やり直し令嬢の憂鬱
(眩しいわ)
と、彼女は思った。
処刑台の上である。つい昨夜までは牢の中で泣き腫らしていたものの、今となっては逆に静かな気持ちだった。
憎悪があった。汲めども尽きぬ泉のような。
ベアトリーチェ・フォン・アシュレイは群衆の視線を一身に浴びながら断頭台の上に立つ。
わあわあと、人々は口々にベアトリーチェとアシュレイ家をののしった。
「王太子の暗殺未遂犯!」
「犯罪者!」
「妹を死ぬ直前までいじめるなんて!」
言われる言葉に心当たりはない。
(もし私があの子をいじめたというなら、何故異母妹イリスはまだ生きているというの?)
と思っても、わざわざ教えてやる義理はない。
ただ、腹が立つ。憎悪が湧く。
こんなことになるまで慈悲深くあろうとしてしまった、自分自身への憎悪だ。
「ベアトリーチェ・フォン・アシュレイ。汝は国家反逆及び王太子妃候補イリス嬢への迫害の罪により――」
読み上げられる罪状の一つ一つ、向けられる侮蔑の視線のすべて。
これは公爵令嬢に生まれながら後手後手に回り、あの平民女の娘にしてやられたベアトリーチェへの糾弾である。
はるかかなたに視線を向けると、王宮のバルコニーに彼らがいた。
王宮前広場に設えられた処刑台。これは彼の差し金なのだろうか?
婚約者だったローデリヒ・フォン・エーデルヴァイン。
彼の隣に寄り添う盗っ人、異母妹のイリス。
彼らは互いに抱きしめ合い、くすくす耳打ちし合っている。
ベアトリーチェを見下すその視線。
(殺してやる)
と思った。
(たとえ怨霊に堕ちようとも、必ずや貴様らを滅ぼしてやる)
後手に縛られ、もはやなすすべもないベアトリーチェにとってそれは最後の悪あがきだった。
心の中で思うことだけは、誰にも止められやしないのだから。
半年前。
その日はローデリヒとベアトリーチェの婚約披露の夜会があるはずだった。
だがそこで彼はイリスの手を取り、大勢の貴族たちの前で高らかに宣言したのだ。
「僕はこのイリス嬢を愛している! ベアトリーチェとの婚約は破棄する」
と。
それから全てが坂道を転げ落ちるように悪くなった。身に覚えのない罪が次々と着せられ、味方だと思っていた者たちは次々と離れていき、気づけばベアトリーチェは断頭台の上にいた。
刃が落ちる直前、彼女の脳裏に浮かんだのは、幼い頃のイリスの顔だった。母を亡くしたばかりで、屋敷の片隅で誰にも気づかれずに泣いていた、あの小さな異母妹の顔――。
(殺してやる。殺してやる)
そこで、意識は途切れた。
***
「――お嬢様? ベアトリーチェお嬢様、いかがなさいましたか」
声に呼ばれて目を開けると、見慣れた天蓋がそこにあった。
柔らかな朝の光。焦げた血の匂いも、群衆の怒号もない。
ベアトリーチェは寝台の上に起き上がる。
まじまじと自分の手を見た。皺一つない、若々しい手である……牢の中で壁を搔きむしって爪が取れた手ではない。
「……鏡を」
「は、はい、ただいま」
侍女のマルタが慌てて手鏡を持ってくる。映った顔は、覚えている十八歳のものではない。もっと幼さの残る――八歳の自分の顔だった。
「マルタ、今はいつ?」
震える声でベアトリーチェは聞いた。
「えっ? 星還歴六百八十三年の十月八日でございます、お嬢様」
戸惑った様子で侍女は答えた。
(十年前……)
あの忌まわしい日から。処刑された日から。数えてちょうど十年前。
(ということは)
はっと気づいてベアトリーチェは思わず立ち上がった。マルタがたじたじと、とりあえずローブを持ってきてはおらせてくれる。それに気づかないまま、ベアトリーチェは呆然と中空を見つめる。
イリスが母を亡くし、アシュレイ公爵家に引き取られてきた、まさにその年だ。
(時間が巻き戻った……? まだ、ローデリヒと婚約もしていない。いいえ、そんなことより)
ベアトリーチェは自分の胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。混乱よりも先に込み上げてきた憎悪に、吐きそうになる。
実際、胃液がこみ上げてきた。
(もう二度とあんな愚かな真似はしない)
燃えるような確信だった。
二度と同じ轍は踏まない。
ローデリヒの背後にそびえる王家の威光におののくことも、あの盗っ人イリスに優しくしてやることもしない。
今度こそあの二人に裏切られてなるものか。
その日の午後、ベアトリーチェの覚えている通り、父が異母妹を家に連れてきた。
「愛人の踊り子の子なのだがね。困ったことに母親が死んでね。かわいそうだから……」
「まあ……」
出迎えた母は困った顔をしながら、父にうやうやしく頭を下げる。
「そういうことでしたら、わかりました、旦那様」
(これだわ)
柱の影に隠れて見守りながら、ベアトリーチェは直感した。
この、母のやり方。
もう面倒くさいから一応従っておこっかー、まあいいわよね公爵家の財産はこんな子供一人に食いつぶされないほどあるんだし。という適当さ。
母のそういうよく言えば鷹揚、悪く言えばお嬢様育ちで世間知らずな性質は間違いなくベアトリーチェにも遺伝していて、だからこそ十八歳にもなっていいようにされ、処刑されてしまったのだ。
(だめよ、お母さま。面倒だからってそんな……)
と、ベアトリーチェは歯噛みした。
さて。
翌日、母はベアトリーチェを自室に呼んだ。
「昨日、お父様があなたの異母妹を屋敷に連れてきました。優しくしておあげなさい」
「……はい、お母様」
時が戻る前はわかりました、お母様と答えた気がする。
そのときはおそらく母と同じように考えていた――まあいいかあ、私の持っているドレスは日替わりで着ても着きれないくらいあるわけだし。髪飾りもリボンもフリルもいくらでもあるわ。少しくらい。
少しくらい、あの哀れなイリスにわけてあげましょう――。
(その結果、婚約者まで寝取られた!)
