567 涙に震える
玄関ではなんですしと家の中に招かれて、昨日と同じリビングにぐいぐい通されすぐに熱いお茶が出てきた。念のためにもう一度言うが、私は庭に用があってきた。
けれども庭の手入れを依頼したこの家の新米貴婦人は、私やレイニーをソファに座らせその正面に自分も座ると神妙な様子で口を開いた。
「わたし、困っているつもりはなかったの」
「それ昨日のあれのことですか。ですよね。そうなってくると私ちょっと自分の行動に自信がなくなってくるんですが」
「いいの。聞いて」
はい。
貴婦人のぶっ込んできた告白に、嘘やんとわき起こる心配を思い付くまま早口にこぼす私をたしなめ、彼女は語る。
「相手は旦那様の上役だったし、うまくあしらう自信はあったもの。でも昨日、あなた怒ってくだすったでしょ? それで解ったの。わたし、ひどいことをされてたんだわって。そうよね。新婚なのよ。なのに旦那様が単身赴任ってなに? それももう戻ってきていていいはずなのに、ずるずるずるずる遅らせて。しかも、結婚したばかりの女に愛人になれって、なに?」
「あっ、はい」
「わたし、もっと早く怒るべきだったんだわ」
「いや、でも昨日ヴェッくんもうまくあしらえててすごいって言ってたし、相手は貴族こじらせてましたし」
はっきり拒絶していたら、どうなっていたか解らなかったのも事実ってゆーか。
あとこれはもう個人のスキルに頼る部分が大きくて時と場合にもよるのだが、面倒を避けると言う意味でならのらりくらりとかわせるほうがケンカするより絶対にいい。面倒を避けると言う意味でだけではあるが。
理不尽はほら。理不尽なりと騒いで行かないと理不尽自体がなかったことにされがちだからほら。
ただそれは当事者たちの立場や事情で最適解が変わってくるので、一概には決め付けられないものがある。
「私はさあ、すぐケンカしちゃうから……なんでか解んないけど……。最適かどうかじゃなくて、とにかくケンカしちゃうから……」
そして事態をこじらせる天才ってゆーか。
しかも私自体は別に強い訳ではなくて、その場の勢いでわあわあ言っちゃうだけなのマジでつらくない?
よくない。よくないですよ勢いだけで突っ込んで行くのは。さながら鉄砲玉ですよ。思考が。
自分の才能がある意味恐い。
そんな気持ちで勝手にしんみりしていると、我々の向かいに座る貴婦人が真っ直ぐにこちらを向いて「でも」と言う。
「本当はね、挫けそうだったの。わたしは出身が平民の、それも夜の女だし。旦那様はわたしがいるだけでいいって決まっておっしゃるけれど、友人の一人もいないのよ。それはいいの。貴族のお嬢様はもちろん、奥様たちだって受け入れてくれるはずがないものね。だけど結婚して、貴族の籍に入った者がまだ店と繋がっていると妙な噂になったら困るってマダムにも会いに行けないの。解るのよ。マダムがなにを心配してるのか。世間ってきっと、そう言うものよね。でもね、そうしたら相談できる相手でさえも誰もいなくて。それでいつの間にか、誰にも頼っちゃいけないって思い込んでいたのね。全部、一人でやらなくちゃって」
ここまでをまるで一息に。
けれどもちゃんと言葉を選び整理して、しっかりと本心を伝えているのだと解る様子で語り尽くしたその人は、ふっ、と肩の力を抜くようにして最後にふわりと笑って言った。
「助けてくだすってありがとう。本当に、わたし救われたのよ」
時間としては、それからほどなくのことである。
冒険者ギルドへ立ちよって自分たちの受けた依頼は終わったと報告を終えた男子らが、なにも終わっていないこちらはどうかと進捗具合をうかがいにきて涙に震える私の姿を目の当たりにしたのは。
位置としては邸宅の裏。広さはざっと十畳と少し。
個人の家の庭ならば充分なような、けれども住人が貴族だと思えば少々規模のささやかな、その庭の入り口で私は背後を振り返る。
「たもっちゃん、聞いて」
「えぇ……何かやだ。聞かなきゃしょうがないのは解ってるけど、何か凄い聞きたくない気がする。ねぇ泣いてる? 何か泣いてる? やだぁ。リコが泣く時ってあれじゃん。食べ慣れてないお寿司に隠れたわさびに気が付かないでがっつり食べ過ぎた時とかじゃん」
「たもっちゃん、多分ボケたつもりだと思うけどそれ割と近い」
