イキの仕方
…………あぁ…病院だ……
結局、私はここに戻って来るんです。ここで…立ち止まっているんです。
私はお母さんのいない病室の白いベッドをそっと指先でなぞります。誰もいないベッドは冬の寒さを纏っていた。
「私…思い出したんだお母さん……」
お母さんを失った時の悲しみを、言葉を紡いでしまった後悔を、守りきれなかった虚無感を、罪悪感を、苦しみを、痛みを、恐怖を。全部思い出した、思い出したんです。
「やっぱり私は…生きてちゃダメだったのかな……」
…………何時間ここにいるんでしょうか。
ここは…私の記憶のなかでも一番苦しい場所だ。あの夜…怖くて怖くて仕方なかったこの病室。そこに私は私の意識が途切れてからずっとここにいる、扉や窓が何故か開かなかったって言う理由もあるけど…多分これは……私の気持ちの問題なんです。
「ここは…私の罰なのかもしれない……」
どうしても…お母さんを死なせてしまったこと、守れなかったこと、自分の受けるべき痛みを忘れてしまっていたこと……その過去からは逃げ出せない。
……私はもう、あんな怖くて罪深くて不安定な人生をどうやって生きていたのか分からない……だから今の私はこんな場所で罪悪感を紛らわせようとでもしてるのかな。
「やっぱり…自分の気持ちが一番分からないや……」
『璃々愛ちゃん……』
「……」
私は視線をベッドに落としたままその声に耳を傾ける。どうやらその声の当人は私の後ろに立っているみたいだ。
いつもの小さな落ち着いた声で転がすように私に語りかけてくる。
『あの男の子も言ってた…逃げられないなら、耐えられないならそんな嫌な事なんて忘れてしまえばいいんじゃないかな』
「忘れてたんです。愛斗に甘えて…押し付けてしまってました……でも…これは私が背負わなきゃいけないはずなんです。だって私が……」
『私が殺したから?』
「……………そう…ですね……実際に手をかけてはいないかもしれませんが……私の言葉がお母さんを殺しました……」
『そう……でも、璃々愛ちゃんが背負えるようなものじゃないんじゃないかな』
「だからって…愛斗が…愛斗だけが痛みを感じてるのは嫌なんです!愛斗まで失う訳にはいきません!本当は私が愛斗を守らなきゃいけないから……!」
私はまだ振り返らずにお母さんのベッドのシーツを強く握りしめながら酷く痛んで熱くなるような頭の中を落ち着けようとする。
「だって…私はお姉ちゃんですから。だから、私が背負います。この悲しみも痛みも過去も記憶も…罪悪感も……あなたもです、桔梗さん」
ようやく、私は振り返りその人と真っ直ぐに向き合った。
あの時と同じナース服、いつもは伏せめがちな瞳はあの時だけは揺るぎない光を帯びていた。そしてあの言葉を紡いだ落ち着いた声で話し始める。
『……やっぱり、どうしても理解出来ないです…辛いなら…断ち切ってしまうべきじゃないでしょうか』
「…………それは…誰が勝手に決めていい事じゃ…ありません」
『なら璃々愛ちゃん自身は決められます』
「………っ…」
『璃々愛ちゃんが背負おうとしてるものは生きて…感じていくにはあまりに大きいです。だから、辛いなら、痛いなら、怖いなら……わざわざ生きる意味は無いと思うの』
「……でも…私は……」
………………言葉がうまく出せない。
いつもの私なら…全てを忘れていた私なら、こんな言葉は十でも百でも言い返したり…してたのでしょう。でも……この人は…この人には私は何も言えなくなってしまう。
『現に璃々愛ちゃんは今生きようと…息をしようとしてないんじゃないですか?世界の空気は汚いから。愛情なんて…私が壊せてしまうくらい脆いから……』