じくじくと頭の芯が熱い。ベアトリーチェは母の部屋を辞し、それから自分の部屋にイリスを呼んだ。
「あっ、あっ……おねえさま、お呼びとうかがいましたあ……」
イリスはおずおずとやってきた。オドオドと、まだぷくぷくした手を頬に当て、遠慮がちな表情を作っている。記憶にある十年後の、勝ち誇ったような顔とはまるで違う。
だがそれらは演技であった。もとい、まだこのときには本心からのものであったとしても、のちのち違ってくるのだと――ベアトリーチェはもう知っている。
アシュレイ公爵家の長女であるベアトリーチェは、ぺこりと一礼するイリスを静かに見つめる。
「イリス、聞いてほしいことがあるわ」
「はぁい、お姉様……」
自分を姉と呼ぶその声に、以前の自分ならきっと絆されていただろう。母親を失った幼い妹を不憫に思い、ドレスや髪飾りを分け与え、社交界での立ち居振る舞いを一から教えてやった、あの頃のように。
その優しさの結末が処刑台である。
「お父様から何を言い含められてきたか知りませんが、私の持ち物を貸すことはしません。ドレスも、髪飾りも。そう簡単にはいかないと思って」
イリスはぴたりと固まったかと思うと、うりゅ、と涙目になって震えはじめた。
ベアトリーチェはそれを冷たく睥睨した。
「お姉様あ……? な、なんでえ? あたし、何か失礼なことを――」
「あなたのせいではないわ」
ベアトリーチェは目をそらさずきっぱりと言う。
「お父様は私やお母様から優しくしてもらえと言ったと思うわ。でもそれはあなたのためにならない。平民の血が混じった者はこの国では貴族と認められない。あなたは分不相応な貴族の暮らしに慣れるべきではないわ。あなたはいずれ、平民として野に降る。あなた自身の力で得るものがあった方がいい」
そもそも、外で婚外子を作って来て世話を正妻とその子供に丸投げする父が悪い。
イリスは悪くない。今のところは。
だがベアトリーチェと母が向こう見ずに与えてきた贅沢が異母妹の心を捻じ曲げ、結果としてあの処刑台があったというなら――
それはベアトリーチェたちの罪である。
罪は雪がれるべきであり、一番いいのは最初から罪を犯さないことだ。
ベアトリーチェはもう二度とイリスに情けをかけるつもりはない。
イリスは何か言いたげに唇を開き、閉じ、きりっとベアトリーチェを睨みつけた。
胸の前で手を握り合わせ、悔しさが滲み出る涙目のまま。
「……わかりました」
と被害者ぶって言う。
その顔に浮かんだ憎しみの表情を、ベアトリーチェは注意深く観察する。
(なんでこんな簡単なものに気づかなかったの、私は)
そうして、退室するイリスを見守った。
数日後、屋敷に一通の招待状が届いた。エーデルヴァイン王家、さらにその第一王妃からの、お茶会への招待である。
……ローデリヒの母からのものだ。
「お嬢様、こちらは……」
「お断りして」
マルタが目を丸くする。エーデルヴァイン家との縁は、アシュレイ公爵家にとって願ってもない縁のはずだった。この時期の招待は、暗にローデリヒとの婚約を見据えたものであることは明白だ。
「ですが、旦那様がお喜びになるかと……」
「お父様には私から話すわ。それより、体調が優れないと伝えてちょうだい」
仮病でも何でも構わない。とにかく、ローデリヒとの接点を、この時点からできる限り断っておくべきだった。ベアトリーチェは死にたくないのだ。
どんな死に方もいやだった。病死も事故死も老衰さえも。
処刑台などもってのほかだ。もう二度と。
窓の外に広がるまだ何もない穏やかな空を眺めながら、ベアトリーチェは静かに誓いを新たにする。
「お父様、ベアトリーチェはどこのおうちの社交にも行きたくありません」
と訴えかけると父は激怒したが、
「イリスを連れていけばいいじゃありませんか」
と口を尖らせるベアトリーチェを見て、なんだ娘の悋気かと納得したようだった。
「平民の踊り子なんぞが産んだ子をよその貴族家に連れていけるわけがないだろう。お父様が笑われてしまうよ」
「じゃあ笑われるようなことなさらなければいいのですわ」
「おいおい、ベアトリーチェ……」
「ふん」
とそっぽを向く娘に父は嬉しそうである。
常にそつなくなんでもこなしてしまうベアトリーチェが甘えてきたと思っているのだろう。
――そう、かつての彼女に足りなかったのは、こういう愛嬌なのかもしれなかった。
だが父に媚を売るつもりはない。
ただでさえ、扉の向こうでイリスがギリギリと歯を食いしばっているのが肌で分かる。逆行する前、こうして父に甘え歓心を買うのはイリスの十八番だった。
「お父様。私それより慈善に精を出したいです」
「う、ううむ。悪いことではないが……」
「お母様と一緒にこれから孤児院の慰問に行きますから。では」
