176 最速でカニをむく魔法
お昼になって、エルフの里はカニの香りに包まれた。
エルフにちやほやされたい一心で、たもっちゃんが準備したカニパーティーの始まりである。
そんな中、幾重もの輪になり特に密集している人垣があった。中心にいるのはレイニーだ。美しきエルフに囲まれながら、しかし決して見劣りしない美貌の天使はいつになくキリリと表情を引きしめて言った。
「良いですか。蟹は堅い殻に包まれています。ですがその中に隠された身はぷりぷりと柔らかく、無駄なく取り出す事は実に困難を極めます。しかし、嘆く事はありません」
彼女は静かに、しかし熱っぽく語って宝石みたいな青い目を伏せる。
体の前にゆるりと広げて伸ばした両手の間には、いやにおごそかな雰囲気でボイルされたカニの足が支えもなく浮いていた。
ほっそりとした指先を動かし、レイニーがカニに向かって練った魔力を展開させる。
それからはあっと言う間のことだった。
魔力によって操作され、指向性を持つ風が甲殻の内側に入り込む。それは硬い殻とやわらかな身を繊細かつ完璧に引きはがすためだ。それから筒のような形状の殻にすぱりすぱりと切れ目が入り、細い関節の方向に向けてバナナの皮のように裂けて行く。
慎重に、しかし確実に。硬い殻が取り除かれて、現れたのはぷりぷりの身だ。
術者はそれに、うっそりと笑う。
「御覧なさい……民よ、革命は成りました」
――これが、金ちゃんを見ていると言う建前で万能薬を勤勉に丸めるエルフの作業に参加せず黙々とカニを食べていたうちの天使がその実力をムダに駆使して編み出した、カニの身を無傷かつ最速で取り出し食べ続けるための魔法であった。
一体なにをやっているのか。
思わず真顔の私の前で、しかしエルフは沸き立つように熱狂して見せた。練られた魔力があちらこちらで吹き乱れ、カニがまるでバナナのようにたやすくめきめき丸裸にされる。
エルフ解放軍として、クレブリに行った同胞たちからカニの話を聞く機会があったのかも知れない。
エルフの里から出たことのない比較的保守的なエルフすら、実物のカニを前にしてウホウホとゴリラのように甲殻類を称えた。
いかに美麗なエルフといえど、カニの前にはゴリラになるのだ。勉強になった。今後の人生で役立つ場面は恐らくないが。
こうしてレイニーが開発、布教した、最速でカニをむく魔法の功績もあり、エルフの里にカニ食の文化が恐ろしい速度で浸透したのだ。
「さ、どんどん剥くから、どんどん食べるのよ!」
張り切った大人のエルフがそう言うと、子供が元気に「はーい!」と答えてむき身のカニにかぶり付く。
エルフの親に抜かりはないのだ。
まだ魔法に慣れなくて、うまくカニをむけない子供を大人が世話してあげていた。それも手の空いた大人が適当に、入れ代わり立ち代わり様子を見ていて負担を分け合っているのが解る。
エルフは親以外にも抜かりはなかった。
寿命が長い種族だと、あんまり子供が生まれないらしい。それはエルフにも当てはまり、そのためか親も親以外のエルフの大人も子供を大事にしているようだ。
そしてその、自動的にむき身のカニが出てくる子供の席に私もなぜか組み込まれていた。
いや、助かる。異世界のカニもやはりカニ。むき身で出てくるの、ほんと助かる。
無意味にクロヤナギさんを呼びながらマッチくらいの火を着ける、ささやかな生活魔法しか使えない私をエルフが気遣ってくれたのだ。その優しさがちょっとだけつらい。
木々に囲まれたエルフの里の、広場と呼ぶべき開けた場所は真っ昼間から宴会のようになっていた。安易にエルフの寵愛を求めた、うちのメガネのせいである。
すでにゆでてあるものを一気に放出していたが、たもっちゃんはちやほやされたい一心でまだまだカニをゆでている。下心がそうさせるのだ。
エルフは無限に出てくる甲殻類にウホウホと群がり、そこら中で集団を作った。
無心にカニを食べる彼らはそれでいて静かと言うこともなく、広場はカニカニカニカニと空気に異様なざわめきがある。
「これは旨いな」
「カニにはショウユが合うのね。アツカンで流し込むと格別」
「わたしは冷えたニホンシュがいいわね」
