夏の匂いがする
「夏の匂いがするね。」
少女は初夏に柔らかく開く若芽のように微笑みながらそう言った。
「夏の匂い?」
少年は鉛筆を動かす手を止め、異国の食べ物を初めて口にしたような表情で聞き返した。そしてそう言いながら、彼女お得意の比喩というやつかと思い直した。
しかし、その抽象的な表現に対して彼が期待した具体は返ってこなかった。代わりに返ってきたのは、
「そう、夏の匂い。今年も夏の匂いがし始めた。」
という初夏の風のように鼓膜を撫でる朗らかな声だった。
少女はテーブルの向かいで椅子に腰掛け、南向きの窓の枠にもたれながら外を見ていた。ベランダに芽吹くハーブ、柵に絡むアイビー、中庭の中心にそびえるネムノキと芝生とが窓の奥に萌える。
少年はテーブルに向かって座り、正確には身体はテーブルに向いていたが実際にはイーゼルに向き合いながら、目の前の光景をデッサンしていた。イーゼルの中では少女が、先刻、"夏の匂い"と言い出す前の姿勢で小説を手にしていた。
少女はもう一度双の肺をいっぱいに空気で満たした。すると、彼女の瞳はここ数月ほどのの淡い桜色から、深い新緑が反射する翠色へと変わった、かのように少年の目には映ったから、少年は、"使う絵の具の色を変えなきゃな"と思った。そしてまた鉛筆を動かし始めた。
(どうして手を止めていたんだっけ...
夏の匂いって言ったから。夏の匂い。夏の匂い。夏の匂い。知らない。)
薄い雲が流れて陽を遮る。
顔を上げる。
翠色の視線とぶつかる。
(夏の匂いが、知りたい。)