596 平和
なんだか解らないまま勢いで、ばったばたに駆け抜けてしまったナッサーヴァルトでの日々。
日々って言うか二日や三日のことだったな。
と、ぼんやり思い返す我々は王都近くのやんごとない農園、その中にある元王妃のための別荘にいた。
その台所に集まって男子らは遅い昼食を、男子を見捨ててお昼は軽く済ませていた私やレイニーはちょっとした間食とばかりに食事に付き合い、自分だけお腹いっぱいだとしょんぼりするじゅげむに甘いものは別腹説に従いおやつを出して、食べすぎた胃袋をいたわるようでいてただひたすらにイスにだらりと腰掛けておもっくそぼーっと時間を浪費しているところだ。
いや、英気をね。英気を養うなどしています。
私は魔獣あふれる現場のほうには全然行かず、当然討伐にも参加せず、大体草を配り歩くか水草をむしっていただけではあるのだが、それでももうやだの所感が強い。
平和よ。平和が一番なのよ。
ナッサーヴァルトに散らばった魔獣は正直まだ残っているとのことだが、そこはほら。たもっちゃんもね。冒険者として集団行動に慣れているテオの引率で、空飛ぶ船で支援に回り途中途中で大きめの魔獣を何頭かどんどこ倒しているそうですし。残っているのはほとんどが樹上の家には上がれない小さめの魔獣とも聞いていた。
あとはもう、災禍に見舞われたかの地の窮状に例の勇者一行が駆け付けているので、主人公ムーブでなんとかしてくれるはずだ。と思う。してくれ。頼むぞ。
もはや私にできるのは勇者の勇者部分を信じることと、去り際に薬だけじゃなくてお茶もいらない? いるよね。いるって言えよ。ダブ付いてんだよこっちは。と、健康にいいお茶の在庫を大量に置いてくるくらいのものだった。体には……いいので……。
そうして、もはやどうしてこんなに必死で逃げてるかちょっと思い出せなくなってきている自分もいるのだが、とにかく勇者たちと入れ替わるように我々はナッサーヴァルトから全力の全速で脱出してきた。
ドアのスキルでなだれ込むみたいにやってきた、ブルーメの王からなぜか我々に貸し出されている元王妃のための別荘、落ち着く。
一見すると素朴だが細部にいたるまで決して手を抜かず、一流の職人が作り上げた建物は多分、えぐいくらいの価値がある。
よく考えたら落ち着く要素がなに一つないが、今は、いつもの我々だけでほかに誰もいないってだけでも最高だった。
「もうしばらく集団行動したくない……」
その声は台所にどーんと置かれた調理台をテーブルに、料理の痕跡を残すばかりの食器の間に突っ伏したメガネから聞こえた。
私はすかさず「解る」と心の底から答えたが、おめーは草むしってただけじゃねえかと意外に元気なメガネから全否定のツッコミを受けた。悲しい。
そうして、もうあれ。
お昼のあとの水泳のあとの小学校の教室の、どいつもこいつもほぼほぼ寝てるか眠気と戦っている時間帯みたいな。もはや時間そのものが停滞しているかのような、だらだらとした空気。
元王妃たるペトロネラ様の別荘の、台所にっぱいに満ちているのはどこかとろりと眠気そのものみたいななにかだ。
このままその空気に飲まれて寝てしまいたい気持ちもものすごくあるが、我々はもうちょっとがんばらなくてはならない。
英気を養う名目で存分にむさぼっていた食後の余韻を仕方なく振り切り、さすがにそろそろ片付けるか……と。我々は誰からともなく席を立ち、汚れた食器を同じ台所の中にある洗い場へとのろのろと運んだ。
ちょうど、そのタイミングで。
はあい、こっちに食器ちょうだいねえ。と、だいぶん眠気にやられつつこれから洗う汚れた食器を集めていたメガネが、水道はないが水を使うため台所の窓際に備えられた流しに向かい、こちらに背中を見せた格好で「ひあっ」と息の根が止まったみたいな悲鳴を上げて自前のお皿を一枚割った。
先ほど私は我々だけでほかに誰もいなくて最高と言ったが、あれはあんまり正しくなかった。
昼下がり。
食事と言うよりおやつに適した、けれども日暮れにはまだ早い時刻。
決して暗くはないけれど、太陽の作る影が濃度を増して少しずつ広がり始めているかのような。
そんな中、流しの向こうの窓の外。逆光で黒っぽく染まった人影が、透明な窓にびとりと手を突き張り付いていた。中の様子をうかがうそれと、至近距離で目の合ったメガネは確かに恐かっただろうなと思う。
まあそれは普通に、王家のための農園を管理し守るプロ農家の青年だった。
なぜ窓から。なぜ声を掛けない……?
