地縛アパート
「絶対に、どんな方法を使っても、ここから出てやる」
男性は、目の前にある扉を睨んで呟いた。
最寄り駅から歩いて十五分。
静かな住宅地に佇むアパートに大板は引っ越してきた。
不動産から渡された鍵で部屋の扉を開ける。
玄関にくたびれたスーツ姿の男性がいるではないか。
内見もしたし、長いこと空室だと聞いていたのに。
「すみません。部屋を間違えました」
立ち去ろうとする大板に男性が口を開いた。
「待て、兄ちゃん。部屋合っているぞ」
大板は足を止めた。
「え? じゃあ、あなたは……?」
なんで部屋にいたんだと五十代ーー親くらいの年齢の人に言いづらい。
不法侵入か。
鍵がかかっている部屋にどうやって入ったのだろう。
場合によっては、警察に通報しなれば。
男性は大板が疑問に思っていることを察した。
「俺はこの部屋の霊なんだ。気軽に太根と呼んでくれ。いやあ、ずっと一人で退屈だったんだ。兄ちゃんが来てくれて嬉しいよ。これから仲良くしてくれよ?」
大板は開いた口がふさがらない。
数ヶ月前、不景気の影響で働いていた会社が倒産したのだ。
次の就職先も、なかなか決まらない。
せっせと貯めていた貯蓄が減っていく。
焦りと不安で、削られてていく精神。
三万以下の安いアパートを見つけられて、ラッキーだと大板は思っていた。
まさか、いわくつきの物件に引っ越すことになろうとは。
念のため不動産を呼んだが、大板は一人暮らしだと思われた。
隣に太根がいたのに。
太根は、大板にしか見えない霊だった。
次のアパート更新は二年後だ。
それまで太根という見ず知らずの人間ーーもとい幽霊と同じ屋根の下で暮らさなといけない。
次の仕事も探しながら。
もう覚悟を決めるしかなかった。
「……よろしくお願いします」
「生きていると、いろいろあるけどよ、元気出していこうぜ?」
気迫がない大板を、太根は励まそうとした。
「……はい」
効果は、まったくなかった。
大板は会社の面接に行って、手応えを感じないまま結果を待つ。
不採用通知が、ついに三桁を超えた。
更新したくない記録である。
どうせ面接に行っても、またダメだろうなという諦めが大板の中で強くなっていく。
はじめは見ているだけだった太根も、落ち着かなくなっていた。
数日後に面接をすることになった。
大板は呟いた。
「また、ダメかもしれないな……」
「そんな辛気くさい顔していれば、どこも雇ってくれないだろうなあ。俺だったら、仕事教えたくないもん」
「なんですか? いきなり」
「いまの兄ちゃんのままじゃあ、全敗するって言ったんだ」
「否定はしません。けど、どうしたら……」
声音が沈んでいく大板を見て、太根は笑った。
「よし、人生の先輩である俺が教えてやる。これでも生きている時は、大企業に勤めていたんだ。大船に乗る気持ちでいてくれ。どうする? あとは、兄ちゃんのやる気次第だけど?」
力強く言った太根の言葉に、大板は頷くしかなかった。
数日後。
面接が終わり、大板は晴れやかな表情でアパートの扉を開けた。
「聞いてください、太根さん。今日面接した会社から、いつから来られるかって聞かれたんです! こんなこと、はじめてですよ」
「そうか。よかったじゃないか」
「太根さんのアドバイスのおかげですよ! ありがとうございます」
「手応えがあったとは言え、まだ正式な採用通知が来ていないんだ。気を抜くなよ?」
「はい!」
後日、大板の元に採用通知が届いた。
現実だよなと、大板は何度も見る。
これで無事に就職先が決まり、安心だ。
大板の様子を太根は見守っていた。
新しいことを覚えるのは大変だったが、大板は少しずつ仕事に慣れてきた。
仕事の帰り道、大板はアパートの近くまで来て、七十代の女性に声をかけられた。
「あんた、そこのアパートに住んでいる人だね。私も近くに住んでいるけれど、出ていくのを毎朝見かけるもの」
なんだろうと大板は警戒したが、嘘をつくわけにもいかない。
「そうですが、なにかご用ですか?」
「悪いことは言わない。手遅れになる前に、早くアパートから引っ越したほうがいい」
突然言われて大板は困った。
アパートの更新は、まだ一年以上先だ。
新しいアパートを探すにしても、引越すにしても、お金がかかる。
すぐに動けない。
「検討してみます」
女性にそれだけ返すと、大板はアパートに帰った。
もしかしたら女性は、話し相手がほしかったのかもしれないと、大板は深く考えなかった。
三ヶ月後、神妙な顔で太根が口を開いた。
「それで、どうすんだ?」
太根に問われたことが、大板はわからなかった。
「なにがです?」
「だって兄ちゃん、引っ越してきた日、ここに仕方なく住むしかないようだったからな」
「あ……」
そういえば、そうだったなと大板は思い出した。
太根は人のことをよく見ている。
「別のところに引っ越すか? 兄ちゃんが決めてくれ」
答えは、どちらでもいいような気がした。
大板は首を横に振った。
「まだ、ここに住みます」
「そうか。それが兄ちゃんの答えなんだな」
太根は口端を片方だけ上げた。
「お望み通りにしてやるよ」
太根が大板の肩に手を触れる。
大板は視界がぐらつき、立っていられなくなった。
頭が割れそうだ。
吐き気もする。
呼吸が苦しい。
「短い間だったけど、楽しかったぜ」
意識が暗闇に包まれる中、太根の声が聞こえた。
大板が目を覚ました時、アパートの床で横になっていた。
いつの間に寝ていたのだろう。
体調は、よくなっている。
大板はゆっくりと立ち上がった。
アパートの部屋を見回すと、荷物が片づけられて、なにもない。
異変に大板は気づく。
太根が、どこにもいない。
玄関へ行こうとした時、誰かが入ってきた。
「あれ? 気がついたのか?」
耳に入ったのは、自分の声だ。
なぜだ。
話してないのに、どうして自分の声が聞こえるのだろう。
部屋に入ってきたのは、自分だった。
「俺? なんで……」
「まだ気づかないのか? 兄ちゃん」
目の前の自分が、そう言ったことに大板は、ようやくわかった。
まさか、信じられない。
受け止めきれない現実だった。
大板の姿をした太根は、満足そうに笑っている。
「いやあ、兄ちゃんが来てくれて本当に助かったぜ。こうして体を手に入れられたし。やっぱ若いっていいよな」
「俺の体を返せ!」
「親切にしてやったんだから、このくらい礼に貰ってもいいだろ? まあ、取り返せるものなら取り返してみろよ。できないだろうけどな」
大板の姿をした太根は、玄関の外に出た。
「待て!」
声を上げて、大板も玄関から出ようとする。
「え?」
玄関から先は、見えない窓があるようで進めない。
部屋から一歩も出られない。
それを見ていた太根は、笑い声を上げた。
「バカな奴だなあ」
耳をふさぎたくなるほど、不快で卑しい響きだ。
「心配するな。この体は大事にするぜ。じゃあな、兄ちゃん。好きなだけ住んでいろよ」
絶望を胸に抱いたまま、大板は部屋の外へ手を伸ばす。
だが、扉は冷たい音を立てて閉められた。
部屋の中から聞こえる嗚咽に、気づく人間はいない。