お辞儀をしてベアトリーチェはその場を離れた。
さっと大きな壺の裏に隠れたイリスの鋭い目つきが背中に突き刺さる。気づかないふりをして廊下を行くのが一苦労だった。
***
相変わらずの日々が過ぎていった。
のほほんとした母。遊び回る父。
ローデリヒとの対面はまだだった。次の王太子妃が誰になろうが、その座をイリスが狙っていようが、ベアトリーチェには関係ない。
イリスは潜伏とでもいうべきか、大人しくメイドの下働きとなり働いているようだ。とはいえ、油断はならない。今はまだ子供でも、そのうち周りのメイドや侍従を手懐けベアトリーチェへの悪意を吹き込む可能性がある。
イリスは本当に、被害者ぶるのがうまい女の子なのだ。
(もうすぐ)
すべての心労を取り除く。彼女はそう決めていた。
ベアトリーチェは静かに、しかし着実に布石を打った。
まず、イリスへの接触を最小限にした。物を与えず、優しくもせず、かといって表立って虐げもしない。ただ淡々と、公爵家の長女として当然の距離を保つ。
そうするとなんとしたことか、使用人たちからの評価が変わった――悪い方に。
「イリスは控えめだわ」
「愛人の子なんてとんでもない性格だろうと思ってたのに、なかなかいい子よね」
「ベアトリーチェ様は少々お厳しいようですが」
「イリスは紛れもなく妹なのに、ひどいわよねえ」
などなど。
(ふざけるな)
とベアトリーチェは心の中で拳を握る。
挙句の果てには「イリスはあんなにしおらしくしているのにベアトリーチェ様は冷淡」ときたものだ。
八歳の子供が突然現れた同い年の異母妹、父が母を裏切った証に優しくできないことの、何が悪いというのか。
とはいえ、口さがなく貴族の粗探しをするのが平民というもの。ベアトリーチェは腹立たしさを表に出すことはなかった。
とはいえ、評判など後からいくらでも作り直せる。とくに家の中でのことなどどうとでもできる。大事なのはイリスに被害者ぶる口実を与えないことだ。
次に、ローデリヒとの接触を徹底して避けた。エーデルヴァイン王家からの招待は、体調不良、慈善活動、家庭教師との学業優先――あらゆる理由をつけて断り続けた。
父は最初こそ渋い顔をしていたが、ベアトリーチェが社交界で『慈悲深く勤勉で謙虚な令嬢』という評判を積み上げていくにつれ、次第にそれを黙認するようになった。
そして三つ目。これが一番大切なこと。
孤児院および養老院、そして貧困者を助ける貧窮院において、ベアトリーチェは味方を集めた。
三年が経った。
十一歳のベアトリーチェは今や『アシュレイ公爵家の聖女』である。
もちろん、家の名を高めるため父に利用されているのはわかる。母が無関心なのもわかるし、彼女に愛人とそちらとの子供がいて愛情はそっちに向いているのもわかる。イリスの憎悪も知っている。
だがベアトリーチェは今に満足だった。
やっと、死なずに済む未来に手が届くかもしれないから。
慰問から帰ってきたベアトリーチェにお茶を出しに来たのはイリスだった。
おや、と内心片方の眉を上げる気持ちになりつつ、ベアトリーチェは成り行きを見守る。今となってはイリスの手つきは立派なメイドのそれに違いない。
異母妹はお茶のカップを突き出しながら、震える声で言った。
「おねえさま、さぞかしいい気分でしょうね? あたしをのけ者にして、楽しい?」
「お茶がこぼれるわ、イリス」
「おねえさま、いい気になっていられるのも今のうちよ。もうすぐこのお屋敷には王太子様が来るから」
「まあ、あなたに会いに来るの?」
イリスは意表を突かれた顔をしたが、すぐニヤァッと笑った。かつて何度も見た笑顔だった――どう? 悔しい? とでも言いたげな。
異母妹はソーサーにカップを叩きつけるようにして置いた。
「そうよお!? 知ってたの? それとも知らなかったの? れっきとした公爵令嬢のあんたじゃなくて、あたしに! あたし、あたし、あたしに王子様は会いに来るのお!」
それから聞かれてもないのにぺらぺらと、ローデリヒとのなれそめを語った――父が非公式の集まりにイリスをマスコット代わりに連れて行ったことから始まり、子供同士で庭で遊び、徐々に親交を深めたのだという。
(知ってるわ)
とベアトリーチェは思った。他ならぬ彼女自身が、逆行前、同じような手口で父によりローデリヒに引き合わされたのだから。
正嫡子ではないイリスではせいぜい愛妾止まりにしかできないだろうが、ともかく王太子に娘を引き合わせておくことは将来の担保になる、と父は考えているはずだった。
あるいはベアトリーチェを正妃にして、イリスを愛妾にする青写真を思い描いているのかもしれなかった。王家に近づける者が政局を制するのはこの国において常識である。
(そうはさせない)
