83 国王、後宮の正妃になる
(魔力って使い果たすと死ぬんだっけ? 多分すっからかんにしちゃったよね。ここって死後の世界? 真っ暗。あぁ目閉じてるからだ)
美波は気力を総動員して重すぎる瞼をこじ開けた。
視界に入ったのはどこかの建物の天井。頭も動かすのが億劫で、とても起き上がる気にはなれない。寝かされている場所は柔らかく、ベッドの上だと思われた。
「どこ……?」
「……んあ? 起きたのか……?」
声がする方に目だけを向けると、椅子にもたれかかって寝ていたルークと目があった。
「……こんのっ、バカ!!」
そして開口一番に怒鳴られた。
こんなに激怒したルークは見たことがなく、ただ面食らう。
「お前、魔力も残ってねぇのに上級回復魔法使おうとして自分の生命力を削ったんだ! 死にかけたんだぞ!!」
それは禁術として古文書に記されている類いの魔法だと言う。美波はルークを助けたい一心で習得していない上級回復魔法を発動させたらしい。そして倒れた後、冒険者らが全速力でバザン軍の補給係のところまで走り、頼み込んでポーションを譲ってもらい、それを飲んでぎりぎり一命を取り留めたのだった。
「ルークはなんともない……?」
「俺のことはいい! もう二度とあんなまね__」
「よくない! だってルーク、死んじゃうと思って……」
ボロボロと泣き出す美波に、ルークは懐やズボンからハンカチを探すが持っておらず、慌てながら指で拭ってやる。
「だからって身代わりで死のうとすんな。お前はいつも自分から危険に突っ込んでいく」
「そんなつもりは……」
「頼むから、もっと自分を大事にしてくれ……」
ルークが苦しそうな顔で懇願する。
振り返れば冒険者になった時から、ゾルバダに潜入した時も、視察と称して各都市を見て回った時も、そして今回はフォスターを庇って自ら囚われの身になり、バザン王宮の奴隷から、はたまた後宮にまで飛び込んでいった。最後には魔法の腕は未熟のまま戦場に飛び出し__
(国のため誰かのためにって思ってたけど、本当は自分にしか出来ないことなんてなかった。まわりくどくても誰かに動いてもらって全員が安全に仕事を全うできる方法もあったはず)
結局は異世界に来て、今まで積み上げてきたものが全てなくなって、どこか投げやりだったのかもしれない。それくらいつらかった。けど泣いてたって帰れるわけじゃないって割り切って、考えないようにした。
それでいて、この世界の皆に認められたくて、失望されたくなくて、居場所を作りたくて、もがいてもがいて……
(だから自分の行動で世界が少し変わるたびに満たされた気がした)
けれどやっぱり代えの効く国王では満足できない。友達のミナミ、でも足りないらしい。贅沢なものだと自嘲する。
そう、あの有名な曲のように、誰か愛せる人を見つけたかったんだ。
(ダニエルが愛してるって言ってくれたみたいに……。だけどその気持ちには応えられない)
彼の好意の中には国王への尊敬も紛れているから。
(私が愛せる人は__)
部屋をノックする音で美波の思考は中断された。
「声がしたが、目が覚めたのか?」
入ってきたのはアフメトだった。
「ここって、殿下のお屋敷?」
「そうだ。話をしようと思ってきたが、まだつらそうだな。また後にするとしよう」
「もうちょっと寝とけ」
ルークは美波に毛布をかけ直し、アフメトとともに部屋を出て行った。
未だ疲労感に苛まれる体でこれ以上の思考は不可能で、再び眠りの淵に落ちていった。
次に目が覚めたのは昼間だった。起き上がってすぐにルークの姿を探すが、今度は見当たらない。客室だろう部屋には寝ていたベッドとキャビネット、その上にチューリップが飾られていた。立ち上がると袖や裾のゆったりとした、この国で一般的な寝巻きに着替えさせられていた。
部屋を出て誰かを探しに行こうとしたところに、ドアを開けてルークが入ってきた。
