06.政略結婚の妻は、風変わりな人だった
セイン・エーヴァルトは二度目の人生を生きている。
なぜそんな摩訶不思議が起きたのか。セインはその理由を、今際の際に抱いていた未練が強かったからだと考えている。
人生をやり直しさせるほどの未練。――それは、亡き妻のことだった。二十四のとき、君命により七つ下の侯爵家の娘と婚姻を結んだ。名を、エレノア・ファーナー。彼女は変わり者として有名だった。誰もいないところで会話したり、突然悲鳴を上げたり、妙な嘘をつくという。彼女と同様に、変わり者として世間に認識されていたセイン。同じ蔑称を持つ女を、狙ったように妻として当てがわれた。
「君を愛するつもりはない。これは形だけの結婚だ」
「……分かり、ました」
若くして公爵位を継いだばかりのセインは、このとき余裕がなく気が立っていた。領地経営や政務に追われ、色恋にかまける暇もないと思っていた矢先に決まった婚姻。自分の中で、家庭を省みないことが合理的だと間違った判断をした。政略結婚で嫁いできた若い娘に、よくもこんな酷い言葉を突き付けたものだと思う。開口一番に妻の存在意義を全否定したときの、エレノアの寂しげな顔はずっと忘れなかった。
一緒に暮らしてみて、エレノアは噂通りの変わり者だった。いや、噂以上に酷かった。何もないところで空想上の相手と話し、家の調度品を壊しまくり、一晩中部屋で暴れているなんてことも。シャンデリアを落として小さな火事を起こしたときは、厳しく怒鳴りつけてしまった。
「エレノア嬢。君はこの家を燃やす気か!? 恨むなら俺だけを恨めばいいだろう。屋敷の者を危険に晒すような真似は二度とするな!」
「申し訳ございません、旦那様。……本当に、謝罪のしようがありません」
しおらしい態度に一層腹が立った。反省するくらいなら最初からしなければいい。しかし、その後も一向に彼女の奇行は改善しなかった。使用人たちは彼女を気味悪がり、辞職する者も枚挙に暇がなかった。
(きっと、彼女は精神を病んでいるのだろう)
こう考えるのがごく自然だった。何人かの医者に診せたが、全員口を揃えて心の病だと診断した。今の医学では、心の病に効く薬はない。セインは心を患った肩書きだけの妻に頭を抱えた。
「エレノア嬢。そこに何が見える? 君は何と話している?」
「……」
「質問に答えろ、エレノア嬢」
具体的な症状を把握すれば、何か対応策が思いつくかもしれないと思い、度々エレノアに尋ね、理解しようとした。しかし、彼女は頑なに自身の症状を語らなかった。不審な行動を取る度に尋ねても、"なんでもない"の一点ばり。
内気で繊細な彼女に、怖い顔をして無理やり聞き出そうとしたら、萎縮するのも無理ないことだった。しかし、当時のセインは、朴念仁で鈍かった。
そんなあるとき、セインの心を変える出来事が起こる。
その日、庭園の片隅で空に話しかけているエレノアを見かけた。何を話しているのか聞き耳を立てる。
「なぜ人は生きるのか……ですって? そうですね……」
(随分哲学的な話だな)
エレノアは、顎に手を添えて思案し、玲瓏と目の前の何者かに答えた。
「学びのためでしょう。人は見えるものしか信じませんが、心は本来独立した存在。心は肉体が滅びても次の肉体に宿り、何度も旅を重ねて向上し続ける無限の存在なのです。人間として喜怒哀楽を経験し生きることは、心と、その仮初の器である人間にとって、価値のある学びだと思います」
それは、理知的な回答だった。しかし、彼女は苦笑した。
「こんなことを言ったら、きっとまた周りの方々には頭がおかしいと言われてしまうでしょう。え――私が今、幸せか……?」
エレノアは憂いを帯びた表情で、首を横に振った。
「いいえ。幸せではありません。私には、あまりに試練が多くって……。ですが、この人生を全うししかるべき場所に還ったときは、これもまた愛おしい人生だったと振り返るでしょう。だから、大丈夫」
セインはただ、彼女の卓越した叡智に衝撃を受けた。一体どこから学び得たのか分からない智恵を語り、十七歳とは思えない悟った表情を浮かべている。
(何が、大丈夫だ。それでいいと本気で思っているのか?)