ベアトリーチェは手を叩く。イリスはピタリと話をやめると、ギリギリ口元を歪め、地団太を踏みながらベアトリーチェへ詰め寄った。
「おねえさま、いつだってあたしのことを虐げてきたわね?」
「そのつもりはなかったけれど、そう思ったのならごめんなさいね」
「フッ……ふんぞり返っていられるのも今のうちよ。あたしをいじめたこと、王太子様はきつうく叱ってくださるって言ってたわ。あんたがこの家からいなくなればあたしが、あたしだけがお父様の可愛い娘になるのよぉ……!」
「あら、お父様には私たちの他にも子供がいるわよ」
イリスはスカートを握りしめ、呆然と目を見開いた。
「あちこちにね。高位貴族の男性のすることなんてみんな同じ。困ったものだわあ」
ベアトリーチェがくすくす笑って両手を広げた瞬間、侍女のマルタを筆頭にどやどやと使用人たちが踏み込んでくる。
「なにごとですか、お嬢様!」
「お嬢様、ご無事で!」
そりゃ、家の中ではやや評判が悪いベアトリーチェだけれども、使用人たちに給料を支払っているのはベアトリーチェの父であり、ベアトリーチェ派とでもいうべき一群を形成していることに違いはない。
ベアトリーチェは自分に少なくとも忠誠心のかけらを抱いている大人たちへ頷き、イリスへ向けて顎をしゃくってみせた。
「手違いがあったようよ。正してちょうだい」
そうしてイリスは部屋から引きずり出され、ベアトリーチェには正しい淹れ方で新しいお茶が提供される。
かぐわしき芳香に口元の笑みを隠しながら、ベアトリーチェは笑う。
――頃合いだ。
***
「――というわけで、王太子殿下がぜひともお茶会にお前を招待したいとのことだ。ベアトリーチェ、今度ばかりは断るでないぞ」
父の声は固く、有無を言わせぬ響きがある。ベアトリーチェは静かに一礼する。
「かしこまりました、お父様」
(ちょうどいいわ)
この三年で蒔いた種が、少しずつ芽吹き始めている。
ベアトリーチェはこの機を逃す気はなかった。
彼女は生き残りたいのだ。
二度と処刑台に立ちたくないのだ。己の首が飛ぶあの感触を味わいたくないのだ。
その渇望は、時を経てより濃厚に尖っていた。もはや妄執と言ってよかった。
お茶会の会場はアシュレイ公爵邸の薔薇園である。ひそかに親交を深めたイリスに会いに来るローデリヒ、それに居合わせ、紹介される異母姉ベアトリーチェ――構図としてもおかしくはない。
白いテーブルクロス、薔薇の生垣、ティーセットの銀器が陽光を弾いている。
ローデリヒとイリスは幼さに見合わぬしゃちほこばった仕草で、腕を組んでやってきた。
「ようこそいらっしゃいました、ローデリヒ殿下」
庭園で待っていたベアトリーチェが立ち上がり、満面の笑みで出迎える。十一歳とは思えぬ、堂に入った所作だった。渦巻く金髪は輝くばかり、礼儀に則った、しかし美しい微笑みは大人のよう。キラキラした碧の目にイリスがギリギリ歯嚙みしそうである。
イリスの目は何の面白みもない茶色、髪の毛もコテで必死に巻いたただのストレートの茶髪である。
「うん」
とローデリヒは頷き、しばしベアトリーチェに見惚れた。イリスが必死に腕をひっかいて注目を戻そうとしても、なかなかうまくいかないようだった。
王太子は十三歳。前の生で見た精悍な顔立ちの片鱗が、少年の面影の中にすでに見え隠れしていた。彼はベアトリーチェを見つめたまま、席に着いた。
「あー、その。ベアトリーチェ嬢。これまでなかなかお会いできず、残念でした」
「殿下におかれましては、ご健勝そうで何よりです」
当たり障りのない返事をしながら、ベアトリーチェは内心冷ややかに彼を観察していた。
(この目。この笑顔。前の生でも、最初はこうだった)
油断ならない。優しげな仮面の下に、簡単にほだされ、簡単に裏切る危うさが潜んでいることを、ベアトリーチェはもう知っている。
着席し、当たり障りのない会話が続く。イリスは終始ローデリヒの隣に陣取り、あれこれと話しかけてはカン高い笑い声を上げていた。声を上げれば上げるほど場を支配できるのだというように。お茶やお菓子をサーブする使用人が耳を抑えそうになるほどの声だった。
時折、ローデリヒが優しくイリスを窘める。
「きゃあんっ、イリス恥ずかしっ」
と異母妹は肩をすくめ目を潤ませる。
ベアトリーチェはそれらを、まるで他人事のように眺めていた。
(好きにすればいいわ。ローデリヒなんていらない)
王太子妃の椅子になど、興味はない。彼女はただ生き延びたいだけ。それだけだ。
やがてイリスの狂騒が徐々に続かなくなり、場に沈黙が降りた。
するとイリスは焦った様子で王太子にお茶を勧め、茶菓子を自ら取ろうとする。
しかしメイドとして教育された異母妹がそうすると、まるきり使用人が客人におせっかいを焼いているようにしか見えないことに、彼らは気づいていないのだろうか?