「トイレか? だったら出て右に真っ直ぐだ」
「えっいや、うん。行ってくる」
それから3人で話し合いが行われた。
状況を整理すると、美波が倒れてから1週間が経っており、市街で暴れ回っていた魔物は軍によって全て殲滅が完了していた。
アラミサルから鉄鋼と魔物製品を乗せて来た船は数日前にバザンに着港し、これから販売を始めるという。また、ゾルバダからの魔石の輸出も止められたそうだ。これで今後ラマダ商会は狙い通り弱体化するだろう。
(稼ぎ頭の商会が傾いたらこの国は大変だろうけどね)
完全に他人事な美波は同情心も湧かない。
「ブンガラヤに宣戦布告したことはどう処理するんですか?」
「ラマダ商会が株式を手放して発言権を失ったタイミングで使節を派遣し謝罪する」
想定通りに物事が進めば全てが解決へと向かうだろう。
美波は今回の功績を理由にアフメトに旅券の発行を願おうとした。しかし__
「此度の活躍が母后とアシルの耳に入ったらしくてな。正妃は第五夫人まで、しかも本来ならば年齢の問題もあるが、特別にそなたを第六夫人に迎えたいそうだ」
「……えっ?」
「は?」
それは全く想定していない事態だ。
誰だそんな余計な情報を王族の耳に入れたのは。美波はそいつをぶん殴りたくなった。そして多分、その張本人は目の前にいる。
「ちょっと待ってください! 私はアラミサルに帰るつもりで……大体、素性も知れぬ者を正妃にするんですか!?」
「後宮の女たちは皆奴隷として買われたのだ。出自など関係ない。そしてそなたは元は後宮の女官だ。問題あるまい。母后が望まれている。よもや否やはあるまい」
そう言われては食い下がれない。さすがのルークもこの件には口を挟む権利を持たなかった。
それにアフメトに旅券を発行してもらわねば正式な手順での帰国は叶わないのだ。しかも正妃にと望まれた今では逃げることも容易ではなくなった。
どうにか後宮行きを避けようと思考を巡らせていると、部屋の扉をノックして家令が入ってきた。
「馬車の準備が整いました」
「ご苦労。では行こうか」
この状況を打開する策は思い浮かばない。
「ルーク……」
「なんとかしてやる。待ってろ」
アフメトに引き立てられるように馬車に乗せられ、美波は再び籠の鳥となった。
◇
後宮に着き馬車を降りた美波は、アフメトから女官長に託された。呆然としたまま風呂に入れられ、側女候補らに体を磨かれ、正妃用の煌びやかな衣装を着せられた。
「ミナミ様の宮は今後建設されますので、今は側女の宮でお過ごしくださいませ」
女官長はそう言って、美波を側女用の宮の中でも一等豪華な部屋に押し込め立ち去った。
美波は広い部屋で一人立ち尽くす。
「どうしよう……」
ただの女官ならまだしも、正妃の身では出られる可能性は万に一つもないように思える。
(いっそのこと、後宮も外宮も魔法で吹き飛ばして、アラミサルから来た船に忍び込んで帰ってしまおうか)
仄暗い感情が湧き上がる。
しかしそんなことをすればミナミ・カイべは爆破犯として一生逃げ続けなければならないだろう。それでは意味がない。
それから、正妃にされてしまった以上、避けられぬ問題がある。
(するんだよね、国王の夜のお相手……。無理! 絶対嫌!! 好きでもない相手とだなんて……)
耐え難い屈辱だ。なんとしてでもこの身だけは守り抜くと固く心に誓う。
(でどうやって……眠らせる? いやいや睡眠薬なんて持ってないし、害そうものなら処刑まっしぐら……)
部屋の中をグルグル回りながら何かないかと考える。
ふと、花瓶に生けられたチューリップが目に入った。
(殿下の屋敷にもあったなぁ。チューリップっぽいけど、地球では春あたりの花だし別物? オランダのイメージが強いけど、実はトルコが原産国なんだよね)
そこではたと立ち止まる。
(アラビアンナイト……千夜一夜物語……これだ!)
