬ様相の物体に、しかし我々の食を預かるお料理メガネは言うことが違った。
「え、焼く? 玉子焼きかな? 玉子焼きにする?」
「たもっちゃん……」
それはない……。
いや私もこれ卵やろなとは思うけど。
こんなに全力で不可思議感を出しているのに、食材としか見てもらえない卵。かわいそう。
メルヒオールの両手の中を背伸びをするように覗き込み「わあ……すごい……!」と顔をぴかぴかさせていたじゅげむが、いつもご飯を食べさせてくれるおじさんの突然の暴言に両目を見開きショックを受ける。
卵を手にしたメルヒオール本人も、どこか怯えて体をじわじわ後ろへ引いたほどだった。
これはただただメガネが悪い。
まあ、普通に――いや、普通か普通じゃないかで言うと状況からして全然普通ではないのだが。
メルヒール少年によると朝になったらなぜか彼のそばにあったこの不可思議な卵は、上司さん、ひいては天界による仕込みであるとほどなくレイニーの解説によって明かされた。まあ、ですよね。
「あれか。上司さんの対応ってやつか」
意外と早かったなあ。みたいな感じでのんびりと、たもっちゃんはお米に慣れてないメルヒオールとその叔父のため具材をたくさん詰め込んだホットサンドを焼いている。
私も栗ご飯はもらったが、ホットサンドもちょっとだけ食べたい。そんな思いがほとばしり、スライスした食パンにこれでもかと好みの具材をはさんだものを次に焼くパンの辺りに紛れ込ませる悪事をレイニーなどと働きながら、一応話にも参加した。
「するとあれかい? その卵、あっためると中から小さい天使が出てきてメルたんを正しい道に導いたりするのかい?」
「天使は出てきませんが……精霊、とでも呼ぶのでしょうか。生まれくるのは、天の意を受けた正しきもの。心弱い人間に寄り添い善い道を選べるよう導き、時に断罪し、時に処罰を……」
「レイニー、高次元生物の人間に対する上からの雑な感じ出ちゃってるけど大丈夫?」