「きりっとしたニホンシュで味覚が冴えるのか、カニの旨味が増す様に感じる。また逆に、カニの味が残った口に日本酒を含むとまた味わいが深くなる」
「うん。止まらんな」
「うん。これは止まらん」
カニと日本酒のエターナルチェーンに囚われたエルフは、口々にこりゃー参ったと言いながら全然嫌ではなさそうだった。
わいわいしているエルフたちの間に、ドラゴンさんも気ままにまざる。むき身のカニを捧げられつつ、あちらこちらの集団を好きに移動しているようだ。
ちょっとした食べ歩きなのだろう。ウシサイズながら重量だけは怪獣級のままなので、ドラゴンさんは物理的に浮いてるが。
どうやら自然発生的にいくつかできた集団によって、調味料が独自に変化しているらしい。
純粋なしょう油こそカニには至高と排他的なコンサバ班。
柑橘めいた果実をもちいて究極のポン酢を追い求め始めた探求班。
ピリ辛の薬味で強気に攻める急進タカ派。
我々が持ち込んだ異世界の寵児、マヨネーズについては議論を呼んでいまだ結論は出ていない。
ほかにもトリッキーな少数派たちが数人ずつ集まり我が道を行く姿も見られたが、小学生男児のような悪ノリでいたずらにカニをダメにした時には周囲からめためたに怒られていた。
大自然を愛するエルフは、食材への敬意にあふれて厳しい。
また、食材の味をそのまま味わう調味料不要の自然派については、孤高の先駆者として金ちゃんがいた。
調味料なしでカニを行くのはエルフの中にも結構いたが、殻まで味わうのは金ちゃんだけだ。と言うか、金ちゃんもできれば殻はペッてして欲しい。
しかしそんなの知ったこっちゃねえとばかりにカニをばりばり殻ごと噛み砕く金ちゃんは、視線だけは油断なくふらふらしているドラゴンさんを追っていた。
大森林の生物として、最上位種のドラゴンがいるとさすがに落ち着かないようだ。それでも食べる勢いは止まらないので、最初の頃より多少は慣れてきたのかも知れない。
エルフの里での宴会二日目、欲望のカニの回はこんな感じで盛り上がりを見せた。ひたすら食べてただけの気もする。
メガネもエルフに絶賛されて、気色悪く全身をぐねぐねさせてよろこんでいた。本当によかった。変態の承認欲求も、これで少しは満たされたに違いない。罪作りな業である。
気付いた、と言うのはあまり正しくないだろう。
我々がその事実に思いいたるのは、だらだらと夜まで続いた宴会が終わり、里長の家に戻ってもう寝ようかと言う頃のことだ。
日本の田舎の古民家に似た、どこか懐かしいエルフの家には縁側があった。
外側に雨戸も存在しないその場所は、ぬれ縁と呼ぶべきものだろう。たもっちゃんと私は庭に向かってそのふちに座り、ひんやりとした夜の庭に視線を投げた。
春の月が冴え冴えと、頭上に重なる梢からレムングの花がぱらりぱらりと落ちてくるのを幻想的に照らし出す。レムングの花は大きいが、足元は降り積もった花びらでふかふかとまるで絨毯のようだ。
ここには私たち二人しかいない。背中を向けたガラス戸の向こうは囲炉裏の切られた団らんの部屋だが、すでに灯は落とされて暗い。里長たちは部屋に引き上げ、レイニーと金ちゃんは客間の中で寝ているはずだ。
ふと。静かな空気を震わせて、たもっちゃんが口を開いた。
「まさか、こんな事になるなんてなぁ」
寂寥を感じさせる呟きに、私は答える言葉を持ち合わせていない。
縁側の、私たちの間には一つの箱が置いてある。かつて、クレブリでドワーフに特注して作ったカニスプーン三十本だ。
いざと言う時に必要だろうと、十本はクレブリの孤児院に置いてきた。だから手元にあるのは二十本。
エルフは割とカニを愛してくれる。
そのことは充分知っていたから、我々は疑いもしなかったのだ。カニスプーンの活躍を。と言うか、二十本じゃ足りないかもなあ、くらいのことを考えていた。
だが、カニスプーンの出番はなかった。
昼間の熱狂がすぎ去って、ああ、そうだったのかと我々はやっと理解した。
エルフは魔法にたけている。レイニーが開発したカニむき魔法も貢献し、バナナのようにたやすくむいた。エルフの里に、カニスプーンの居場所などないのだ。
いつだって残酷な現実を思い、たもっちゃんと私はどこか寂しく夜の庭を見詰めた。




