31.臆病で優しい公爵夫人の新しいお役目
たった一度、ワインをかけて不敬を口にした罪は、重く罰せられることになった。マーガレットは、地下深くの牢獄で仮釈放なしの懲役十年を言い渡された。
侯爵令嬢という地位があれば、情状酌量されて謹慎程度で済んだかもしれないが、エレノアの父であるファーナー侯爵は、義母に離婚を言い渡し、母子共々切り捨てた。だからマーガレットは、侯爵家とは無縁なただの娘として罰せられたのだ。義母はたまたま後妻の座に収まっただけの元平民で、今はなんの後ろ盾もないので、釈放金を支払うこともできない。
義母は、マーガレットを哀れんで発狂し、修道院で世話になっているらしい。
「君が気に病むことではない。自業自得だ」
「……はい」
義姉と義母に散々虐げられてきたが、劣悪な牢獄で過ごすマーガレットを思うと、哀れに思えた。あばら家で寝泊まりし、凍える朝を何度も迎えてきたエレノアは、その辛さをよく知っているからだ。
「何か手を動かしたらどうだ? ストレス発散には、没頭するのが一番だ」
「そうですね……。では、いちごのタルトを焼きます。焼き上がったら旦那様もご一緒にいかがですか?」
「ああ。楽しみにしている」
エレノアは朝食後、厨房へ行った。すると、料理長に使用を止められる。
「すみません奥様。ただ今煙突の掃除中でして」
中年の料理長は、暖炉の下から覗き込んで怒鳴った。
「おいガキ! もたもたしてねぇでさっさと終わらせろ。奥様がお待ちだ」
「すみません! もう少しかかりますのでお待ちください」
(……! これは……子どもの声)
煙突の奥から聞こえた少年の声に反応し、エレノアは子どもを叱りつけた料理長の方を厨房から追い出した。掃除を終えて、体も顔も煤だらけにした十歳ほどの少年が、暖炉から現れた。
少年は、厨房にエレノアしかいないことを不思議に思う。
「あの……お客さんはどこに? それに……あなたは一体……」
「料理長の代わりに私があなたの対応をさせていただきます。先程は我が家の使用人が不遜な態度を取ってしまい、ごめんなさい。私はエレノア・エーヴァルト。この家の女主人です」
「こ、公爵夫人!? す、すすすみません! こんな汚い格好で」
エレノアは少年を抱き締めて、涙を流した。
「奥様!? は、離してください! お召し物を汚してしまいます!」
「そんなこと、気になさらないでください。ごめんなさいね、本当に、ごめんなさい……」
「どうしてあなたが謝って……」
煙突を掃除する子どもたちは、"クライミング・ボーイ"と呼ばれている。貧しい子どもたちは、こうやって裕福な家の煙突の中に入って掃除し、日銭を稼いで家族の生活を支えている。
大変な危険を伴う仕事で、煙突から落下したり、細い筒の中に体が引っかかってそのまま窒息死することもしばしば。体は汚れていて、擦り傷や痣だらけだ。
煤を浴びて過ごしているので、病気になることも多い。しかし、世間では職業病は仕方ないものとして済まされてしまうのだ。エレノアはハンカチを出して、少年の汚れた頬を拭いた。
「あなた、名前は?」
「ジョージです」
「そう、ジョージ。もう今日のお仕事は終わり?」
「は、はい。あと三人、この家の煙突を任されているので、そいつらが終わったら上がりです」
「なら、お友だちも一緒に、お菓子を食べていきませんか? これからいちごのタルトを焼くんです」
「ええ!? よ、よろしいんですか。そんな贅沢な物を、俺なんかが……」
「もちろん。まずはお風呂で身体を清めていらっしゃい?」
エレノアはリゼとアイリーンに命じ、仕事が終わった子どもたちを入浴させた。
厨房でお菓子を作っていると、料理長が懐疑的に言った。
「……あの、奥様。どうしてクライミング・ボーイなんかに茶なんてお出しになられるのです?」
