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14.家庭教師の先生は、スパルタです

 

「リゼさん。愛って……なんでしょうか」

「はい?」


 朝早く、鏡台の前でリゼに髪を梳かしてもらいながら、おもむろに尋ねる。「急に何を言い出すのか」と言わんばかりに彼女は眉を顰めた。


(旦那様の愛しているは、どのような意味の愛でしょうか。哀れみを含んだ慈愛? それとも友愛、家族愛……。いえ、きっともっと別の――)


 エレノアは顔を赤くして俯いた。視察に出かけた日から、彼に言われた"愛"の意味を考えた。特別な愛と認めてしまうのは、おこがましいのではないのかと、ぐるぐる頭の中で思案し続けている。それから、『君を愛するつもりはない』と断言していた前回の人生の夫と、今の夫の何が違うのか――も。


「奥様は、旦那様のことでお悩みですか」

「……はい。あのお方の私に対するお心も、私のあのお方に対する気持ちも……よく分からなくて」


 リゼは、エレノアの長い金髪を結いながら言った。


「旦那様は、あのお方なりに――妻としてあなたを愛しておいででしょう。使用人の身である私が申し上げるのは不敬かもしれませんが、これまで女性に全く興味を持たず、仕事ばかりで愛想のなかった旦那様が、あなたが嫁いできて一変しました。雰囲気も柔らかくなり、奥様のことをいつも心にかけておられるご様子です」

「……」


 エレノアは小さく息を吐いた。


「私……これでも舞い上がっているのです。誰かに想っていただけるなんて、まるで夢のようで。でも……私などが、本当にこんな良い想いをしていいのでしょうか」

「いいに決まってます」


 彼女はそう断言する。


「奥様はもっとご自身に自信を持ってください。女主人として頑張っておられることも、清廉なお人柄であることも、皆よく知っています。あなたはそれに相応しい現実を享受しているだけです。遠慮する必要などございません」


 鼻の奥がつんと痛くなった。前回の人生では、リゼはエレノアを敬遠していた。必要以上に話そうとしないし、不審な行動を取る度、距離を置かれた。けれどなぜか、今のリゼは熱い言葉で励ましてくれている。


「リゼさんは、私のことが怖くないのですか? ……私、時々奇妙なことをするでしょう?」

「……」


 彼女は少し考えてからこう言った。


「私……少し前まで、爪を噛む癖があったんです」

「え……?」


 突然の告白に戸惑う。


「人前であってもつい癖が出てしまって、いつも爪の先が傷んでいました。……誰だって、こういう一面を隠しているものです。最初は、あくまで旦那様のご指示でお仕えしていましたが、今は自分の意思で、奥様にお仕えしたいと思っています。怖いとも思っておりません」


 リゼは、エレノアの不可解な行動を、ある種の癖として理解してくれていた。きっかけはセインの指示だったようだが、どんな形であれ、受容してもらえるのは嬉しい。傷ついていた心に、リゼの優しさが染みていく。

 声が震えてしまいそうで、ありがとうを口にすることができなかった。唇を引き結び、泣きそうなのを堪えるのが精一杯だった。


「奥様、唇を噛まないでください。これからお客様がいらっしゃるのに、傷を作るおつもりですか」

「だっで……うれじぐて……」

「!?!? お、奥様、今は泣かないでください! せっかくの化粧が台無しになりますので」


 堰を切ったように、涙が零れた。ぐすぐすと泣いているエレノアに対し、なんだかんだ言いながらもハンカチを貸してくれたリゼだった。



 ◇◇◇



 今日は、エレノアに客人が来ていた。彼女は、エリザベート・ミッシェル。セインの親戚筋の侯爵家出身で、しばらくの間、家庭教師になってくれることになった。


「エレノア夫人! また背中が丸まっておりますわ。もっとビシッとしなさい! あなたは公爵家の夫人でしょう。それではまるで、野良猫のようですわよ!」

「ひいっ」

「返事ははい!」

「は、はい!」


 もうすぐ、公爵夫人としてセインととある夜会に参加しなければならない。社交界に滅多に顔を出さない変わり者公爵が、妻を伴って出席するということで、注目が集まるのだが……。前回の人生では、背を丸めた自信なさげな佇まいに、へんてこなダンスで散々な笑い者になった。加えて、視える力のせいで挙動不審になり、"変わり者公爵夫人"という呼び名を頂戴する始末。


 しかし、今回はセインがエレノアのために家庭教師をつけてくれた。エリザベートの指導は厳しく、気弱なエレノアは叱られる度に心臓がきゅっとなった。エレノアは怯えた様子で彼女を見つめた。


「何ですのその目は? 指導に不満があるというのなら、はっきり言ってくださいまし」

「い、いえ! 不満だなんて、滅相もありません。……そうではなく、先生はご存知ですか? 猫が猫背なのは、狩猟で獲物を捕えるためには、しなやかな体である方が有利だからだそうです。関節が多くて、背骨が柔らかいから、高いところから飛び降りても、柔軟性を利用して刺激を外に逃した着地ができるのですよ」

「へぇ……豆知識ですわね」


 ……と、感心したところで、彼女が眉間に皺を寄せて怒った。


「――って、エレノア夫人! くだらない話でお茶を濁して、わたくしの気を逸らそうとする魂胆が丸見えですわ。ほら、もう一度!」

「は、はひっ!」


(バ、バレてしまいました……)


 普段活動量の少ないエレノアは、既に疲れきっていた。しかし、少しでも先生の気を逸らして体を休めようという浅はかな考えは、見え透いているようだ。

 長年付き合ってきた猫背を矯正するのは、なかなかに難しい。すると、エリザベートが分厚い本を三冊重ねて、エレノアの頭に置いた。


「ひゃ!?」

「これを乗せたまま歩いてくださいまし。もし落としたら、ペナルティを与えます。あなた、体力がなさすぎるから、一つのペナルティにつきスクワット三十回にしましょう」

「そ、そそそそんな……。後生です、私が悪かったので堪忍してくださいっ」


 ペナルティと言われ、ますます心臓が縮こまる。虚弱なエレノアにスクワット三十回だなんて、無謀だ。エレノアは姿勢を伸ばし、意を決してぎこちない一歩を踏み出した。しかし、その瞬間本が床にずり落ちる。――どさり。


「はい、ペナルティ三点」

「まさかの一冊につき一点加算方式!?」

「当たり前ですわ」


 白熱した()()()()は、昼から午後三時まで続いた、

 ペナルティについては、途中からエリザベートが面倒がってカウントを止めたが――百二十四点。これは、絶対に内緒だ。墓場まで持っていくつもりでいる。


 ちなみに、今日で三回目の稽古になるが、未だ姿勢矯正ばかりで、肝心要のダンスレッスンには入っていない。姿勢の段階で口うるさく言われているのだから、ダンスを披露した日にはどうなることやら。


(この先が思いやられます……。ですが旦那様。私、公爵夫人として一人前になれるように頑張りますから……!)


 せっかくセインが設けてくれた稽古の機会。エレノアは健気に決心した。

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