とある少女の内緒
『生物の身体は細胞と呼ばれる身体の基本単位からできている。
細胞の内部構造は原核細胞と真核細胞で異なっており、多種多様の生物が存在する。しかしDNAや細胞質の最外層が細胞膜になっているなど、基本的な構造は共通し――』
「……」
バタン。
うん、訳が分からない。
……うーん…ここはひとつ単語ごとに調べて突き詰めていくべきかな…内容的にはとても面白そうなんだけどなぁ……
仕方がないので、私は一旦『まるわかり医学・生物学』と書いてある本を丁寧に本棚に戻します。
私が今いるのは軽食所と待合スペースの間にある本棚の前。そして、この本棚の辺りはもはや私のスペースとかしていたりする。
なんせ、小児科は別棟なのに児童図書と医学書オンリーのこの本棚を利用する人は皆無に等しく、せいぜい隣の本棚の雑誌や新聞を読む人がいるくらい。
そんな中ことあるごとにこの本棚の前に入り浸った私は周りの人から『本棚ちゃん』と言う称号をもらうまでになった。
ちなみに、悪い気はしていない。
「なにより、本は素晴らしいんです」
この本棚も蔵書こそあれだけど、数だけならかなりある。
しかも雑誌や新聞は定期的に変わるから飽きる事がありません。お家では読めなかった内容もたくさんあるんです。
これを素晴らしいと言わずなんと言うでしょうか!ビバ活字!ビバブック!
one for book!book for one!です!
「……何をしてるの?璃々愛ちゃん」
「ひゅわぁあ!?」
びっくりした!と言うかタイミングが悪いです!誰ですか私の読書没頭タイムを断ち切ったのは!許し難い行為ですよ!本を読んでいるのを邪魔するなんて…モラル違反です!
「って……つ、つかさ先生」
「こんにちは、璃々愛ちゃん。何をしていたの?」
読書に没頭してました!
…とはなんとなく今の心情では言いづらいです……その…なんかごめんなさい。
「えっと…時間潰しです……お母さんが今とーやく中だから」
「あぁ、そっか。璃々愛ちゃん…百合菜さんの投薬治療の間ずっとここにいたの?」
「はい、本を読んでました」
私は本のお話になるとなんだか楽しくなって、さっきまで読んでた本のいくつかを本棚から引っ張り出すと、意気揚々とつかさ先生に見せ始めた。
つかさ先生はお母さんの担当医さんでもあるけどそれ以上に私を見かけるたびに話しかけてくれる、優しい先生です。
「医療や生物学…脳科学の本まで……璃々愛ちゃん…今何歳だっけ?」
「もーすぐ8歳になりますよ」
ぐんぐん成長していってるんですよ!主に身長とか身長とか身長とか!
しかし、私の身長についてはスルーで、つかさ先生は私とその本を交互に見比べます。
「しかし…凄い凄いとは思ってたけど……璃々愛ちゃんはこういう本が好きなのかな?」
「興味はあります。でもわかんない言葉がたくさんありすぎて難しいです……」
「そうだねぇ、この辺の本は大人でも難しい物が多いからね」
「そうなんですか?」
すると私はふと、ある質問が頭に浮かびました。
重苦しくずっと気になっていたその質問を私は唐突ながらつかさ先生に問いかけます。
「つかさ先生」
「ん?何かな璃々愛ちゃん?」
「つかさ先生が前にお母さんの体を『特殊』って言ってました、あれってなんなんですか?」
「特殊…あぁ、あの時の……」
あの時…というのは、つかさ先生と初めて会った時の事です。
その事に気づいたつかさ先生は一度、しっかり私と向き合います。そして、真剣に真っ直ぐな雰囲気で私を見つめてくれました。
