隣の猫田さん
「やったああああ!!! 小谷のサヨナラホームラン!! 投げて打つとかお前は神か! 野球神なのか!」
レモンを絞った炭酸水で乾杯する。はあ……プロ野球最高。
リモートで働けるようになったおかげで物価や家賃が安くなって最高……と言いたいところだけど、郊外へ引っ越してしまったせいで球場へ簡単に行けなくなってしまったのは痛恨。
その分大きな画面で観ることは出来るけど、やっぱり球場での生観戦には遠く及ばない。
「よし、節約して今年は全国の球場巡りをしよう」
やはり人生目標が出来ると張り合いが出る。仕事もそのための準備だと思えば頑張ろうと思える。
あれ?
おかしい。いつもならごはん寄こせって邪魔をしに来るのに……?
「しらたま~? ごはんだよ? 寝てるの?」
返事がない。ごはんという単語だけには秒で反応するあの子が、たとえ寝ていたとしても飛び起きてくるはずの食いしん坊なあの子に限ってあり得ない。
「……まさか」
窓から入ってきた風にカーテンが揺れて背筋が冷える。そうだ……季節外れの暑さに窓を開けたまま閉めるのを忘れていた。
しらたまは外へ出たがる猫じゃないし、ごはんがもらえるとわかっているこの時間に出てゆくはずがないと油断していた。
「しらたまっ!!」
窓からベランダへ出る。居ない。ここは三階だから飛び降りるとは考えたくないけど……
周囲を探してみたものの姿は見当たらなかった。
私もしらたまも、越してきたばかりでこの辺りに知り合いもいないし、地理にも明るくない。
もし車に轢かれたら……不安で泣きたくなってきたけど、私が動かなくて誰があの子を助けられるというのか。
「もしかしたらベランダを伝って他の部屋へ行ったのかもしれない」
とりあえず管理人さんに相談することにした。
「ええっ!? しらたまちゃん逃げちゃったの?」
管理人さんは品のある妙齢の女性で、大の猫好きだ。このマンションを所有していた資産家の未亡人らしいが、詳しいことは知らない。
だけど、猫を飼っている人を優先的に入居させてくれるだけじゃなくて、家賃まで割引してくれたのは正直めちゃくちゃありがたかった。
「はい……私が悪いんです。まさかごはんの時間に逃げ出すなんて……」
「それは変ね? もしかしてごはん変えた?」
管理人さんが目を細める。
「う……よくわかりましたね。実はあの子が大好きな、猫煩悩まみれが売り切れていたので、今日はニャオンのプライベートブランドを買って来たんです」
「やっぱりね、ニャオンのキャットフードなんてゴミよ? そりゃあ逃げ出す気持ちもわかるわ」
我が意を得たりとばかりに、ビシッと指を指してくる管理人さん。
「……な、なんか食べたことあるような言い方ですね?」
嫌そうに顔をしかめる管理人さんの様子に思わず余計なことを言ってしまった。
「あるわよ? 可愛い猫ちゃんに変なモノ食べさせるわけにはいかないから。必ず私が味見してるの」
にっこり笑う管理人さんがちょっとだけ怖い。美人なだけに余計に。色々思うところはあるけれど、触れない方が良さそうだ。
「それでですね、他の部屋にお邪魔しているんじゃないかって思っているんですけど……たとえば猫煩悩まみれに釣られてとか……」
猫好きの管理人さんで猫OKのマンションなのだから、他にも猫を飼っている住人は多いはず。
「うーん……実はね、今現在このマンションで猫飼っているの犬山さんだけなのよ」
「ええっ!? そ、そうなんですか? てっきり皆さん飼われているのかと……」
たしかに言われてみれば野良猫以外見かけたことはなかったが、室内飼いなら不思議ではないし、そもそも他の住人さんとまだ交流すらしていないから全然気付かなかった。
「あんまり言いたくないんだけど、亡くなった主人が大の猫嫌いでね? そのせいでこのマンション猫が苦手な人ばかり……早く出て行ってくれないかしら。主人みたいに……ふふふ」
ひぃっ!? にっこり笑う管理人さんがめっちゃ怖い。え……まさかご主人が亡くなったのって……いやいやそんなまさか。気のせい気のせい。聞いちゃだめだ聞いちゃだめだ……
私の退化しきった野生の本能が警鐘を鳴らしている。深入りしてはならないと。
「犬山さん」
「ひゃいっ!?」
ガシッと両肩を掴まれて変な声が出る。
「大丈夫よ。幸いこのマンションには猫探しのエキスパートが居るもの」
「ね、猫探しのエキスパート?」
「そう、この界隈では知らぬものはいない名探偵猫田さんがね!!」
……この界隈ってどの界隈?