「――なんか、ではありません。彼らは、立派なお仕事をなさっているのですよ。口を慎みなさい」
「申し訳ございません、奥様」
子どもたちを見下すような態度の彼を諌める。自分が馬鹿にされるのは構わないが、あの子どもたちを不当に扱うことだけは許せない。
エレノアは、食堂に子どもたちを待機させ、いちごのタルトを用意した。タルト生地にカスタードクリームをふんだんに流し込み、いちごをぎっしりと並べる。アプリコットジャムで艶出しして、粉糖をまぶしたら完成だ。
食卓に持っていくと、子どもたちはきらきらと目を輝かせた。
「こんな美味いもん、初めて食べた!」
「とっても甘〜い。頬っぺたが落ちちゃいそうだよ」
一番若い子は、七歳くらいの女の子だ。エレノアはタルトを頬張る子どもたちを眺めながら、小さく呟いた。
『――光の存在たちよ。我の力となり悪しきものを祓いたまえ』
その呟きは、目の前の甘味に夢中な子どもたちの耳には入らない。タルトを食べ終わったジョージがおもむろに言う。
「奥様は……どうして俺たちに親切にしてくださるんですか?」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「私もね、実家にいたころ煙突掃除をさせられていたんですよ。だから、この仕事の大変さをよく知っているのです」
「ええっ! 奥様は平民出身の方なんですか?」
「そういう訳ではありませんが、少し、特殊な家だったんです」
煙突掃除をさせられていたのは、マーガレットと義母の嫌がらせの一環だ。大人になった今でも、当時のことがトラウマで、暗いところや狭いところが苦手だ。酷く怪我をした右足も時々痛む。
目の前にいる小さな子どもたちは、それを生業にして生きている。そう思うと、切なくて、胸の奥が締め付けられた。
(私にしてあげられることは、美味しいお菓子を食べさせてあげることと――妖魔を祓って差し上げることくらいです)
子どもたちには、小さな妖魔がくっついていた。不潔にしていて、死の危険がある仕事をさせられて、苦労を抱えているため妖魔を寄せ付けてしまったのだろう。
リゼに指示し、清めた塩を入れた風呂に入浴させた。そして、子どもたちにタルトを与えている間、ずっと心の中でお祓いの真言を唱え続けていたのだ。浄化が完了した子どもたちに、土産のパンを山ほど与えて、三倍の給金を持たせて帰らせた。
それから、いちごのタルトを皿に取り分け、セインの執務室に届けた。
「クライミング・ボーイらに、茶を出してもてなしたようだな」
部屋に入って早々、セインに言われる。
「はい。勝手な真似をして、申し訳ありませんでした。あの……旦那様」
エレノアは正直に言い思っていることを口にした。
「子どもに危険な煙突掃除をさせるのは、非人道的だと思います。私、私――あの子どもたちのために、何かしたいです。頭もよくなくて、気も小さいですが、何か……あの気の毒な子どもたちのために……」
セインはペンを置き、こちらを優しげな表情で見据えた。
「俺は嬉しく思う。君のような優しく気高い人が妻になってくれたことを。君の公爵夫人としての新たな仕事が、決まったな」
「……!」
つまり、子どもたちに強制労働をさせている現状を変える活動に、エーヴァルト公爵夫人という肩書きで携わっていいということだ。エレノアは、力強く頷いた。臆病で自分の主張が全くできなかった彼女は、そこにはもういない。
「――やります。そのお仕事」
変わり者として疎まれていた――エレノア・エーヴァルトが、クライミング・ボーイ規制を呼びかける運動の発起人となり活躍するのは、まだ少しだけ未来の話。
貧しい子どもたちに別の形で仕事を与え、エーヴァルト公爵家が治める公国は後に、周辺国の中でも初めて、子どもの強制労働を規制する法が導入されることになる――。




