591 魔獣の暴走
ナッサーヴァルト領の受難は、数多くの魔獣の暴走――スタンピードと呼ばれるものに由来する。
もっとも、私は基本空飛ぶ船で城まできたのでその恐ろしさや実感は薄かった。
道中でたまに地上に村人を見付け、保護するために船を下りたりはしたが、それだけだ。魔獣は大きなものも小さなものも男子たちが片付けて、あんまり近くでは見てもない。
だが、大変なことだと言うのは肌で感じた。
たどり着いた領主の城のそこここに、本来ならば城の中にいるはずのない一般人が多くいた。逃げ込んできたのだ。そして、負傷者も決して少なくはない。
領主のナッサーヴァルト子爵はそのためになりふり構わず男装聖女のラファエルに助けを求めたし、また駆け付けたラファエルやその同志らも癒しの力や薬でもって必死に傷病者の治療に当たった。
特には役に立たない私でさえも、大変そうだと解るのだ。当事者たちは大変なんて言葉では足りない体験をしていたと思う。
本当に、私にできることは特になく、すり傷程度の治療のために赤チン草をねちねちに練った傷薬を出したり、一身上の寝相によってばっきばきにしながら強靭に育てた体にいいお茶をこれいいやつだからと押し付けがましく配り歩くくらいのものだ。でもお茶がいいやつなのは本当なので……。体にはいいので……。
あと、城内の噴水に保護されている謎生物のウールザのため、レイニー先生に賄賂を渡して湿地に障壁を張っていただいた中で、決して、決して天使の庇護により地上の命を守ってもらっている訳ではないのだが、便宜上たまったま居合わせた有志の地元の紳士やご婦人たちともっさもっさと水草を収獲してエサを確保したりした。
また、そんな我々が城の外へ行くと察知してふんふんと張り切って付いてきた金ちゃんが、あんまり遠くに行かないでねえ、とのお願いをそもそも人語を理解しないと言う形でガン無視し、障壁の外で比較的小さめの、生物としてはそこそこの大きさである魔獣の頭蓋辺りを特殊金属のいい斧でぱっかぱっかとかち割る内に興に乗りすぎてしまったらしく距離感を失いどんどん離れてやがてメガネが製作しメガネが改良や定期的にメンテナンスしている魔道具の首輪。この制限項目に抵触し、我々が水草の収獲をしていた所からまあまあ離れた地点でものすごいにおいを発生させて周囲にいた魔獣だけでなく自らも昏倒。気絶しつつもうまいこと水にぷかぷかただようところを回収されるなどの醜態をさらした。
金ちゃんはトロールなので我々の言葉は恐らく通じず、我々も彼の言ってることは解らないのだが、回収されて城の中で目が覚めてから金ちゃんが牙のような八重歯の覗く口元の下唇をにゅいっと出してものすごくふて腐れているのはめちゃくちゃに解った。
金ちゃんは誇り高いトロールなのだ。
それと、これは本当に反省すべき点しかないのだが、じゅげむ。
連れてきちゃってる。
まさか現地がこんな事態になっているとは思わず、いや、思ってない時点ですでに考えが足りないとも言えるが。
城の周り、そして領土全体の湿地には大小様々な水の得意そうな魔獣がうぞうぞいっぱい跋扈して、それらに追い掛け回された人間たちはすっかり怯えげっそりとしている。
遊びにきたつもりはないが、子供を連れてくる状況でもなかったのは確かだ。
だから遅くはあるのだが、我々も一応は考えた。
それで、じゅげむはクレブリでお勉強でもしておいてもらって、夜になったら我々がそっちに帰るようにしよっか。みたいな。安全対策としての提案を試みたりしたが、受け入れられることはなかった。
なんか大変そうだから、できることをお手伝いすると堅い意志をじゅげむは見せた。えらい。けれども。
そのまま真っ直ぐ育って欲しいのと、あんまり重すぎるものを背負わないで欲しいと言った身勝手な思いが私の中で同時に起こる。自分を犠牲にはせんといて欲しさよ。
我々が、ナッサーヴァルトの領主の城に着いたのは昨日。
じゅげむは今や、メガネが船を飛ばして領兵や冒険者を運び手伝い集団作戦に及んだ時には絶対にテオの指示に従うことを約束の上で魔獣の駆除や取り残された領民の保護する作戦に参加する間、希望者がいれば配るといいとカレーいっぱいの鍋を託されて、頭をきゅっと布でおおって食べられればなんでもいい勢となんか解らんけどこの茶色いのクセになる勢に振る舞う、給食当番のお仕事を熱心に務めるなどしていた。