「ここよ~」
管理人さんに連れられてやってきたのはある部屋の前。
「って……ここ私の部屋の隣じゃないですか」
普段まったく人気がないから勝手に空き部屋だと思っていた。表札も出ていないし。
「あの……本当に居るんですか? もしかして死んでたり……」
「いやだ、大丈夫よ。昨日家賃滞納の件で脅したばかりですもの」
脅したんですね……。さらっと怖いこと言う管理人さんの目をまともに見ることが出来ない。
「ほら、猫を探す仕事しているから、昼間は寝て、夜中に出ていくことが多いらしいのよ。睡眠を妨げられないようにチャイムも音がならないようにしてくれって言われたくらい」
なるほど……そういうことだったのか。
「あ……ごめんなさい、私来客があるのをすっかり忘れていたわ。これ、合鍵渡しておくから勝手に入っていいわよ。じゃあね。何か言われたら私の名前出していいから」
「え……あの、ちょっと、待っ……」
合鍵を握らせて走り去る管理人さん。こんな遅い時間に来客? なんか怖い仕事の依頼じゃないですよね? っていうか、他人の部屋に合鍵で入ったら犯罪では?
仮に犯罪でなくとも私も一応若い女性だ。こんな夜遅くに隣人とはいえ、会ったこともない見知らぬ部屋に入る勇気などあるわけがない。
「……でも、しらたまが居るかもしれないし、今のところ頼りになりそうな人が他に居ないのも事実なんだよね」
チャイムが鳴らないのは猫田さんのせいだし、鍵を開けて外から声を掛けるぐらいは良いよね?
まあ、何か言われたら管理人さんのせいにすればいいんだし。家賃を滞納しているみたいだから、きっと立場も弱いはず。
ガチャリ
「あの……猫田さん? 隣のものですなんですけど」
『ああ、入って』
部屋の奥から若い男の人の声。途端に全身に緊張が走る。
「無理です」
『はあっ!? 猫を迎えに来たんじゃないの?』
「え……しらたま、居るんですか?」
そういうことなら仕方がない。勇気を出して部屋に入る。
「お邪魔します……って、きゃあああ!? なんで裸なんですか!!」
部屋の中には、美味しいものをたくさん食べたのだろう。満足そうに香箱になって目を細めているしらたまと、上半身裸の若い男性の姿が。
「なんでって……これから仕事だから着替えていたんだけど」
私の視線など気にもせず黙々と着替えを続ける猫田さんは、少し猫っ毛の超イケメン。
「ご迷惑おかけしました」
なるべく視界に入れないように頭を下げる。冷静に考えてみれば、猫田さんにとってみればいい迷惑だろうし。
「別に良いよ。それより猫苦手だから早く連れて行ってくれないかな?」
「え? 猫苦手なんですか? だって猫探偵だって管理人さんが。それに猫田さんなのに」
「ああ、何故か猫に好かれる体質でね。便利だから仕事に活かしているだけ。あと名前関係ない」
苦笑いする猫田さん。たしかに名前関係ないな。私も犬山なのに犬苦手だし。
「あ、あと勝手に開けちゃってすいませんでした」
「ああ、良いよ別に。外のやり取り聞こえていたし。管理人さんが一緒じゃなくて良かった」
怖いことを思い出したのか、捨てられた仔猫のように小さく震える猫田さん。
わかるよ猫田さん。あの人怖いよね。
「ほら、帰るよしらたま」
うつらうつらしているしらたまを抱き上げる。これ以上長居したら迷惑になってしまう。
「お邪魔しました」
「ああ、それからニャオンのキャットフードはやめとけ。あれはゴミだ」
「……はい」
なんで私がニャオンのキャットフードを買ったって知っているんだろう? それにしても逆に興味が湧いてくるレベルだ。一体どれだけマズいんだニャオンブランド。
◇◇◇
部屋に戻ってから、買っておいた猫缶を開けてみる。
「おえっ!?」
なんだろうこの異臭は……? 少なくとも食べて良いニオイではない。どちらかといえば毒に近い。
もったいないからと思ったけどこれは無理だ。ニャオン恐るべし。
ガチャリ
「猫田さーん、こんばんは」
『……普通に入ってくるんだな。何か用?』
「管理人さんが合鍵自由に使っていいって」
『住人を何だと思っているんだあの人は……』
「家賃を払わない人は住人じゃないって」
『ぐはっ!?』
どうやら、まだ家賃は払えていないらしい。
「あの……この間のお詫びと御礼です。カレー作ったんで良かったらどうぞ」
料理はお世辞にも得意とはいえないが、カレーだけは絶対の自信がある。
「へえ……こりゃあ美味い!! 久しぶりにまともなもの食べたよ。これならどんな男でも落とせるだろうな」
「……褒めていただいて光栄ですけど、彼氏とかいらないんで」
「どうして?」
「私ストーカーされていたんです。それで引っ越して……今でも男性が怖いんです」