――あるいは、愛人が主人の機嫌を取ろうと必死になっている媚態に見えるということに。
(でもまだ子供だもの)
これはベアトリーチェの考えすぎだろう。そういうことにしておこう。
首にないはずの切り口がズキリと痛んだ。痛い――痛い。断頭台。跪かされ、殺された……。
「殿下ァ、先ほどから何を黙り込んでいらっしゃるの」
ベアトリーチェが紅茶に口をつけたとき、くねくねと擦り寄るイリスを押しのけてローデリヒがようやく口を開いた。やっと決心がついた、というように。
「――ベアトリーチェ嬢。少々、伺いたいことがあります」
「なんなりと、殿下」
「イリス嬢のことです」
名を出されたイリスは拳を口元に当て、俯いてわざとらしく肩を震わせる。ローデリヒはそんな彼女をちらりと見やり、庇うように身を寄せた。
「風の噂で聞きました。あなたがイリス嬢に、とても厳しく接しておられるのだと」
「風の噂、ですか」
「使用人たちの間でも評判になっているそうですよ。母を亡くしたばかりの、まだ幼い妹君に対して……まるきり使用人の扱いだそうじゃありませんか。いささか冷たすぎるのではありませんか」
ベアトリーチェはゆっくりとカップをソーサーに置いた。
「殿下。恐れながら何をおっしゃりたいのですか?」
「正直に申し上げれば、感心しません、と申し上げる。血の繋がった妹君でしょう。多少身分の違いがあるとはいえ、庇護するのが姉としての務めではないのですか」
「……イリスは父が戯れに手を付けた踊り子の子に過ぎません」
ベアトリーチェは声に不愉快さを滲ませた。
「正嫡子の私が同列に扱えば、使用人たちの中で浮いた存在になってしまいます」
「そんな……っ」
悲嘆そのものの声をイリスは絞り出すと、王太子に向かって哀れっぽく泣きつき始めた。
「お聞きになりましたか、殿下? これが姉の本性なのです。表では慰問や慈善に熱心で、評判がいいのですが……家の中ではこうしてあたしや、自分が気に食わない使用人のみんなをいじめるのですぅ」
ローデリヒは愛しくてたまらない様子でイリスを抱き寄せる。
「僕は、弱い立場の者を見捨てない人間でありたいと思っています。だからこそ、あなたにも同じ心を持っていてほしい。イリス嬢は母君を亡くし、この屋敷では肩身の狭い思いをしているというのに――」
「殿下」
ベアトリーチェは静かにカップを置いた。
ひょう、と風が吹いた。
「殿下は私とイリスの間に何があったか、ご自分の目でご覧になったことがおありですか」
「そ、それは……使用人たちの証言も、十分に信憑性が――」
「使用人の噂話が、殿下にとってはそれほど確かな証拠なのですね」
ローデリヒが言葉に詰まる。イリスがここぞとばかりに、涙ぐんだ声を挟んできた。
「ローデリヒ様……っ。あ、あたし怖い。怖いんです。どうかあたしのことでお姉様を困らせないでください。あたしは、平気ですから……」
「イリス嬢……」
(ああ、うまいこと)
健気に振る舞う妹と、それを痛ましげに見つめる王太子。この構図に、ベアトリーチェはうんざりした。もう十分以上見た。前の生でも、今この目の前でも。
ベアトリーチェは微笑みながら話し出した。
「殿下。立場の弱い者を思いやるお心、大変ご立派に思います。ですが、姉妹の間のことは姉妹の間で解決するべきことかと。他家の内情に、殿下が深く踏み込まれるのは――少々、出過ぎたことではございませんかしら」
「僕はただ、正しくないことを見過ごせないだけです」
「正しさとは、片方の言い分だけで測れるものなのでしょうか」
「ベアトリーチェ嬢、あなたは……」
ローデリヒは何か言いかけ、そこでイリスが悲痛な声を上げて泣き出した。彼は異母妹を抱き寄せると、非難の眼差しを寄越してくる。
(ほら、また。何も知らないくせに、知った気になって裁こうとする)
ベアトリーチェは表向き困ったように眉尻を下げながら、心の中で嘲笑った。
(偽善者め……)
ローデリヒは己の欲望を己のものと確信することができない男である。幼かろうが性根は変わらない。そうとも、本性は変わらないのだ。
彼は自分がやりたいことをするときに理由を欲する――ベアトリーチェが邪魔になったらイリスを理由にして排除する。もし父アシュレイ公爵が邪魔になったら、何かしら理由をつけて反逆者に仕立て上げるのだろう。
過酷な帝王教育が彼をそのように卑屈にした、と言うこともできるだろう。だが巻き込まれる側にとってはたまったものではない。
(さて)
ベアトリーチェは悲しげに装って俯いた。
それが合図だった。