ダメ……この人の言葉は…声は…ダメなんです。視界が涙でぼやける。頭が何も考えられなくなる。
引きずり込まれてしまう。
『ここも生きながらいては辛いでしょう?だったらいっそ……生きるのを止めてみませんか?璃々愛ちゃん』
ぎゅっと、桔梗さんが私の体を抱きしめた。私に触れる腕がとても優しくて、桔梗さんに包み込まれているのがとても暖かい。私はその腕の中でまどろむ。何も…感じられずにただただまどろみ続けていった。
『大丈夫…大丈夫です。私が、一緒に死んでいてあげるよ璃々愛ちゃん』
「一緒に死んでほしい…の間違いじゃないの?」
『……』
まぶたを少し伏せたまま、声をかけた彼の方を見ずに彼女は小さくため息をつく。大事そうに大事そうに抱えた璃々愛をさっきより強く抱きしめながら。
『帰って……愛斗くん…だっけ、私…あなたは嫌いです。璃々愛ちゃんの記憶や痛み…零れ落としてしまいましたでしょ?』
「……あなただって零れ落ちた一部じゃないか。ボクが璃々愛から切り離してたのに…立花桔梗の残滓である君を」
立花 桔梗。璃々愛の中に巣くうトラウマ。呪いの言葉。心の歪んだナース。表し方はいくつもあるけど……
詰まるところ、ここにいる彼女は璃々愛の生きる意味を奪った張本人。立花桔梗の言葉から璃々愛の中に巣くった彼女の残滓だ。
でも、ボクが彼女を睨みつけても彼女は少し怒ったままふてくされるような態度になるだけだった。
『切り離したりなんかするからいけなかったんです。ほら、私なら璃々愛ちゃんを悲しませない。生きる痛みから救ってあげられる』
そう言ってよりいっそう大切そうに璃々愛に微笑む彼女。
その姿が酷く不気味で気味が悪い。
なにより、そんな彼女に抱きしめられている璃々愛の姿。生気が無く、ぐったりとした体に浅い息、まどろむ瞳には光を宿してしなかった。…その全てがとても痛々しい。
悔しさや苛立ちが押し寄せる気持ちからギュッと自分の拳を強く握る。
「…ねぇ、救うって何?そうやって…悲しみや痛みから救えれば心や体が死んだって構わないってこと?」
『えぇ…もちろんです。例え体が死んでしまっても…心が壊れてしまっても、そんな事過程にしか過ぎませんから。全ての苦しみから解放される…その為の』
「……」
『それに、私璃々愛ちゃんが大好きなんです。優しくて明るくて真っ直ぐで…少しおませで愛らしい、長い髪は――いつもおさげにしているの』
「……やっぱり…」
彼女は最初から璃々愛なんて見ちゃいなかった。
彼女の瞳はとうの昔に狂ってくすんでいるんだから。
「あんたはずっとそうだったんだ。璃々愛を救うなんて言ってたけど、あんたが救っていたのは璃々愛じゃない。ずっとずっと…死んだ娘を救い直してたんだ」
救えなかった娘の事を後悔し続けて、そしてよく似た境遇の璃々愛達を娘と重ねていた、やり直していた。それも…最悪の形をした方法で。
でも、ボクがそんな言葉を口にしても、彼女は変わらず璃々愛を抱きしめ続けるだけで聞こえてはいないようだった。聞いていないんじゃなくて、事実璃々愛を娘と重ね続けてしまっている彼女にはこの話しは聞こえないんだろう。
彼女の言うとおりボクにも罪がある。璃々愛がこうなるきっかけを作ったのが彼女なら。璃々愛がこうならない可能性を奪ったのがボクだ。
それでも……璃々愛をこのまま彼女に縛り付けられたままにするつもりはない。諦めが悪いのは璃々愛と同じだし、ボクだって、璃々愛と一緒にこっちの世界を生きていたんだ。ここには璃々愛を大切に思っている人がたくさんいる。ボクが諦めてしまったら璃々愛をそこに返してあげる事もできない。認めたくはないけれど…この世界で璃々愛は確かに笑顔だった、璃々愛を大好きな人達がたくさんいてくれた。
