628 悪い顔
※ 陰謀、人が死ぬ話、後妻業などの話題が出ます。ご注意ください。
そう言われれば、確かに薬屋の開いた扉のすぐ外で馬のいななきや木製のきしむ車輪がガラガラと石畳を踏む音か聞こえていた気がしなくもなかった。
と、あとになって思わせたのはテオの肩できゃんきゃん騒ぐフェネさんの言葉だ。
「ねー! つま! つま! あれ! トロール! 持って行かれてる! どうする? 我、つかまえる? 我ねー、得意よ!」
もう気持ちは狩りなのか、自称神たる白く小さなキツネの両目――金色に輝く光彩の中で、瞳孔がぎゅうぎゅうに細く鋭くなっていた。マジ獣。
大きな耳をせわしなく動かし、ふさふさのゴージャスな尻尾をぶんぶんとテオの背中を叩くみたいに振り回す。今にも乗ったテオの肩を蹴り、外へ飛び出して行きそうだ。
そのどこかわくわくと好戦的な様子に、言動に、なんだそれはと数秒圧倒されてから気付く。
トロールて、うちの金ちゃんやないかい。
金ちゃんは薬屋の外。店先のベンチに座らせ待たせてあった。
そのすぐ横の戸口にはじゅげむ、それより内にテオやフェネさんがいて、我々がもたれるみたいにより掛かり薬屋と話すカウンターは店舗の奥のほうにある。
自称ながらに神たる獣の思わぬ指摘、と言うか追跡と捕獲の提案に、なにがあったとあわてて外に駆け出してベンチを見ると金ちゃんがいない。草で半分寝ている状態だ。それに、お薬早くと店内を覗き込んではいたけれど、じゅげむだってそばにいた。
その状態で金ちゃんが自分でどこかへ行ったりはしない。多分。絶対ではないけど。
ほとんど同時に店を出て、先にそれを見付けたのはメガネだ。
「あっ、金ちゃんいた!」
思わずと言うようにほとんど叫び、指さしたのは薬屋の前を通る道の先。ガラガラと車輪の音を響かせて、遠ざかる馬車の上だった。
まさしく金ちゃんはそこにいた。
まるで貴族が乗るような。王都などならめずらしくないが、地方ではそうそう見掛けない豪華なつくりの馬車である。
それは貴人を雨風や人の目から守るため箱型の車体を持っていて、通常ならば乗客の姿は外側から見えない。
けれども金ちゃんがその馬車に乗せられ、草の影響がまだ強くうつらうつらしながらもなぜか石のように焼しめた歯の強度を試す意味での試練パンをにぎりしめ、もはや無意識の本能とでも言うようによく練って焼いた小麦粉素材のレンガのような物体にがじがじとどうにか噛り付こうとしている姿は我々にもしっかり観測できた。
なぜなら、恐らく大きな荷物を載せるためだろう。手すりとしては低すぎる金属の柵でぐるりと囲まれた車体の屋根に、堂々とした金ちゃんがどっしり据えられていたからだ。
水分も簡単にはしみ込まず永遠に固いだけのパンをむりやり口に押し込んでほっぺたを限界まで伸ばす金ちゃんの遠ざかる姿に、私は察した。
「完全に食い物で釣られとる」
あれはどうにかして自分で乗ってもらわんと、むりやりはムリやぞ。
私はどこか納得のような気持ちだが、しかし、たもっちゃんは少し違った。
「俺のほうが絶対おいしいもの食べさせてるのに……俺のほうがいっつもおいしいもの食べさせてるのに……」
ものすごく悲しそうな顔をして、なんならちょっと泣いていた。かわいそうだった。
我々は、金ちゃんを屋根に乗せガラガラと遠ざかる馬車をなすすべもなく見送った。
いや、私もね。思ったんですよ。追い掛けたほうがええんとちゃうやろか? って。
でも相手はプロの馬車馬だから、私の足ではどうがんばってもかなわない。だから追い掛けるならメガネ頼りになるのだが、悲しみのメガネもちょっと動けずにいたのだ。
やはり急いで店から出てきたテオたちがおどろきあわて、そして困惑に我々を見る。
「おい、行ってしまうぞ」
「ねー! 我がつかまえてあげる! 我が! つま! つま離して!」
「きんちゃん……きんちゃんがつれていかれちゃう……」
テオは我が活躍するとぐねぐね暴れるフェネさんと、どんどん遠ざかる馬車の上の金ちゃんにぶわっと涙をあふれさせるじゅげむを両手に抱き上げて文字通りの手一杯。
その後ろから悠々と、レイニーが一応のように姿を見せる。あまりにも貫禄のある落ち着きで、人の心はないのかみたいなことを思い掛けたがレイニー人間じゃなかったし我々もなすすべもなく見送っていた。心とは。
さらにめちゃくちゃ苦い顔をして、最後に出てきたのは店主としてはまだ若い薬屋の男だ。
「あの馬車は……ホラーツ家の奥方じゃないか」
面倒なことになったぞと彼は頭に巻いた白い布の下から、憐れみの視線を我々に向けた。
この時はちょっと時間がなくて聞きそびれ、だからこれはあとで知ったことになる。
ホラーツ家とはこの地方の街を収める代官の家系で、金ちゃんを連れ去りぱかぱかガラガラと遠ざかる馬車はその奥方のものだった。
ただし夫はすでに亡く、代官の任はその弟が継いでいる。ならば奥方の影響力も弱まりそうなものだが、その辺は少々複雑だ。
街の人々はひそひそとささやく。
先の代官は年かさで、最初の妻を亡くしてすぐに美しく若い後妻を迎えた。これが現在奥方と呼ばれる女性だが、先代もその最初の奥方も、前触れなく突然亡くなった。若い後妻に都合よく。それは本当に偶然か?