そうして、特になにかをしたって実感もないのだが、なんだかんだと細々とお手伝いしている内に日が暮れる。夜になりへとへとのラファエルたちと合流し、領主のご厚意に甘えて城の客室で休ませてもらった。
だから、これはしっかりとした堅牢な城の、客用に整えられた一室で宿泊し、翌日。早朝に起こったことである。
「リコ……聞こえますか、リコ……。私は今、あなたの耳元で直接語り掛けています……」
「……普通なんだわ……それは普通なんだわメガネ……でも近い。やめて……」
ナッサーヴァルト領に到着して三日目。
目覚めると、と言うか脳内に直接語り掛けるテンションで普通に起こされ、一体なにがどうなってなんなのと。
眠たい目をむりやり開くと、そこにはメガネとその後ろで困り顔のテオ。少し離れた立ち位置で大きくあくびしている金ちゃんに、我も起こすの手伝う! と、慈悲深く余計な気を回し油断し切った私の腹部に小さい足でぴょいぴょい飛び乗るフェネさんがいた。きつい。意外と重い小動物のちっちゃいあんよの足踏みは筋肉に乏しい腹筋に効く。
私の腹の上で踊り狂うフェネさんは「だめだよ。りこさんがおえってなっちゃうんだよ」と、二日酔いのオヤジを気遣うようなじゅげむによってすぐによいしょと抱き上げられてことなきを得た。
「ありがとね……じゅげむは優しいね……」
そうしてしょぼしょぼしながらに、やっと起き出す私に向かってメガネが告げる。
「あのさー、今この辺やべぇじゃない? 魔獣が。何かやたらといっぱいで。それでね、おかしいなーと思って調べてみたら、魔獣が出てくる穴的な場所見付たのね。そんなのさ、塞ぎたいじゃない? 塞ぎたいよね。塞ぐから、手伝って」
「……なんなんだろうな……この、全然なにも頭に入ってこない感じ……」
言ってることは一応理解できるのに、ぬるんと上辺だけで滑って耳と脳みそを素通りしてしまう感覚がする。それに。
「大体さー、手伝うっつってもさー。私にできることとかない訳じゃない?」
「いや、あるある。て言うかリコにしかできない」
「……たもっちゃん」
予感と言うにはあまりに明確に、不穏なものを感じて私は名前を呼ぶがメガネはそれを恐らく意図的にシカトした。
「あのね、あれよ。魔獣の出てくる穴ってね、水の中にあんのよ。この辺の水って湧き水的に地中から湧き出してるらしいんだけど、水源がさー、どうやら大森林」
「大森林の水こんなとこに出てくんの?」
危ねえじゃん大丈夫かよと思ったが、大丈夫じゃないから今こんなことになってんだなと思い当たった。
しかしこれは詳しく聞くと、半分当たりで半分は外れだったようだ。
「大森林の水だけど、一回地下に染み込んでるからさ。普通なら魔獣が一緒に出てきたりはしないのね。ただ、今は何か迷い込んだ魔獣がずんずん掘り進んじゃって、それで地下水の道が広くなって魔獣が出てきちゃってるし、もうすぐラスボス的なでっかい奴が到着しそうな勢いって訳よ」
「大丈夫じゃないじゃん」
「でも水が豊富にないと産業に困るし」
「大丈夫じゃなかったらそもそも困るだろ」
「そこでリコさんの出番って訳ですよ」
てへぺろみたいな顔をして、たもっちゃんは両手の親指をビシリと立てて俺の考えた最強の作戦を聞いてくれとばかりに説明に入る。
と言っても、内容はかなり単純だ。
もうすぐラスボス的なでっかい魔獣が穴からうぇいうぇいとやってくるので、それに合わせて私がぽーいと目の前に飛び込み巨大魔獣の攻撃を誘い、攻撃を察知すると全自動で吹き出してくる茨のスキルでラスボス魔獣を巻いて止めようと言うものだった。
「あまりにもクソ雑」
思わずそんな、率直な感想がこぼれ出る。
確かに天界製だけあって茨のスキルへの信頼は厚いが、攻撃される必要があるので私としてはなにも安心できんのだ。
そんな不安しかないこちらの空気を察してか、全力で心配してくれるのはじゅげむだ。
「あぶない? りこさん、あぶないことはしないほうがいいんだよ」
そう言って私にぎゅっとしがみ付き、押し付けられるじゅげむの頬が腕に当たってむにっとやわらかに形を変える。その刹那、自分の胸の内側で感情が破裂したような気がした。
この小さく愛おしき命を私は、私は必ず守らねばならぬ。
そんな思いがぶわっと爆発的にわき起こり、行ったらあ! と私は逆ギレのように暴走しまんまとメガネの怪しい作戦に乗った。