少なくとも彼女が、世間で噂されるただの変わり者ではないと分かった。物質主義の今の時代が、彼女の理解に追いついていないだけなのだ。周りから後ろ指を指されても、エレノアは崇高な心を持っていた。
このとき初めて、女性に興味を持った。
「エレノア嬢」
「だ、旦那様……もしや、今のを聞いておられたのですか? ごめんなさい、私一人でまたおかしなことを喋ったりして……。気味悪がらせて、本当に……」
「そう一々謝るな。俺がこんなことで怒るような男だと思っているのか?」
どう見ても怒っている人間の態度でセインは言う。エレノアは怯えた様子でこちらを見上げて、「ごめんなさい」と謝罪を重ねるばかりだった。
セインは女性と対話する方法などまともに知らない。その上、彼女が今にも泣きそうな顔をするので、「何も聞いていない」と嘘をついてその場を離れた。
後に、セインは思った。幸せではないと物憂げに呟いた彼女に、『幸せになりたいと思うなら、そうなるために足掻いたらどうだ』と言ってみればよかった――と。エレノアより七年長く生きるセインはよく知っている。心が望めば、それを叶えるためのチャンスが誰にでも等しく与えられるということを。セインは、悪政を敷いて領民を苦しめていた先代から、政権を奪取し、民を救うことができた。それがセインにとっての望みだった。
(エレノア嬢。心が無限の存在というなら、なぜ無限の可能性に懸けようとしない? 君の望みは、なんだ?)
結局、エレノアからそれを聞くことはできなかった。
彼女と向き合おうと努力したが、仕事人間で他人の感情の機微に疎いセインは、エレノアを却って追い詰めてしまった。二人の仲は拗れたまま、妻は不慮の事故で逝去した。裏の森は危険だと教えなかった自分の落ち度だと嘆いた。麓で見つかった彼女は、セインが贈った結婚指輪を大事に握り締めていたという。悪魔に取り憑かれているという噂を聞いて、なんとなく魔除けの石を選んだものだ。
妻が逝ってしまった後、後妻を迎えることはせず、それまで以上に仕事に没頭した。数年して、何気なく妻が使っていた部屋に入り、日記を見つけた。悪いと思いつつ、彼女が何を思って生きていたのかと気になり、本を開いた。
(……妖魔。それが――彼女の視ていたもの)
エレノアは精神病患者でもなく、特殊な能力を持つ普通の娘だった。日記に綴られる妖魔とのたわいもない日常と、彼女の健気さを知り、セインは猛烈に懺悔した。ひどいことをしてしまったと。
「すまない、エレノア嬢。俺は何ひとつ、君のことを理解してやれなかった。さぞ辛かっただろう。……本当に悪いことをしてしまった」
彼女の残した日記を元に、彼女の能力について勉強した。エレノアが妖魔と呼ぶそれらは、魔物、妖精、精霊、時に人が神と呼ぶ存在だった。宗教的情操は、妖魔から得ていたのだろう。
結局、セインは最後の最後まで、妻のことを少しも理解していなかった。記憶の中の妻への自責の念に揺れ、残りの人生を生きた。
(エレノア嬢。君は、どんな顔をして笑うのだろう。君の口から、嘘偽りのない君の話が聞きたいと今更考えたりしている。君には世界がどんな風に視えているのか……。そんなことを言ったら、怖がらせてしまうだろうな)
◇◇◇
天寿を全うしたセインだが、死後の世界とやらに呼ばれることはなく、なぜかエレノアとの縁談が命じられた日に、逆戻りしていた。
二度目の結婚。公爵邸に訪れたエレノアは、記憶と変わらず儚げで、セインに怯えていた。セインは、陰にこもって捻れていた若いころを反省して、社交的な笑顔で彼女を出迎えた。
「――待っていた。エレノア・ファーナー嬢。君を歓迎する」