前編
それはいつからだったのか。
はっきりとは覚えていないけれど、僕の視界の先にはいつも、同じクラスの藤木さんがいた。でもそれは、自分でも気付かないうちに彼女に惹かれていた僕が、無意識に目で追っていたからではないかと思う。
藤木さんは少しおっちょこちょいで天然なところがあり、僕はそういう、のほほんとした雰囲気の女子がとても好きだった。
藤木さんは授業中に、ノートの上の消しカスを払おうとして、勢い余ってノートごと吹っ飛ばしてしまう人だ。
手裏剣のように勢いのついた藤木さんのノートが、床の上を回転しながら教卓の近くまでスライドしていく。藤木さんはそれを回収するため、必死に身を屈めてノートまで近づき、そっとノートの端を摘んで忍び足で席に戻っていた。
その姿はまるで、愛犬のポテトが僕の荷物をこっそり自分の寝床へと持っていく時の、『やったぞ。見つからずに靴下を回収できたぞ』という、どこか自信に満ちた忍び足と似ている。
僕は愛犬に、そして藤木さんに、思い切り見つかっていますよと、伝えたい気持ちでいっぱいだった。
そんな藤木さんの微笑ましい行動を目撃するたび、僕の心は弾む。いつも僕の心の温度を、藤木さんは少し上げてくれる人だった。
掃除当番の藤木さんが、箒で教室を掃いている。藤木さんの前で、規則正しく左右に揺れる箒。なんだか物凄くリズムが良い。
音楽で使うメトロノームのような心地いいテンポで、教室を真っ直ぐに掃き進む藤木さん。しばらくして、教室の壁に激突していた。
リズムに乗り過ぎた藤木さんは、前方への注意を忘れていたと思われる。
途中で声を掛ければよかった。
でも、まさかそのまま壁とご対面してしまうとは思わなかったのだ。申し訳ないと思いつつ、僕はちょっと笑う。ごめんね、藤木さん。僕は心で謝罪した。
額を照れながらさする藤木さん。
その横顔がとても可愛い。
しばらくして藤木さんはハッとしたように周囲を見渡した。失態を見られていなかったかと、確認するように周りを伺っている。僕は少し離れた窓際で、スマホを見ているフリをしていた。
藤木さんが安堵の息を吐き、うん。と頷いてから掃除を再開する。今のは恐らく『見られてないよね? うん、大丈夫』そんな自問自答の、うん。なのだと思う。
藤木さんがまたリズムに乗る。
僕は途方もなくヒヤヒヤした。
* *
自室で、愛犬ポテトが自分の尻尾を捕まえようと回っている。くるくるとリズム良く追い掛ける。回って、廻って、回りすぎて目も廻り、そのまま壁に激突した。
藤木さん!
違う。
「ポテト! 大丈夫か?」
僕は愛犬の頭を撫でながら考えた。自分でも気付いているけれど、どう考えても、近頃の僕は藤木さんを見つめ過ぎている。
もう認めるしかない。
僕は藤木さんの事が好きなのだ。
まだ平熱しか知らない僕の柔な心臓が、初めての微熱に思考を少しぼんやりさせた。
うちの高校はバスケットボールの強豪校で、全国大会の常連だ。そんなチームで、僕は唯一の二年生レギュラーだった。
ポジションはポイントガード。
チームの司令塔をしている。
いつもたくさんの女子達が練習の応援や差し入れに来てくれるけれど、僕はずっとバスケ漬けの日々を送っているので、今まで彼女がいたことは無かったし、女子の扱いもよく分かっていない。
芸術的に綺麗なお弁当をくれたり、バスケットボールを刺繍した見事なタオルをくれたり、僕をサポートしてくれる女子達に感謝と申し訳なさを感じつつ、それでも僕は、家庭科の調理実習で茹で卵に失敗する藤木さんが好きだった。
その日のメインはハンバーグ。
藤木さんはサイドメニューのサラダ用に、レタスの上に輪切りにした茹で卵を乗せるという極めて単純なミッションに挑んでいる。
しかし茹で始めてからしばらくして、茹で過ぎではないかと不安になったのか、藤木さんが割と早い段階で卵を取り出し、殻を剥きやすいように水につけて冷やし始めた。
「あ」
ハッとして、恐る恐る卵を振ってみる藤木さん。
やはりまだ、中身が生だったようで、再びその卵を鍋へ投入する。
もう一度茹でる。しばらくして取り出し冷やす。振ってみる。「あれ?」茹でる。冷やす。振る。茹でる、冷やす、振る。ゆでるひやすふる。
僕がこの卵なら「俺をどうするつもりだ!」と叫んでいる。急激な加熱、瞬間的冷却、そしてハンドシェイク。それらが規則的に繰り返され……。
立派な茹で卵になるべく、熱湯の中に旅立ったはずの彼の未来の姿が、今、誰も予想し得ない何者かになろうとしている。
最終的に藤木さんの班のレタスの上には、謎の白い何かが乗っていた。
涙目でしょんぼりしている藤木さん。僕はなんでも器用にこなせるタイプなので、料理もそれなりにできる。藤木さんに美味しい料理を振る舞って元気付けてあげたい。
僕はもう、藤木さんを見つめずにはいられなくなっていた。
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*翌日、後編投稿予定です。