ギリギリ息の根は止まってなかったらしく、むしろドクドクと血圧が心配なレベルで激しい動悸にふらっと倒れたメガネのことをわあわあ言って介抱しながら、そう問う我々に青年は答えた。
「鳥が騒いで集まってるから、見てこいと言われて」
「そっかあ……」
どうやら誰かの気配はあるが、それが誰か解らないので先に確認しようと思ったらしい。
こちらも窓の外から黒い人影に覗き込まれて恐い思いをしていたが、あちらはあちらで警戒していたようだ。プロ農家さんの危機管理能力が冴え渡る。
台所の床に崩れたメガネのことを心配し、たもつおじさんしっかり! と声を掛けてあげていたじゅがむが、はっとしたように台所から飛び出して行く。どうしたのかと思ったら、すぐに「とーどりいた! いっぱいいた!」と弾んだ声で報告に戻った。
別荘の居間から見える裏庭に、柴犬サイズのニワトリがコケッココケッコとたむろしていたらしい。そっかあ。
このペトロネラ様の別荘においては、大体いつの間にかいて急にいなくなる人みたいなイメージらしい我々に、ですからきたら一声掛けてくださいと……。などと、めちゃくちゃ真っ当に注意するプロ農家の青年はすでに台所の中にいる。中にいるのが我々なのを確認すると、裏口から普通に入ってきた。
そして、一通りの注意を済ませてなぜか、私のほうを見て言った。
「春がきました」
「はあ、そうですね」
それは私も知っている。
でもそれがどうしたんすかと問う前に、青年は真顔で、力強く、そしてぐいぐいと畳み掛けてきた。
「春は害虫が出始める季節です」
「あっ、はい」
ほどなく、私は青年に丁重に案内されて農家さんの家に行き、ようし! よくきた! とプロ農家一族から熱烈、かつ完全なる労働力として歓迎を受けることになる。
山盛りの、虫よけになるハーブ的な草にまみれる私。
そのハーブからできる虫よけ的なものをぐつぐつ煮込み、やたらとかきまぜるお仕事に従事する私。
恐らく、以前、日頃の感謝的な意味で渡そうとした高級なほうのスプレーボトルが意外に不評で、あわてたメガネが頑丈なほうのスプレーボトルをプレゼンし、その中に詰めるために私が業者のように煮込んだ虫よけがよく効いたのだろう。解るよ。人間、最後に頼れるのは草だよね。解る。
日暮れ頃には「まだやってんの?」とメガネがひとごとだと思って気軽に見物に現れ、ちょうどいいところにとプロ農家のおっさんに捕まり前に贈ったスプレーボトルの出が悪くなったと相談されて分解して洗う方法をレクチャーすることになったのを「はははは、ばかめ」と手は動かしながらあざ笑う私。
そんな私をメガネと一緒にぞろぞろと、差し入れを持ってきてくれたテオやじゅげむがちょっとだいぶん引き気味に見ていた。悲しい。
午前中だけでも疲労の意味でだいぶんお腹いっぱいだったのに、午後もなかなか忙しくなってしまったこの日。
労働から解放されると秒で泥のように眠り、翌朝は黎明に目が覚めた。
嘘だ。なかなか起きられなかった学生時代、業を煮やしたかーちゃんが、あんたもういい加減にしなさいよ! とキレ気味に起こしてくる感じで雑に揺り起こされたのだ。
それでさすがに目を覚ましたらすでに農作業スタイルの、プロ農家のご婦人がめちゃくちゃ間近にいてちょっと魂が消えそうになった。どうして。どうしてそこに。
まさかこれは早く起きて仕事手伝えと言うアレかと思ったら、そうではなかった。
パン焼いたからできたてを食えとの優しさだった。おいしかった。
この農家さんたちにやわらかいパンのための酵母菌を譲り生地の育てかたから焼きかたまでを伝授したのはメガネだが、すでに師を越えている。
それから昨日煮込んでもう冷えている虫よけ液を強靭になれよととにかくやたらとかきまぜて、春の野菜やちょっとしたフルーツ。冬の備蓄としていた乾いた豆などを持たされて、我々は農園を去り、王都へと向かった。