美波はこの作戦に賭けることにした。
国王は早くもその日の夜に美波の部屋を訪れた。
夕方に訪れが決まってから、美波は女官長から、国王を出迎える時の作法から夜伽のことまで徹底的に教えられたが、気に入られたいなどとは微塵も思っていないので従わない。
アシルはアフメトとよく似ていた。年齢は30代半ばくらいで、アフメトを少し小柄にして気弱にしたような見た目をしていた。
彼は部屋の3人で使っても余りそうなサイズのベッドに腰掛け、美波にも座るよう促した。
「そなたの活躍、アフメトからようよう聞いた。女官の身でありながらラマダ商会の思惑を暴き、此度のスタンピードでは冒険者100人分以上の働きをしたと」
アフメトは未だに美波の素性を知らない。だからアシルも何故か戦闘のできるただの女官だと思っている。
「だがアフメトも『なぜ魔法が使えるのか』と不思議がっておった。ミナミの見た目は極東地域のそれだ。しかし我が国でもそうだが、この辺りで魔法を使えるのは王族などごく一部。なぜなのだ?」
中央大陸にルーツを持つ人間ならば庶民でも2割は魔法が使える。だが美波の見た目でアラミサル出身というには少々無理があった。だから美波は自分を物語の主人公にしてそれとなく話すことにした。それで同情を買えないかという狙いもある。
(ルークは待ってろって言った。だから信じて待つ。時間稼ぎの『千夜一夜物語作戦』決行だ)
美波を側室にと願ったのは母后であって、アシルは母后の勧めのまま話を受けたのであれば突破口もあるはずだと信じて突き進む。
「陛下、話せば長くなりますが、最後まで聞いてくださいますか?」
「あぁ、聞こう」
アシルの顔には隠しきれない好奇心が浮かぶ。美波は裏表のないこの男に好感を持った。
「それはではまず、その物語の主人公が『地球』から召喚され、アラミサルに来た日の話から__」
美波はこの日から寝物語として、この世界に来てからの日々をゆっくり語り始めた。
後宮の日々は美波にとっては退屈だった。
昼間は舞や楽器、バザンの古典文学を学び、夜は週に一度、アシルに寝物語を語った。
アシルは正妃らを平等に扱うため、月曜日は第一夫人のところへ行き、次は第二夫人と順番に訪れていた。よって美波の部屋に来るのは土曜日のみだった。そして日曜日は側女か側女候補のところに行く。
この世界に来てからの3年間は相当に濃密で、アシルと4度の夜を迎えたが話し終えてはいなかった。
そして今日は5度目の夜だった。
「先週は西部都市での連続殺人だったか。子供とて許される罪ではないな」
「えぇ、だけど子供ゆえの未熟な思考での暴走でもありました。専門家ではないので断言はできませんが、精神発達に問題があったかも」
「ミナミが語る人物には無理難題ばかり降りかかる。もし私なら耐えられぬ。……それで今夜はどのような話だ?」
ベッドで隣に座るアシルは関心を寄せて美波の話を聞いていた。
(陛下は多分私が関係を持つことを避けてるって気づいてる。それでも付き合ってくれる優しい人だ)
そしてきっと大国を一人で治めるには向いていない。
「今日はアラミサルの華やかな建国祭とその裏で起きた事件の話です」
「また事件か」
アシルは苦笑する。それから何かを思い出して膝を打った。
「そうだ、ミナミの故郷から来た友好使節団と明後日に謁見と昼食会の予定があってな。先方がミナミを通訳にと強く希望している。それにしても、本来後宮の内情など外に漏れるものではないのだが……」
美波は確信する。
(ルークだ……)
体がジワリと温かくなる。
美波は命運をその使節団に託した。
使節団との昼食会の日は朝から慌しかった。
女官長からいつも以上に煌びやかな衣装を与えられ、側女候補の手によって髪も豪奢に結い上げられた。
