プロローグ:暗殺姫
国とはきれいごとだけでは成り立たない。王のおわす煌びやかな宮廷には、常に血と陰謀、ドロドロとした沼の底のような人間関係が渦巻いているものだ。
故に、彼らがいる。
「おかえりなさい、お嬢様」
「ああ、ただいま」
家の裏口から帰宅したアーユイは、覆面を外し、服の襟を緩めながら風呂場へ向かった。
「派手にやりましたね」
「『見せしめになるようになるべく凄惨に』という指令だったから」
「それはそれは。【暗殺姫】に暗殺するなと仰いますか」
侍女のリーレイは、液体がべっとりと付いているそれを、皮の手袋を付けた手で顔色一つ変えずに受け取った。
「別に、暗殺が生業ってわけじゃないんだけどね……」
アーユイはため息をつきながら、同じように血みどろの服を脱ぎ、リーレイに任せて風呂場に向かった。
ほどよく温められた湯を頭から被ると、黒い髪の先から湯で薄められた赤黒いものがぽたぽたと床に落ちた。
下水へと流れていくそれを、何の感想も持たずに眺める。
強いて言うなら、
「頭巾でも被るかな」
慣れたとは言え、他人の血が髪にこびり付くのはあまり気分のいいものではない。何より衛生面の心配もある。仕事着の改善を提案してみよう。
そんなことを考えつつ風呂から上がり、食卓へ向かう。
アーユイの席にはいつもどおり、一人分の食事が用意されていた。そして上座にアーユイの父、レンの姿があった。
「今日もご苦労だったな、アーユイ」
「いえ。いただきます」
会話とも言えない端的なやりとりをして、アーユイは食事に手を付ける。
人間を切り裂いて血しぶきと肉片を浴びた直後に、表情一つ変えず肉料理を頬張る娘の姿を、父はじっと眺めていた。
「何か」
さすがにじろじろと見られると居心地が悪い。切れ長の目をすいっと向けたアーユイに、レンは一瞬たじろいだ。
それから、咳払いをして姿勢を正す。
「……新しい仕事が来たんだが」
「はい」
わざわざ父自ら伝えに来るとはどんな大仕事だろうかと、アーユイは身構えた。
「……」
しかし、何やら言いにくそうに目を泳がせる。
「何か問題のある仕事ですか」
こんなに歯切れの悪い父を見るのは久しぶりだ。
前に見たのは、仕事中の事故で母が亡くなったのを伝える時だったか。
発言を待っていると、レンは意を決した顔でようやく口を開いた。
「……【聖女の儀】を受けろとのことだ」
「……はあ?」
思わず素っ頓狂な声を上げると同時に、肉の塊がフォークから落ちてべちゃりとソースが跳ねた。
聖女とは、国家宗教であるピュクシス教の主神から、寵愛を賜った者のことだ。
男性が加護を受けた事例もあるらしいが、歴史上の記録では未婚の若い女性が選ばれた前例が多い。
そのため国内に籍を置く成人前の女性は、必ず一度は教会を訪れピュクシス神へお伺いを立てる【聖女の儀】を行うことが義務づけられている。
「いや、でも私は……。しなくてもわかるでしょう」
アインビルド家が所属するエンネア王国は、十八歳で成人だ。現在十七歳のアーユイは確かに、次の誕生日までに聖女の儀を受けなければならない。
だが、今日もせっせと命を屠ってきたばかりだ。土地を浄め人々を癒す聖女様とは正反対の位置にいると言っても過言ではない。
「死神や悪魔なら分かりますが、神に好かれるということはまずないかと」
正直なところ、親子共々、信仰心は風呂いっぱいの湯に落とした汗の一滴よりも薄い。教会に最後に行ったのは、もはや思い出せないほど昔のことだ。
「私もそう思うが……。形式だけでもしておかねば、例外というのは目立つから」
『さる身分の方々』からの命令により諜報、暗殺、粛正などを請け負うアインビルド家は、表向きにはただの下級貴族だ。
辛うじて貴族街の端の端にこぢんまりとした家を構えてはいるが、その暮らしは裕福な平民と大差ない。
加えてその特殊な身分から、顔を知られていないほうが都合が良いため、父のレンもアーユイ自身も病弱ということにして、社交の場にはほとんど顔を出さない。
「なるほど……。目立つのは確かに、避けねばなりませんね」
本来ならば、身分が上の者の召集には必ず顔を出さねばならないのに、免除されることが多いため、ごくごく一部の勘の良い者から『特別扱い』されているのではと勘ぐられたこともある。
「そういうことだ。サッと済ませてこい」
「わかりました」
確かに厄介な任務だと、アーユイは神妙な面持ちで頷いた。
「それで、儀式はいつですか?」
「今週末だ。他に予定は入れないでおくから、終わったら久しぶりに羽を伸ばしてくるといい」
「ありがとうございます」
儀式の内容は知らないが、国内の女性全てに総当たりで行う儀式だ。おそらくアーユイ以外にも複数人参加するだろうし、案外流れ作業だったり、一人数分で終わる可能性だってある。
少々気は重いが、普段の仕事のように失敗したら死ぬというわけでもなし、気楽に済ませてこよう。
――それが全ての始まりだとは、この時はアーユイもレンも、思いもしなかった。