猿猴取月(えんこうしゅげつ)
四字熟語シリーズ第一弾
猿猴取月
その男は「成功者」と呼ばれていた。
肩書き、収入、フォロワー数。
数字はすべて、他人に誇れる値だった。
それでも男は、夜になると落ち着かなかった。
まだ足りない。
どこかに、もっと完成された自分がいるはずだ。
深夜、男は川沿いを歩いた。
水は黒く、街灯の光を歪めて映していた。
そこに、月があった。
空よりも近く、手に取れる位置に。
「・・・月だ。俺の月だ!」
男はスーツのまま川に降りた。
冷水が靴を満たし、ズボンに絡みつく。
だが構わなかった。
月は、あと一歩の場所にあった。
手を伸ばすたび、月は震え、砕け、
それでも再び形を整え、男を誘った。
男は何度も掬った。
水だけが手に残り、月は手に入らない。
それでも男は笑った。
「失敗ではない。挑戦だ。」
やがて、水位が胸まで上がった。
呼吸が苦しくなり、月は視界の端で揺れた。
男は最後に、こう思った。
――届かないのは、努力が足りないからだ。
翌朝、川から男は見つからなかった。
代わりに、男のスマートフォンが岸に残っていた。
画面には、川面に映る月の写真。
完璧な円だった。
ニュースは一行で終わった。
「人気インフルエンサー、溺死」
夜、川は何事もなかったかのように静まり、
月は再び水面に映った。
次に手を伸ばすものを、待ち続けるために。
「猿猴取月」
意味:欲を出しすぎて身を滅ぼすこと。実体のないものを追い求めて失敗すること。
由来:猿が水面に映った月を取ろうとして、木から落ちて溺死したという仏教の故事。