準備が整えば、女官長の案内で国王の住む宮へ行き、そこから外宮の表の館の2階に繋がる廊下を渡った。この廊下は普段、国王や王族しか使うことが許されていない場所だ。
廊下の先には2つの部屋があった。
(確か表の館の2階には国王の執務室と広間があるって最初に聞いたっけ)
美波は手前の部屋を通り過ぎ、奥の部屋に通された。中にはすでにアラミサルからの使節団が座っていた。
美波はその見知った顔ぶれに泣きそうになる。
(ムーア、それに財務部や文部の一緒に仕事をした人たちだ。それにルークも……)
しかしこの場にはバザンの給仕や大臣らも集まりつつあった。後宮の奴隷が他国の使節と知人というのは不自然だ。ここで泣いては不審に思われる。
美波は高ぶる感情をグッと抑え込んで、円卓に用意されていた自席についた。席はアシルの左隣で逆側には使節団代表のムーアが座っている。
「陛下、ご無事でなによりです」
ムーアが美波にだけ聞こえるように囁いた。
「心配かけてごめんなさい。……ありがとう。それにしてもどうしてここに?」
「アラミサルからブンガラヤに捜索隊が出され、隊に加わっていたフォスター師団長が陛下がワンピースに残したメッセージを発見しました。そこですぐにこの国に向けて友好使節団として救出隊が派遣されたのです」
美波は口元で扇を広げ、ムーアはお茶のカップに口をつけるふりをして話す唇の動きを見られないようにする。
(あのワンピース、ちゃんと見つけてくれたんだ。ダニエル……)
自分はつくづく優秀な人たちに囲まれて恵まれていると思う。
「ただ、入国してすぐにバザンが宣戦布告したために謁見が叶わなくなり、王都で足止めされていたのです。けれど1週間前にブンガラヤに停戦を申し入れたので、この場を持てたのです」
だから後宮に召し上げられて1カ月という早さで、この朝食会まで漕ぎつけられたのだと美波は得心がいった。
「バザンとの海戦でアラミサルの被害は?」
「伝書鳩での連絡では、我が国が参戦する前にバザン軍が引き上げたそうです」
その話は美波を心底安堵させた。
「巻き込まれなくてよかった……!」
「ご心痛お察しします。ずっとお顔の色が優れないようでしたので」
(そういえば、このところずっと神経を張り詰めさせていた気がする)
話している間に大臣らは全員集まっており、最後にアシルが現れた。全員が立ち上がって迎え、場がピリッと緊張感を帯びる。
「皆の者、楽に。アラミサルの方々も我が国の食事を楽しんでくれ」
アシルの宣言で昼食会が始まった。
「スタンピードへの対応に、大量の武具が必要だったのでな。貴国から格別に安く鉄鋼や魔物素材を譲って貰えて助かった。礼を言う」
美波はアシルの言葉をムーアに通訳する。
『災害時に助けの手を差し伸べるのは我らの陛下の方針ですので』
今度はムーアの言葉をアシルに伝えながら、胸が熱くなる。
(私だったらどうするか考えて動いてくれたんだ。単に花を持たせてくれただけかもしれないけど)
「そうか、ぜひ感謝の言葉を伝えてくれ」
『はい、必ず。それで、この友好使節団にはもう一つの目的がありまして』
「なんだ?」
『実はお恥ずかしい話なのですが、国内で主に女性の連れ去りが発生しまして、その被害者が貴国の後宮にいるということで、どうにかお返しいただけないかという次第でございます』
アシルはふむと考える素振りを見せる。
「我が国は後宮内の女たちに前金を払って拘束するが、本人の意思に基づかぬものは本意ではない。その者の名は?」
各国から奴隷商によって連れてこられた人を買っているのは主導陣も知るところだが、建前では違うらしい。
『3人は帰国し、1人は帰国を希望しておりません。残るは1人、ミナミ・カイベです』