「そうだね、璃々愛ちゃんのお母さん…百合菜さんは一言で言うと人一倍体が弱いんだ」
「それは…ちょと知ってます……」
前のお家にいた時から風邪を引く回数は私よりお母さんの方が多かったし…ちょっと遠くに出かけると直ぐに体調を崩していました。
それになにより…お母さんが自分の体が弱かったから愛斗を産んであげられなかったと泣いていたのを少し…知っています。
「理由は…いくつかあるんだけど生まれつきって言うのと育ってきた環境…ってのが大きいかな」
「環境……?」
「いや…その辺は私も百合菜さんの地元の診療所の人に簡単に説明されただけだからね……でも、百合菜さんが育ってきた環境って言うのは『特殊』なんだと聞いている」
特殊…ってなんだろう。私も一度もそんな話は聞いたことがありません。
そういえば私、お母さんからお父さんのお話はよく聞くけどお母さんが自分自身のお話をするのは殆ど聞かないや……
首をひねる私を横に、つかさ先生はお話を続けます。
「でも、特別体が弱いっていうのが百合菜さんの体が特殊だという意味に変わりはないかな」
「……つかさ先生、お母さん…大丈夫…なのかな……」
体が弱いっていうのは知ってたけど改めてつかさ先生に言われると、なんだか少し怖くなりました。ちょっとだけ顔をうつむかせてしまった私に、つかさ先生は不思議にも笑顔を向けてくれました。
「璃々愛ちゃん、ここは病院で…私は医者だ」
「……うん…」
「どんな人でも、どんな病気でも生きる事の可能性の為に命を懸けるのが私の仕事で…私の責任なんだよ」
ふわっと、温かい何かが私の頭の辺りに優しくのせられました。
それはつかさ先生の沢山の命を持った…大きくてあったかい手。その手で私の頭をぽんぽんと撫でてくれました。
「だから璃々愛ちゃん。君は…お母さんの隣にずっといてあげるといい」
「ずっと?」
「あぁ、そのずっとを作るのが医者なんだからね」
そういって笑ったつかさ先生は…頼もしくて、優しくて、真っ直ぐで……とても、かっこよかった。
「つかさ先生…かっこいいです、クールです、ホットです!」
「うん、ありがとう……ホット?」
「ねぇ、私もつかさ先生みたいにどうやったらかっこよくなれますか?」
「へっ?えっと…そうだねぇ……まず自分がどうするかっていうより、どうしたいか考えるといいんじゃないかな?」
私が…どうしたいか……?
私は…戻りたくて、戻したくて…ただただお母さんを守りたいんです。
そのために…私ができること、しなきゃいけないことはきっと……
「もっと…たくさん…知りたいです。いろんな事……」
「…そっか……」
知識は人類の最大の武器である。そんな昔の偉い人が言ってたような、なんか少し違ったような言葉が今の私にはぴったりだと思いました。
病気の事も、それ以外の事でも…知らなきゃ何も守れないきがするんです。
「それなら私の本を貸してあげよう」
「えっ?い、いいんですか!」
「うん、私が璃々愛ちゃんより上の年齢の時に読んで大切にしていた本がまだとっといてあるんだ。璃々愛ちゃんなら面白いと思えるかもしれないよ」
「本…!つかさ先生の……!」
「それに分からない事があったら私が教えてあげるよ」
そ、それはいわゆる『分からない事があったら大人に聞け』ってやつですね!初体験です!物語の中だけの物だと思ってました!
なにせお母さんは私の分からない事は分からない人だったからね!聞いても意味なしです!