薔薇園の外で怒号が上がった。周囲を固めていた護衛騎士たちが剣を抜いた音。アシュレイ公爵家の使用人たちの悲鳴。イリスが嘘泣きをやめて飛び上がる。
「何者だ、止まれ――ぐあっ!」
「きゃあああっ!」
悲鳴とともに、庭木の陰から黒ずくめの一団が飛び出してきた。数にして五、六人。粗末な布で顔を覆い、手には錆びた短剣や棍棒を握っていた。
「王太子だ!狙いは王太子だぞ!」
誰かが叫ぶ。テーブルの上に猫のような身のこなしで飛び乗った男の服の裾がベアトリーチェの頬をかすめた。彼は覆面ごしに彼女に目を止め、きゅ、と口角を引っ張り上げて笑った。テーブルも椅子もすべてが引っくり返り、レースのテーブルクロスが翻り、血の匂いがぷしゃっと漂う。ティーセットが砕け散る音、散乱する銀食器の音が響いた。
「ひっ……ひぃぃっ! ローデリヒ様あああああああ」
イリスは真っ先に悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちるようにして地面にへたり込んだ。腰が抜けたのか、逃げることすらできない。
ローデリヒは咄嗟に腰に手をかけたものの、そこに剣はない。
「えっ? えっ?」
と辺りを見回し、状況を把握できていない。
当たり前である。今、王国は安定した状況にある。
仮にここで王太子を打ち取っても次男、三男がいる――ローデリヒが狙われるいわれがない。
だがベアトリーチェにはある。殺された復讐である。
汲めども尽きぬ、恨みの泉。
(さあ、見せてもらいましょうか)
ベアトリーチェは静かに立ち上がり、するすると後退した。まるで示し合せたかのように、襲撃者たちは彼女の足取りを妨害しなかった。
手に手に剣を抜いて駆け寄ってくる護衛騎士たち。
襲撃者たちのうち三人が彼らを迎え撃った。驚いたことに、少人数でほぼ互角に渡り合っている。
「ふ……」
薔薇の生垣に紛れながら、ベアトリーチェは扇を広げて笑った。
渡り合えるのも当然なのだ。何しろ彼らは、エーデルヴァイン王家に恨みを持つ亡国の騎士たちなのだから。
そうとも、王国は安定している。今は、まだ。
エーデルヴァインの始祖、ローデリヒの祖父は大陸を平定し、早くに亡くなった。偉大なる王の威光によってなんとか今は平安の時代である。だが、火種はどこにでもくすぶっている。
たとえば貧窮院にまで落ちぶれたかつての騎士。
たとえば孤児院に収容されたかつての貴族、王族の子孫。
そしてもちろん、ただ腕っぷしが立つ、あるいは目端の利くだけの若者たち。
この平穏な世に飽きて、持って生まれた力を生かすことを階級に阻まれ、行き場のなかった彼らに衣食住と役目を与え、恩を売り、密かに手足として育ててきた。
もちろん表向きは、公爵令嬢の慈善事業の一環に過ぎない。
だが三年もあれば、本当にこの世をひっくり返したいと思っている者たちを見つけることはたやすいし、ベアトリーチェにはかつて王太子の婚約者として宮廷を渡り歩いた経験値がある。
子供とは思えない言動、『はるか未来のことを知っているような』視野、そしてアシュレイ公爵家の血統。
彼らがベアトリーチェに忠誠を誓い、あるいは彼女を利用してのし上がろうと決意するのに、三年は長すぎた。
(思ったより時間はかかってしまったけれど)
さすがに、八歳のままでは彼らを思うように扱えなかった。十一歳でもまだまだ幼い。
けれどきっと十六歳では女としての成長が現れて余計侮られていただろうし、十八歳では遅すぎた。
「わあああああっ、わああああああああ!」
ついに最後の護衛騎士が倒れ、身を挺して守ろうとしてくれた侍従の腕を擦り抜け、王太子は走り回って逃げる。
「ひえええええええっ、きええええええええええええ」
泣きじゃくり、漏らし、茶髪を振り乱しながらイリスはキイキイ叫び続ける。
その喉笛を切っ先が貫いた。
「ぐ、ぐへええええええ」
イリスはカエルのような断末魔を上げると、ガニ股で倒れ込み、ビグビグ痙攣した。排泄物がその股の間を汚し、口からは血反吐の混じった泡がブクブク溢れる。
「ふ」
と思わずベアトリーチェは、安全なところで笑ってしまった。かたわらにはいつの間にか侍女のマルタがいて、己と主がしでかしたことに両手を白くなるまで握り合わせている。
「ああ、神様、お許しください……」
「大丈夫よ、マルタ。あなたが騎士たちの飲み物に下剤を入れて動きを鈍らせたことなんて、コック長しか知らないわ」
「ヒッ」
ベアトリーチェはマルタの肩に手を置き、この忠実な侍女が生まれて初めて自分を怖がった事実に微笑んだ。
