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「次は、宝石商に行くわ。指輪と、それから髪飾りも。帯留めも欲しいわ」
「散財しすぎじゃないのか、サフナール」
馬上でジェレフは頭痛を感じた。そろそろ喫煙の時間ではなかろうか。
そう言えば、最近いつも煙に巻かれているはずのサフナールは、朝から煙管も吸わずに平気な面をしている。買い物をしていれば、頭痛も感じないということなのか。恐るべきことだった。
「昼だ。何か食おう」
今度は宝石商で呆然とする自分が哀れで、ジェレフは半ば懇願する思いで、サフナールに提案した。
飯だ。少なくとも、食っている間は、サフナールと自分に、さほどの違いはないはずだ。片方だけが喜々として、もう片方は死にかかっているというような、悲惨な絵図にはなるまい。
「わたくし、お腹が空いていないの」
「俺も空いてない。でも昼だ。何かは食ったほうがいいよ」
健康のためにも。
ジェレフがそう説得すると、サフナールは無言で聞いていた。
本来、こういうことは、サフナールに説くような事ではない。彼女は食餌療法に精通した医師だし、栄養学もきっちり学んでいる。健康のためには何か食べたほうがいいなどと、乱れた生活をしているジェレフからは、偉そうに言われたくもないだろう。
「不養生なあなたに……」
「言われたくないよな。わかるけど」
頷きながら、ジェレフはサフナの言葉を引き取った。なぜか馬まで頷いていた。
「わかったわ。何か食べましょう」
ため息をついて、サフナールは馬首を巡らせた。心当たりの店があるらしかった。
かぽかぽと蹄を鳴らして、サフナールの馬は従順に主人の手綱に従って歩みを進めている。
街なかで、人通りも多いことから、馬を走らせるわけにもいかない。ゆっくりと人混みを縫って進み、やがて二騎は、市場を抜けて、さほど人通りのない界隈に出た。
そこへ来ても、サフナールは馬をゆっくりと歩ませていた。
ジェレフには馴染みのない地区だが、このあたりは確か、富裕層向けの料亭のあるあたりだ。商人たちが遠方からの客をもてなすための、旅籠もある。贅沢な酒食と、宿を提供する店があるあたりだ。
王宮に住まいのあるものが、街の旅籠に泊まる必要はない。全く。
だからジェレフは、この界隈に用がないまま生きてきたのだ。
しかし王宮の者にも、このあたりに足繁く通う用のある者はいる。市井の者と、付き合いのある場合だ。もっと具体的には、王宮では逢引できない者と、懇ろになっている場合だ。
ひょっとすればサフナールにも、過去に、そういう用事があったのかもしれない。そう思うのは、邪推だが。
邪推だな。
ジェレフは馬上でひとり、反省した。
「そんな、がっつり食うことないだろ……」
サフナールが、料亭で宴席の飯を食う気なのかと、ジェレフは思った。そこらへんで、ちょっと食うのでは嫌なのか。普段、玉座の間の高段で、上級女官にかしずかれて飲み食いするのが板についていて、そこらの食堂では飯も食えないということか。
ジェレフは鼻白んで、サフナールの背に呼びかけた。
髪を揺らして、サフナールは振り向き、ジェレフをじっと見つめた。
「違うわ。ちょっと早いけど、旅籠で湯でもあびようかと思って」
「え……どういうことだ」
「どうって、あなたとちょっと寝ようかと。久しぶりよね、エル・ジェレフ」
真顔で言われ、ジェレフも驚く隙がなかった。
それでも、内心深く驚いてはいた。
「せっかくだから、わたくしも、女らしく着飾ってと思ったのだけど、これでは仕立てが間に合うはずもないわ。でも、貴方が退屈して、帰ってしまいそうだから」
そう長く、よそ見をする訳にいかなかったのか、サフナールは馬上で振り向くのは止して、またこちらに背を向けたが、ジェレフには、その背がどことなく寂しげに見えた。
「そんな事しなくても、帰ったりしないよ……」
自分まで意気消沈してきて、ジェレフは俯いて話した。
二頭分の馬の蹄の音だけが、かぽかぽと、のんきに響いている。
「そう? では、先に食事をしましょうね。積もる話もあるし」
振り向かないまま、サフナールは言った。どうも、ばつが悪そうだった。
サフナールに、夜の玉座の間で出会ったことはない。誘われた事もないし、誘った事もないはずだ。
サフナールは宮廷で浮名を流す種類の英雄ではなかったが、かといって、清純なわけでもなかった。
男ばかりの派閥の部屋では、誰が誰とできているといった口さがない噂話にも遠慮がない。サフナールが、誰とやったの、やってないのという噂は、他の女英雄たちについてと大差なく、酒の席での話題にのぼった。
彼女がいかに分け隔てなく、誰とでも寝るか、そして後腐れがないか。愛だの恋だの抜かす子供じみた男に、いかに冷たく素気ないかということも、よくもあの可愛げのある顔で、と恨む話とともに、ジェレフにも伝わってきた。
エル・サフナールはあの顔で、百戦錬磨の蟒蛇で、男を捨てるときに涙の一つも見せはしない。役に立ちそうな男なら、誰とでも寝る、さすがは治癒者と、揶揄する声もあったが、彼女が玉座の脇に侍るようになると、それも止んだ。面白半分の恨み言も、気軽に口に出せる範囲を越えたせいだった。
あいつは玉座と寝てるのか。
それは想像を絶する出来事で、あってはならぬことだった。少なくとも、英雄たちの間では、そう認識されていた。
なぜなら、玉座の君と英雄たちは、双子の兄弟で、家族だからだ。
現実には何の血縁もない、王族の家長と、その養い子である孤児たちでしかないのだが、幼い頃から教え諭されてきた、その感覚は、頭に石を持つ誰もに根強いものがあった。
ただの噂だ。皆、近侍の者をやっかむ。ジェレフにもそれは覚えがあった。玉座の寵愛を受ければ、玉座の間の柱の陰で、派閥の部屋で、有る事無い事囁かれるものだ。それが宮廷というものだ。
彼女が治癒者で、侍医ともなれば、族長の側近くに侍る。いざ、その治癒術をもって仕えるという段に至れば、患者の肌に触れないわけにはいかない。たとえそれが、玉座の君でも、誰でも、治癒術とはそういうものだ。
彼女が女でなければ、そこまで言われはしなかっただろう。治癒者が近侍に加わるのは、当たり前のことで、ジェレフも派閥の後押しで、長く族長の近侍として仕えた。その間、一体誰が、ジェレフは族長と寝ていると噂しただろうか。
流行病や負傷の折に、族長の寝室に宿直することもあったが、それでも、そんな中傷はされなかった。少なくとも、真面目にそんなことを思っていた奴はいまい。
それがサフナールとなると、なぜ皆それを真に受けるのか。
「着いたわ。この店が馴染みなの。美味しいのよ」
一軒の店の前で、サフナールは馬を止めた。老舗の有名店だった。豪商が屯する。
女英雄たちは連れ立って、街歩きをするのを好む。おそらく、こういうところで集まって、飯でも食っていたのだろう。そうに違いない。それだけのことだ。ジェレフはそう思った。
サフナールはにこにこと、ジェレフに下馬を促した。
「早く行きましょう。楽しみね」
嬉しそうに言うサフナールは、酒を飲む前の顔をしていた。