通訳をしながら自分の名前が出てドキリとする。隣ではアシルも驚き目を見張っていた。
「ミナミがアラミサル出身……。事情は分かった。しかしミナミを返すわけにはいかん。彼女は第六夫人の正妃、私の妻だ」
そもそも、女官だったハンナたちが解放されたのもアフメトの尽力によるもので例外的だった。それが正妃であればなおのことだ。
「前例がないことを承知で申し上げる。彼女と離婚を」
ルークが聖王国語できっぱりと言い切った。
彼の言葉にその場にざわめきが広がる。
「前代未聞だ」
「他国の使節ごときが口を出すなど礼を失している!」
大臣らから非難の声が上がる。
「それはできぬ。後宮から妃が出されるのは王が死んだ時のみ。離婚の正当な理由もない」
『我が国はこの度の貴国とブンガラヤの戦争で終戦を取りなす用意があります』
美波を介して話を聞いていたムーアが提案を切り出した。
『今後の賠償金交渉でお役に立てるかと』
それはバザンにとっては垂涎ものの提案だった。今回の戦争費用、スタンピードへの対応、そして国債の買い取りと必要な支出は莫大だからだ。賠償金額を減らせれば少しは負担が軽くなる。
「それはありがたい申し出だがな。決まりには背けぬ。一度壊された伝統は元には戻らぬからな」
大臣らもそれに同調する。一方で、神によって召喚された国王によって治められるアラミサルの民は、伝統より実利を重んじるため理解できないといった顔をする。
伝統は大切。それは日本人的にも美波は理解するところだが、一つ引っかかることがあった。
「しかし国庫の蓄えに対して支出が多くなりすぎるのではないですか? その負担は国民がかぶることになります」
「通訳の妃が口を挟むな!」
大臣の怒声に、国王を侮辱されたと感じたアラミサルの面々が不快感をあらわにする。
そして美波も口を噤まされて従う性格ではない。
「伝統、そりゃ大事でしょう。ただし王宮の伝統なんて国民には関係ない。今回の支出をあなたたち大臣や富裕層が払うなら好きにすればいい」
美波らしい物言いにアラミサル陣は満足げに頷き、バザン陣営は呆気に取られ言葉も出ない。
「……ミナミの言うことも一理ある。しかし妃には生涯後宮に住まい、王室の秘密や血筋を外に漏らさぬようにしてもらわねばならぬのだ」
そして権力者の枕元には絶えず間諜や暗殺の危険がある。それを排除するためにも閉じられた後宮は道理的なシステムだった。
(どうしよう……ここまで言われたら反論の余地がない……)
美波は隣に座るムーア、そして左斜め前のルークを見る。
「離婚の要件は客観的な正当性だったか。ミナミ、どうだ?」
急に話を振られて驚くが、必死に考える。
「えぇっと、正当性ってなんだ? 暴力なんてないし、経済的に不自由もない、後宮で浮気もなにもないし。……あとは性的な問題? 知らないよ!」
もう投げやりだった。
「……陛下、まだ第六夫人と関係を持っていないので……?」
アシルの右隣に座る大臣が小声で尋ねる。
「色々あってな。だが問題はあるまい?」
「えぇ、そうですが……」
しかしルークには考えがあるようだった。
「だったらこの結婚自体無効だ」
彼はそう言い放つ。
「どういうこと?」
美波にはルークの言う意味が分からなかった。
「関係を持っていないならバザン国王との婚姻は無効だ。それにミナミ、国王との婚姻関係の書類にサインしたのか?」
「してないけど……」
「我が国では妃は全員奴隷として買った女たちだ。売買が成立した時点で婚姻成立とみなしている。港の役所で保管されている売買契約書類が婚姻契約書の代わりだ」
文句をつけられているバザン側の大臣が苛立ちを隠さず説明する。
(港の役所……。海賊のレオンに連れられて行った場所だ。でも待って、あの時私は雑役奴隷として売られてる!)