「コック長はね、かつて権力者に婚約者を寝取られたの。いいえ、権力によって引き離され、彼女は殺されたのよ。その見返りとしてアシュレイ公爵家に仕える栄誉を与えられた。――ふ、お笑い種よねえ。自分と恋人の人生を台無しにした者たちに仕えることが栄誉だなんて」
ククッ、と喉で笑い、ベアトリーチェは扇をひらひら振るう。
目の前で王太子が、憎きローデリヒが、ざくざくと串刺しにされていく。その素晴らしい交響曲を楽しみながら。
「この国には王族貴族に恨みを持つ者たちが山ほどいるわ。マルタ、あなたも知っていることでしょう」
ベアトリーチェとてアホではない。たくさん、考えたのだ。あの奇跡とも呼べる逆行が起こってから、ずっとずっと考え続けてきた。
ベアトリーチェが死んだ方が都合がよい、と考えたのは誰かについて。
そのシナリオを描いたのは誰? 王太子ローデリヒ? 異母妹イリス? それとも――王か王妃かその側近だったのかもしれない。
アシュレイ公爵家の力を削ぎたい何らかの理由があって、イリスとローデリヒの恋愛関係を利用した? 誰だろう、理由ばかりはたくさん考え着く。
十八歳の自分が知っていたことと、幼い公爵令嬢としてひそかに社会の底辺にいる者たちに聞いた話を繋ぎ合わせ、憶測を交え、たくさん、たくさん考えて。
そして結論に達した。
「まあいいのよ。殺してしまえば誰も私を害することはできない。そうでしょ? ね?」
そう。
それがベアトリーチェの結論。
いつ処刑台に送られるか戦々恐々として過ごすなんていや。ローデリヒと婚約しないために修道院に行くなんて負け犬になるのもいや。
何よりあの忌々しいイリスが生きていることが許しがたい。
私は死んだのに。殺されたのに。処刑台で。断頭台で。牢に入れられるまでだったのに。
「私は私を害そうとする者たちが生きているのが許せない。そういう性分なの。もう、そういうふうになってしまったの」
――他ならぬローデリヒとイリスのせいで。
ベアトリーチェはうっすらと微笑んだ。マルタはその横顔を見つめ、ぎこちなく目を逸らす。
ベアトリーチェがかつてのベアトリーチェではなくなっていることに、侍女だけが気づいたのだった。
***
当たり前のことであるが、アシュレイ公爵、ベアトリーチェの父は警備の手抜かりを指摘され処刑された。
処刑台に引きずり出された父がかつての自分以上に泣きわめいているのを見、喪服とベールに包まれて慎ましく表情を隠しながらベアトリーチェは内心ゲラゲラ笑ったものだった。
王都の表通りを、暴漢によって非業の死を遂げた王太子ローデリヒの盛大な葬列が歩んでいる。
一方反逆者であるアシュレイ公爵の葬儀は慎ましいなどというものではなく、ほとんど納棺だけで終わった。神官が祈りを捧げ終えてせかせか行ってしまうと、墓の前で母がしずしず進み出てきて言った。
「ベアトリーチェ、あの……」
「なあに、お母様?」
「わたくし、わたくし……これまでたくさん、ごめんなさい。これからはいい母親になると誓うわ。あなたのこと、もっとたくさん愛するわ……」
ベアトリーチェはにっこり笑う。
「ああ、結構よ。何も気になさらないで。今まで通り、愛人とその間のお子様を慈しんでお幸せにね。女の子なんでしょう? お子様」
母は黙りこくった。
「おめでとう。これでもう不貞を指差す者もいなくなるわよ。末永くお幸せにね、お母様」
――二度と目の前に姿を現すな、という言外の意味を敏感に察知して、母はスカートを持ち上げ逃げていく。危機察知能力の高い、立派な貴婦人である。
さて、屋敷に戻ると侍女のマルタが蒼白な顔色で立ち尽くしていた。珍しいことである。
「どうしたの?」
「その、――お嬢様、例の者どもが」
ベアトリーチェは首を傾げた。
喪服姿のまま母を見送ってから一時間も経っていない。屋敷の裏手、誰も寄り付かない使われていない離れの奥。
案内された先で、ベアトリーチェを待っていたのは、あの日薔薇園を血で染めた男たちだった。
「よう、お嬢さん」
覆面はもう外していた。頬に傷のある、目つきの鋭い男が先頭に立って笑う。
がっしりした体躯はがたいがいいだけでなく筋肉にみっしりと覆われ、猫のように俊敏であることは実証済み。
後ろに付き従う男たちも皆、戦うために鍛え上げられた身体をしていた。
ベアトリーチェは一瞬、マルタのように棒立ちになったあと笑い出した。
「あら、あらあらあら! お前たち処刑されたんじゃなかったの?」
「と、思うじゃん? これが生きてるんだよねえー!」
「王都の広場で、見せしめとして首を落とされたはずって聞いたわ」