また、先代の弟である今の代官と義理の姉であるはずの奥方はただならぬ関係だとも言う。噂だ。口さがない庶民らの。
しかし、これもあとから断定されたが、この噂はだいぶ事実だった。えぐい。あと、その限りなく真相に迫る情報を、噂として街に流布したのは奥方と亡夫の間のまだ幼い――十にも満たない息子とも解った。
もうあれよ。お昼のドラマでも盛りすぎなのよ設定が。
と、我々がそんな代官家のどろどろの事情を知ってしまうのはまだ少し先のこと。
今は、普段もっとちゃんとしたもの食べさせてるのに金ちゃんが固すぎるパンで簡単に釣られた事実に繊細な心が傷付いたメガネが、うっかり悪い顔をねちゃっと出して「追い掛けよう」と真っ当に心配しているテオやじゅげむをまあまあとなだめるなどしているところだ。
そんな幼馴染のねちゃっとしたところを見てしまい、これはなんか考えとかがあるんやろかと一緒に私も見守ってしまう。
その間にも金ちゃんを乗せた豪華な馬車は遠ざかり、どんどん小さくなって行く。
その距離がある時、ある限界値を迎えた。
なんの?
それはすぐ解る。
豪華な馬車の屋根に乗り、がじがじと固いパンを口に入れどうにかふやかし食べようと苦心していた金ちゃんの、首。そこにしっかりはめられた、魔道具の首輪がぴかりと魔力の輝きを増す。
そして「あ」と思うのと同時に、金ちゃんの首輪を中心に、ぼふりとガス的なものが爆発的に吹き出した。
私はそれを知っていた。多分あれ、ものすごくくさいやつっすね……。
馬車もたまらずと言うように、つんのめるみたいに動きを止める。もしかしたら御者や馬まで気絶してしまっているのかも知れない。
その様子に、たもっちゃんが笑った。
「わはははは! ざっまぁー!」
心底うれしそうだった。
まるで人間の醜さを凝縮したみたいに、暗いよろこびにきゃほきゃほはしゃぐその姿。
よくない。なんか、人間性とかが。
でも、たもっちゃんだからな。こう言うとこあるよな。せめて隠して欲しかったけども。
そんな思いでメガネに投げた視線の隅で、なにかがこっそりじわじわ動く。
そちらを向くとテオだった。子供にはとても見せられないと思ってか、彼はじゅげむとフェネさんを両手にかかえてあとずさり、すぐそばの薬屋の中へひっそり消えた。常識人、静かにドン引きの顔だった。
つまり、たもっちゃんが落ち着いて……いや、落ち着いてっつーか。
金ちゃんを連れ去る馬車がどんどんと離れて行ってもなにもせず、ただ見送っていたのはこうなると解っていたからのようだ。してたもんな。悪い顔。
そう言えば、ありましたね。金ちゃんの首輪、我々から離れすぎるとなんかすげえにおいが吹き出す的なギミックが。
なるほどね……。いやなるほどねじゃねえわ。
「たもっちゃん、どうすんのこれ。まずいよ。まずいですよこれは。一帯に被害出ちゃってないですか?」
そもそも私は首輪のくさい仕組みのことを思い出しもせず無力にも見送り、今になりあわてている状態だ。手遅れ。
たもっちゃんはこれに、静かに言った。
「正直イラつきに任せてたからそこまでは考えてなかった」
キリッとした顔しやがるじゃねえか。
放っとくのもさすがにまずいと我々は、たもっちゃんが風の魔法でうまいことくさいにおいを散らしたところへ駆け付ける。
と、馬が倒れて止まった馬車の車体から、扉を開いて貴婦人めいた人影が出てきた。