「ありがとう、つかさ先生!」
「うん、璃々愛ちゃんも頑張ってね」
「はい!」
私も今日からつかさ先生みたいに頑張ろうと思います。
※
『――逃げ惑ううさぎの後を、恐ろしい狼が追い詰めます。「小さなうさぎなど一口で食べてしまうぞ」大きく口を開けた狼から逃げるためうさぎは必死に走ります。それでもうさぎは狼には勝てず、一本松のふもとでついに――』
「……ねぇ、お母さん」
「な…なぁに…璃々愛……」
病室のベッドの上で震えて半泣きになっているお母さん。
そして絵本を読み聞かせる私……
「立場逆じゃない?」
「えっ!?うさぎが狼を食べちゃうの!?」
「いや、そうじゃなくて」
物語の中ではなく現実…リアルの問題です。
まぁ、今更ではあるんだけどツッコまないわけにもいきません。
「普通お母さんが私に読み聞かせるんじゃない?この場合」
「えっ…それじゃあ……」
『……に、逃げまどろむうさぎののちを…ろしい狼が追いしめます。「少なうさぎなどいちろで食べてしまうぞ」大きくろを閉じた狼から逃げため、うさぎは……死に走ります。それでもうさぎは狼には勝ちず、い…いち、本…木…公のふもでついに――』
「ねぇわざと!?わざとなの!わざとと言って!」
「ひぃっ!?り、璃々愛…怖いんだけど……」
だって…いくらなんでもこれはいただけないです。
漢字にふりがなふってあるはずなのに…ひらがなすらまともに読めないとは……
「つかさ先生とは大違い……」
「はぅうっ!?」グサッ
「つかさ先生はかっこよかったのに……」
「うっ…!?」ザシュッ
「……はぁあ…」
「い…痛い…胸の奥が痛いわ璃々愛……」
「気のせいです」
「気のせいにされた!?」
だいたいなんで絵本なんですか。大人ってもっと難しい本読んでるんじゃないの?
それに『子うさぎと狼』ってこのお話、うさぎが食べられて終わりなんだけど……
「うぅ…璃々愛、お母さんは悲しいわ」
「そう、私は辛いです、色々と」
「えっ…な、何か嫌な事があった?だ、大丈夫璃々愛?いくらなんでも話していいよ!ば、ばっちこいだよ!」
「え…別にないよ……?」
「でも辛いって言ったし」
「いや、主にお母さんの事で――…へっ?」
フワッと私の体が座っていた椅子から離れたかと思うと、そのままお母さんのベッドの上に一緒にのせられて後ろからお母さんにぎゅぅうっと抱きつかれました。
お、お人形を運ぶみたいに移動させられた……!お母さんに抱っこされるのも抱きつかれるのも好きだけれども!
もうちょっと扱い方っていうのがあるとおもいます!切実に!!
「はぁー璃々愛があったかい…ぬくぬくー…」
「お、お母さん…?」
「……璃々愛、本当の本当に何もないの?」
「……えっ?」
「だって…お母さんは不安なの。璃々愛が苦しんだりするのは嫌だし…寂しい思いもさせたくないし……だから、本当に何もない?」
「……」
……本当は、1つだけある。
お母さんに内緒の辛い事……
それは、お家に帰っても誰もいないと言うこと。
私を預かってくれていることになっているはずの伯母さんと伯父さんは私のいる家…というかマンションにはほとんど帰って来ない。
ご飯も作ってもらえたりもらえなかったりまちまちで…業者さんが定期的に仕入れてくれる食べ物を自分でどうにかして食べたりしてる。
(お母さんの家事の出来なさで身についた事が役に立つってのはなんかあれだけど……)
でも、やっぱりひとりぼっちは寂しいです。やけに静かな部屋も、1人で食べるご飯も、冷たい布団も……私は全部、嫌いです。
でも……
「……私はお母さんの、びょーきがちょっとでもよくなればそれでいいの。辛いことなんてないんです」
「……本当に?」
「本当だよ。それにお母さんだって私が病気だったらよくなってほしいでしょ?」
「えっ…い、嫌!絶対嫌!璃々愛病気なっちゃやだー!」
ぎゅぅうう~っとお母さんが抱きつく力がさらに強くなった。すっぽりとお母さんに包まれた私は少し苦しいです。
「はっ!そうだわ!璃々愛が絶対に病気にならないようにお母さんがお願いする!」
「……お願い?誰にするの?」
「……神様?」
「神様っているの?」
「きっと綺麗でかみかみしい神様がいるはずよ!」
「神々(こうごう)しいね」
「…………こ、神々しい神様がいるはずなの!」
かみかみしいとか、神々しい神様がいるかは私はまだ信じれないけど……でも、お母さんがお願いするのなら信じれるきがするんです。
お家に帰っても誰もいなくて、寂しい気持ちはあるけれど……私はお母さんと一緒に笑っていられる時間があるのなら辛いことなんて遠いお空に吹っ飛んでいくんです。