「死んでるように見えるか?」
男は両手を広げ、べえっと舌を出して見せた。血より赤い舌だった。
「生きてるんだか死んでるんだかわかんねえような雑魚はこの世にわんさかいるもんさ。名前と面を貸してもらった。金さえ払えばなんとでもなるんだな、これが」
「まあまあ」
ベアトリーチェは扇を引き出して彼を仰いでやった。ぶっきらぼうな口調や堂々とした立ち姿のわりに、まるで今しがた脱獄してきたように疲労困憊して見えたので。
つまりこういうことだ。
処刑台に引き出されたのは、名もなき別の罪人たちだった。群衆の前で首を落とされたのが誰であったかなど、覆面を剥いだ後の顔をいちいち確かめる者もいないし、確認しようもない。ベアトリーチェは声を上げて笑いたい気分だった。
(そうよね。首なんて、落ちてしまえば誰のものかなんてわからないもの)
自分自身が、かつてそうやって断頭台の露と消えたように。
「で、困ったことにその賄賂にあんたから貰った報酬を全部使っちまった」
男は愛嬌のある顔で口をへの字に曲げた。叱られる前の犬のように愛らしかった。
「それはそれは、困ったことねえ」
「だろう? だからな、お嬢さん。慈悲深くも尊きアシュレイ公爵令嬢ベアトリーチェ様!」
男は懐から酒瓶を取り出すと、栓を開け、ぐいと呷った。傷が痛むのだろう。
ほかの男たちも、口々に笑いながら輪になって集まってくる。薄暗い離れの中、松明の灯りに照らされたその顔はどれも、飢えた獣のように昏く輝いていた。
「王太子はくたばった。あんたの親父もな。もうこの国は、上から下まで大混乱よ。王家の後継はガキばかり、貴族どもは押し合いへし合い、互いの足を引っ張り合うのに夢中だ」
「そうねえ。うふふ」
「あんただって呑気に慈善慈善ってわけにゃいかねえぞ。足元掬われちまうぞ」
「たった十一歳でお父様を亡くした可哀そうな孤児に、なんて言いぐさなのかしら?」
ふふ、とベアトリーチェは笑って扇を閉じた。
はは、と男は笑って彼女の頭を撫でた。
「今だ、って言ってんのさ」
男は酒瓶をベアトリーチェの足元に叩きつける。ガシャンと割れる音、離れの壁に飛び散る赤い酒。マルタがひいっと悲鳴を上げた。立ち込める臭いにも男のぎらぎらしたまなざしにも、ベアトリーチェは微動だにしない。
「俺たちが理由があってこの国に恨みを抱いていること、知らないとは言わせないぜ。滅ぼされた家、奪われた誇り、殺された家族。そういう連中を、この三年、あんたはせっせと集めてきたんだろう?」
「ええ。そうよ」
「まさかこれで終わりってわけがない。そうだろう?」
男はにやりと笑った。その素っ頓狂なまでに自信に溢れた、やぶれかぶれの無頼漢の笑顔――
きゅううっとベアトリーチェの喉が鳴った。にやあ、と彼女は笑った。
男は拳を天へ突き上げた。ほかの者たちも次々に倣い、離れの薄闇に低い怨嗟の声が満ちる。
「殺されたすべての者たちのために! 俺たちには同志と金とねぐらが必要だ。なあ、違うかあ!?」
「おおおおおおおおおお!」
むせ返るような酒精と血の匂いと熱気。
(面白いこと)
ベアトリーチェは笑う。
周りの熱気と対照的に、逆に静かな気持ちだった。
憎悪があった。汲めども尽きぬ泉のような。
(そうよね)
ローデリヒとイリスは死んだ。だが、ベアトリーチェはアシュレイ公爵令嬢である。父が死に、今や莫大な領地と資金の継承権を持つただ一人の少女である。
誰もが彼女を放っておくはずはない。誰もが血眼になって少女を手に入れようとするだろう。
まだたったの十一歳の、ねぎをしょったカモなんだもの。
「いいわ」
ベアトリーチェは高らかに笑った。
「いいわ、いいわ、いいわ……!」
扇をへし折り、背伸びした男たちの肩を叩いて回った。足取りは軽やかで、くるくると渦巻く金髪は期待に逆立って雄ライオンのたてがみのようだった。
「私を担ぎ上げなさい。アシュレイ公爵家の名を使いなさい。そして、この国のすべてを――王家も、貴族も、私を殺そうとしたすべての者たちを、根こそぎ引きずり下ろすの」
そうとも。
誰かが彼女を害そうとするならば、そうする前に叩き潰す。そんな気を起こす前に根こそぎ奪う。先に。何もかも。
「私は誰にも害されない! 誰にも!」
ベアトリーチェは高らかに吠える。へたり込むマルタや男たちの品定めの視線など意にも介さないで。
その男に右手を差し出す。
「あなたに賭けるわ、私の騎士」
騎士は壊れ物を扱うようにその白い手を取り口づける。
「きっと期待に応えよう――我が主、ベアトリーチェ」