「ボケかどうかも怪しいレベルで滑ったボケを拾ってトドメ刺してくんのやめて……」
たもっちゃんはすごく悲しげな表情で、弱々しく蚊の鳴くような声で言う。それでいて、自分のボケが全然おもしろくなかったことを思いのほか正確に把握しててよかった。分析力と笑いの才能は別に相関関係にないと言うことがよく解る。
そうやって、次からはもっとおもしろくボケてとダメ出ししつつ私はえげつなく泣いていた。なにとはハッキリ言わないが、鼻から出てくる水分もなんだかちょっとだけとめどなくすごい。
それはもうレイニーもドン引きで、絶対に近付いてこないほどである。ただ近付いてこないのはレイニーだけでなく、この邸宅の住人たちも同様だった。
「だから……だから止めたのに……」
あんなに感謝を切々と、経緯を思えばもらいすぎなくらいの言葉にしてくれて、その尊さで私をはわわとさせた貴婦人が庭向きの窓の向こうから透明なガラス越しにあわわわとしている。
そう、わさび以外では泣かないと評判の私の涙はこの庭由来のものなのだ。
「たもっちゃん、見て。これ。見て。そしてむしって。この草。思い切ってむしって」
目元をぐしぐし袖で拭き鼻もずびずびさせながらそれでも懸命に訴える私に、たもっちゃんは全て心得ているとばかりに自らのずれてもいない天界製の黒ぶちメガネをクイッと直してうなずいて、なんらかの秀才のような空気を出してしっかりとうなずく。
「リコ、俺を罠にはめるつもりならもうちょっと悪意を隠したほうがいい」
「悪意じゃないですうー! すげーびっくりするからこのおどろきを大事な幼馴染にも味わってもらいたいだけですう!」
嘘である。
家主らがあの草マジやべえからと必死で止めてくれたのに、せやけど私、健康ですし。まあ行けるやろ。へーきへーき。とか言うて、秋と言うのに庭いっぱいに青々はびこり侵食しているなんらかの草を、雑にぶっちぶっちちぎってみたらほどなく目鼻口の粘膜をやられた。
ちぎったのはちょっとだけだったのに、もう全然なにも止まらない。目と鼻からの水分とかが。口もなんかスースー痛くて、唾液もなんだかぐだぐだとしている。
これはね。参りましたね。さすがにね。
「たもっちゃん。もうさ、これはさ、みんなで同じ目にあってくれればいいと思うんだ」
「何もよくないし何でそんな当然の様に道連れにすんの……。リコのそう言うとこホントどうかと思うよ俺は」
私としては純粋にこのつらさを誰かに解ってもらいたい一心なのに、付き合いの長すぎる幼馴染ですら決して同じ沼に沈もうとはしてくれなかった。ひどい。
たもっちゃんはもっと共感する気持ちを持ったほうがいいと、まるで正論を吐くかのように私がメガネをたしなめてお前が言うなと当然の反撃を受けてわいわい騒ぐ我々の。
少し離れた辺りから「我知ってる」と深刻そうに声を上げたのはフェネさんだった。
じゅげむと金ちゃんが昨日と同じく公爵家でお留守番であるのに対し、やはり今日もテオにくっ付き離れない自称神の小さなキツネは体の割に大きな耳をぺったり伏せて尻尾を丸めテンションを急降下させていた。
「その草ね、つぶすとずっとくさいやつ。くさくてすごいしぱしぱするやつ。でもくさいけどおなかにいいからたまに食べるって村長が言ってた。しぱしぱしてくさいけど」
「すげーくさいの強調するじゃん……」
そして実感すごすぎるじゃんと思わず引いてしまう私の前で、フェネさんはなにかを思い出すかのように大きな両目をぎゅっとして今まさにしぱしぱしているみたいな顔だった。あと無意味に舌もぺろぺろしてて、なんとなくすごく苦そうにしている。
まだ若干ぐずぐずしてはいるものの私の目鼻口の水分も引いてきてだいぶん大丈夫になっているのだが、深刻そうなフェネさんを見てると再び挑む勇気がなくなりそうだ。
「いいのよ。無理しないで。依頼なんて取り下げてもいいし。ほかの人に頼めばいいだけだもの……」
窓を介した家の中からあわわわと、ずっとそう訴え続ける貴婦人に甘えたい気持ちがなくはない。しかし、それはできない。
「私、草にだけは負けたくないの」
つい今しがたメガネを巻き込まんとしていた強引な自分の行動をすっぱり忘れ、私はキリッと強い意志を示した。
レイニーが付き合い感いっぱいに、なぜか「はいはい」と拍手だけはしてくれた。