……ま、ボクが一番璃々愛を好きだけどね。
少しだけ微笑んだ口を噤んで、ボクは顔を上げるとしっかりと前を見ながら一歩彼女の方へと踏み出した。
「あんたが助けたいのは璃々愛じゃない、大好きなのも璃々愛じゃない!それが分からないんだったら、璃々愛はボクに…!ボク達に返してもらう!」
『嫌って言ったらどうします?』
「暴力万歳!」
噤んだ笑みを思わずこぼしながら、彼女へ向かってダッシュする。
ボクがはなんとしても璃々愛を取り返す、奪い返す。それが殴る蹴るで出来るのなら暴力的でもいいじゃないか。誰だって一度は夢見る略奪愛!そこに何の問題がある。
そう考えつつ、璃々愛を抱きしめる彼女に向かって容赦なく蹴り破る気で突っ込む。
でも――
『……あなたも邪魔をするんですね…………』
彼女がそう呟いたその刹那。彼女達が座り込んだ場所より向こう側から強く冷たい突風が吹き抜けた。目も開けられない程の突風に思わず足が止まる。
『そこで…ずっと止まっていてください。璃々愛ちゃんが眠りにつくその時まで』
「っ…!り――!?」
璃々愛の名前を呼ぼうとしたのを寸前で止める。
しまった…ボクはこの場所で璃々愛を呼べない…!ここはあの病室。そしてご丁寧にもあの時と同じ深夜の暗闇が包む時間。そう、あの時…ボクの璃々愛を呼ぶ声が、璃々愛を傷つけた時だ。
(よりにもよってボクの方の一番のトラウマを――!)
でも、それでも…!
璃々愛の名前を呼べない痛みを胸の奥に押し込めながら吹き荒れる突風に立ち向かうように無理矢理足を動かす。視界は殆ど見えないけどとにかく進む事だけを考えた。
「…っ…!うご…け…!!」
『……まだ…これじゃ足りないか……じゃあ――』
ガシャンッ!
と、響く何かの音。目を開けられないボクには、それが突風の乗ってボクに向けられた窓ガラスの破片だと瞬時に気づく事が出来なかった。
『絶対に…邪魔はさせません』
避けられない…!?
そう答えが頭をよぎった瞬間。僕の辛うじて見える視界に広がったガラスが突き刺さるよりも速く、僕の足が床から離れ、その体は突風の風の流れの外にへと押し出された。
『……!?』
「な……!」
その勢いで床に勢いよく倒れ込む。でも、少しの衝撃だけで痛みは無い。
ボクは顔を少し上げて確かめる。ボクを押し出してそのまま受け身までとってみせた…ボクが一番認めたくないそいつの姿を。
「本当…やんなるくらいタイミングが良くてムカツク……ありがとう、助かった…アルト・フローリア」
「思わず飛び出したが…良かったのか……」
『……』
彼は璃々愛を抱えた彼女を見つめ立ち上がる。例の突風は、とりあえず今は収まっていた。
しばらく互いを見ていた2人の静寂は、彼女のその言葉で断ち切られる。
『……また邪魔を…してくれましたね』
「邪魔をするために飛び出したんじゃない。彼を助ける為に飛び出した」
『仲がいいですね…』
「よくない。よくなった覚えもないしよくなるつもりもない」
「……マナト」
「本音だよ」
「余計に傷つくが?」
『ふふ…賑やかな人達。でも…せっかく眠る璃々愛ちゃんを起こしちゃダメですから…静かにしてくださいね』
「マナト。このままリリアを眠らせたらどうなる?」
「……二度と璃々愛の声は聞けないよ」
生きた死人になるだけだ。
「それは…困るな。うちに発狂されかねないのが何人かいる!」
「だから…奪い返すよ。なんとしても!」
彼が身構えるのを確認しながらボクは…もう一度思いを確かにし直した。