「そうなんだ……俺も一応男性だけど?」
「猫田さんは何ていうか……男性っぽくないというか……」
「あはは、実は俺も女性恐怖症だからかもね」
もったいない。思わずそう思ってしまったけれど、きっと猫田さんにも事情があるのだろう。トラウマになった傷や裏切りの記憶が……
「ああ、違う違う、どんな想像しているのか何となくわかるけど、モテすぎて面倒くさいというか……」
「あの……殴って良いですか?」
「うわあ、怖い怖い」
全然怖がっていないのがムカつく。
「……家賃どうするんですか?」
「うーん、何とかなるさ。それとも貸してくれる?」
「お断りします」
お金の貸し借りだけは絶対に駄目だ。猫田さんには申し訳ないけれど。
「猫を探している人がいたら紹介ぐらいはしますけど」
「それは助かるな。これ、俺の連絡先ね。犬山ちゃんの紹介なら特別サービスするよ」
ウインクが実にさまになっている。本当に憎たらしいくらいにイケメンだ。こんな地味な仕事をしなくたって、いくらでも稼げそうだけど。
◇◇◇
「え? 猫田さん追い出しちゃったんですか?」
「まあね、これでもずいぶん猶予あげてたのよ」
管理人さんもわりと気に入っていたみたいだからちょっと意外だったけれど、慈善事業では無い以上、仕方ないのだろう。
「空いた部屋に猫をたくさん飼っている入居者さんが越してくるのよ~」
……なるほど、納得だ。天秤にかけるまでもない。
「……なんだか寂しくなるな」
友人というわけでもなく、ましてや恋人でもない。ここに越してきて初めて出来た顔見知り程度の隣人。別れの挨拶も出来なかったのはちょっと心残りではある。
「あれ? 雨降ってきた……早く帰ろう」
近くのスーパーで猫煩悩まみれを大量に買い占めた帰り道。
『にゃああ……』
道端に置かれた濡れた段ボールの箱。
段ボール箱には、『捨て猫田です』の貼り紙が。
「……何をしているんですか、猫田さん?」
「え? いやあ……住むところが無くなっちゃったから、犬山ちゃんに拾ってもらおうかと」
「仔猫にしては大きすぎるんですけど?」
「昼間は寝ているだけだし、猫一匹増えるようなものだよ? 邪魔しないからお願い」
まったく……困った人だ。
「風邪……引きますよ。もし私が通りかかっていなかったらどうするつもりだったんですか?」
「え? 大丈夫だよ。だって犬山ちゃんが来るのを見計らってスタンバってたんだし」
「そういうの言わない方が良いと思いますけど」
「そう? 犬山ちゃんはその方が信用してくれると思ったんだけど」
実際にその通りだから腹が立つ。
「なんでわかるんです?」
「簡単な推理さ。俺は名探偵だからね」
名探偵なら、家賃ぐらい稼いで迷惑かけないでほしいものだが。
「私、カレーくらいしか作れませんけど?」
「犬山ちゃんのカレーなら毎日でも食べたい」
「猫と女性が苦手なんじゃなかったんですか?」
「犬山ちゃんとしらたまは例外だから」
むう……そんな捨てられた猫みたいな目で見ないで欲しい。
「……わかりました。まあ家賃半分払えとは言いませんけど、しらたまの猫缶代くらいは稼いでくださいね?」
「良いの!! さすが犬山ちゃん話が分かる。あ、俺も野球好きだから一緒にドーム行こうよ」
「なんで私が野球好きって知っているんですか? それに猫田さんお金ないんですよね?」
「あはは、あれだけ叫んでたら嫌でも聞こえるから気を付けた方が良いよ。費用は出世払いで」
猫探偵に出世の道なんてあるのだろうか?
「ほら、お金持ちから依頼があるかもしれないし」
なんでそんなに自信があるのだろう。どこまでも自由で……まるで猫みたいなひとだな。
「とりあえず持ってください。これ重いんで」
大量の猫缶の入った買い物袋を差し出す。
「まったく猫使いの荒いご主人様だな。あ、ベッドは一緒で良いから」
「今すぐ買ってきてください。寝床は猫用のカーペットで十分ですよね?」
「ええっ!? やだなあ冗談だってば」
……いつの間にか私の部屋の前に猫田さんの荷物が。
「お世話になります」
「掃除と洗濯もしてもらいますからね?」
まったくどこまでも調子が良いんだから。
「今夜はカレーが食べたい」
「良いですけど、人参とジャガイモが足りないかも」
「じゃあ買ってくる」
ドサッと玄関に猫缶を置くと脱兎のように駆け出してゆく彼の姿が少年のようで無性に可笑しい。
「はあはあ……ごめん、お金持ってなかった」
「……はい、千円で足ります?」
「クリームパン買っても良い?」
「出世払いですよ?」
「うへえ、了解」
ただの隣人だった猫田さんだけど……
これからは隣の猫田さんになる。
だって私の部屋には二人掛けのソファーしかないからね。
イラスト:すん太さま