「だったらやっぱりこの婚姻は成立していません。私は最初、男のフリをして雑役奴隷として売られましたから」
「なんだと!?」
「どういうことだ!!」
大臣らが色めき立つ。
「ミナミ、どういうことか説明してくれ」
「元々私はアラミサルから誘拐された人がバザンの王宮にいる可能性があると知ってこの国に来ました。だけど捜索のためとはいえ後宮に入ってしまったら二度と出て来られない。だから性別を偽り雑役奴隷として買われ、その後、被害者救出のため後宮に潜入したんです」
美波の言葉にバザン陣営が騒然となった。
「こんなこと、ありえぬぞ!」
「この者は後宮侵入罪で処刑すべきです!」
口々にアシルに詰め寄る。
「ミナミ、なぜたかが数人のためにここまでのことをしたのだ?」
アシルの疑問に美波は迷うことなく答えた。
「一人の国民も見捨てない。言うのは簡単だけど実行するのはとても難しい。けどアラミサルはそういう国でありたいから」
特別な能力を持たない美波は、悩みや困難にぶつかりながらも、ただ信念だけを持って突き進んできた。
「……処刑などできぬ」
「陛下!!」
「後宮に忍び込まれていたなど、王室の恥だ。私に第六夫人はいない。後宮にはミナミ・カイベという女はいなかった。皆の者、よいな?」
「……はい陛下」
大臣らの中には不承不承といった表情の者もいたが、この場で反論する者はいなかった。
アシルは一つ頷き立ち上がる。全員がそれに倣い礼を取り、彼の退室を見送った。
(優しい王様、あの物語の主人公が私だと見抜いて、それでいて誰に言うでもなく、哀れに思って逃がしてくれた)
アラミサル側から美波の解放を請われた時から、アシルは突っぱねる気はなかったに違いない。でなければ、こんな強引な説得は通用しなかったはずだ。しかし国王としても、大臣もいる手前すぐ受け入れることはできなかった。だからアラミサル側から説得を受けてという体面を作った。
それにこの後宮において、美波が絶対にいなければならない理由もない。母后が側室にと願ったのは、褒美の意味もあるがアシルと美波の間に子が生まれれば大きな魔力を持つ王族が増えることを狙ってのことだと思われた。しかし異世界である美波の子に遺伝するかは未知数だ。美波の来歴を知った彼はそこも勘案し、どう説明するのかは分からないが母后に美波解放を説得する材料にするのだろう。
兎にも角にも、残ったアラミサル陣営はゆっくりと顔を見合わせ、そして喜びを爆発させた。
「やりました!! やりましたよ陛下!!」
「これで帰国できます! よかった!」
「一時はもうダメかと。さすがルーク殿、この国の婚姻制度の盲点を突くとは」
「この国の歴史から慣習、制度。使節団が集めてた資料は片っ端から読んだ。何か付け入る隙がないかと思ってな。とはいえ剛腕すぎる論法だったが、向こうが引いてくれて助かった」
結婚を無効にするには2つのポイントがあった。1つは売買契約書がないこと。もう1つは国王と関係を持っていないことだった。契約書があろうがなかろうが、王の子を宿した可能性があっては二度と後宮の外には出られない。
ただ最後の決め手になったのは、やはりアラミサル陣営の熱意と国王の善意だろう。
「ありがとう、皆。……本当に」
「おかえりなさい、陛下」
ムーアの微笑みに美波の涙腺はついに決壊した。
「さっさと帰んぞ」
傍に来たルークが座ったままの美波を抱き寄せた。彼のつけた香水のシトラスやゼターの香りが鼻腔を満たす。
アラミサルではつけない香水。彼がここに来るまでにしてくれた数々のことを思って美波は胸がいっぱいになった。




