78 王族の男
後宮に入って1週間。美波は指導係のハンナや彼女の指導係していた16歳の少女シャロンに仕事を教えてもらいながら、この国の言葉__は学ぶふりだが__や後宮についてを学んだ。
この国では男性は複数人の妻を持つことができる。だから後宮にも複数人の正妃がいて、慣習的に5人と決まっていた。そして教義のより妻は全員平等に扱わねばならない。後宮では行われないが、庶民が離婚する場合、客観的に正当な理由が必要とされている。
美波の頼みを聞いてくれたシャロンが同郷の人間を探した結果、誘拐被害者の女性は指導係2人の他に、シャロンとともに連れてこられ側女候補となったジュリアと、彼女の同室のローラがいることが判明した。
(これでレアットの貧窮院から連れ去られ、行方の分からなかった3人全員を発見できた。あとはここを出るだけ……ってそれが一番難しいんだけど)
まだ数多くある問題の一つをクリアしただけだった。
◇
今日は7日に1回割り当てられた休息日である。貴重な自由時間を使って後宮内を散策し、外へ出る方法を探さねばならない。
勤務日に立ち寄るのは持ち場である炊事場と食事のために行く厨房に併設された食堂、そして下働きの女官たちの部屋がある宿所くらいで、それ以外の場所には行く機会がなかった。なので今日は後宮内の詳細な地図を把握しながら後宮内を探ろうと考えていた。
後宮内の各宮の配置は指導係の2人に聞いて大体把握している。後宮は外宮に近い場所に厨房や炊事場など身分の低い者が働く場所があり、その奥に側女の宮、さらに奥に夫人らの宮と国王の宮があるのだそうだ。
(どこかに抜け道がないか、まずは探してみないと)
そう思い後宮の外周部の調査から始め、側女の住まう3つの宮や第一夫人から第五夫人にそれぞれ与えられた5つの宮を、自分に認識阻害の魔法をかけ、休日を3回使って調べて回った。
高い壁に囲まれた外周部に抜け道などはなく、警備を担当する宦官はまばらにいる程度ではあるものの、身体強化でこの壁と外宮と外を仕切る壁を乗り越え脱出できたとしても、旅券を持っていない5人が船に乗ってアラミサルに帰る方法がない。そして予想通り夫人らの宮は人の目が多く、場違いな洗濯場の下働きの女官姿では近づくことはできなかった。
(駄目だ。ここに来てもうすぐ1カ月なのに、4人をここから出して帰国させる方法が全く思い浮かばない……)
第一夫人の宮で見咎められ追い払われた美波は脱出の糸口が掴めず焦り始めていた。このまま『気づけば一生をここで終えていた』なんてことになるのではとマイナスな思考に陥る。
宿所に帰る気分にもなれず、また帰ったところで誰かと喋るか、女官の間で回し読みされている流行りの恋愛小説を読むくらいしかすることがないので、美波は調査を散歩に切り替えて人気のない方へと歩いて行くことにした。
第一夫人の宮から外周の方へ歩くと、あまり整備されていない木立に行き当たった。美波はその中へと歩みを進める。
季節はもう8月も半ば。砂漠の国の気温は高く、昼間に外を歩いていると汗ばみ、日に焼けてしまう。日焼け対策の魔法は常日頃から使っているが、今はさらに暑さを凌ぐため氷を出そうとして、湿気のないこの国では水を発生させる魔法の行使が難しいことに気づいた。立ち止まって集中して生成できたのは一口サイズの氷たった一つ。それを口に含みまた歩く。
少しすると視界が開け、周囲を花々で彩られた綺麗な池が見えた。池のほとりまで来ると向こう岸の木立の奥に朽ちた建物も見えた。
「誰だ?」
まさか人がいるとは思わず警戒を怠っていた美波は飛び跳ねんばかりに驚き、声の主を探す。その人は草花で覆われるようにほとりで寝転んでいた。
(男!?)
後宮でまず会うはずのない宦官ではない男。つまりは王族だ。
歳の頃は二十代前半くらいに見え、褐色の肌にプラチナブロンドの髪、ルビーのような瞳を持っている。
「失礼致しました! すぐにお暇いたします」
この国での王族の権力がどれほどのものかは知らないが、無礼を働いたと処罰されてはたまらない。美波はすぐに退散しようとする。しかし男がそれを押し留めた。
「私は気にしない。好きに過ごせ」
こう言われては帰るに帰れない。美波は木陰のある水辺に腰を下ろした。
周りを木々に囲まれていることもあり、吹き抜ける風が心地いい。ここだけ気温が数度低い気がする。その風に乗って男のつけている瑞々しい香りの香水が鼻口をくすぐった。
「その衣は、炊事場の女官か?」
「えぇ、そうです」
話しかけられ、またもや驚いたが無難な返答をする。
「ここで誰かと会ったのは初めてだ」
「お邪魔いたしまして……」
「退屈しのぎに誰かと話すのも悪くない。そなた出身は?」
「アラミサルです」
仰向けで寝ていた男は、ごろりと体を美波の方に向ける。
「見た目は極東地域あたりの出に見えるが」
「親がそちらの人間だったのでしょう。孤児院育ちで顔も知りませんが」
美波はバザンでの設定を喋る。
「アラミサルか。中央大陸で、いや世界で一番豊かな国と言われている……。どんな国だ?」
「どんな、ですか……私はいい国だと思います。周辺国と比較して貧困率や犯罪率は低く、経済は安定して成長しています。魔石の輸入で便利な生活ができ、教育や福祉制度は世界で最も充実していると自負できますし、それに建国から500年もの間、他国に戦争を仕掛けたことはなく、国境での小競り合いはあっても領土を奪われたこともない。平和で暮らしやすいと思います」
美波は執務と勉強で得た情報を所感を交えながら話した。
「それが神が国王を選定する唯一の国、アラミサル王国か。……それにしてもそなた。教育係のようにつらつらと説明するではないか。よほど高等な教育を受けねばそのような回答はできぬぞ。なぜ下働きなどしておる」
つい滔々とお国自慢をしてしまい、慌てて言い訳を考える。
「ここに来たときはあまり言葉が分からなかったのと、年齢が31ですので」
ハンナやシャロンに教えられ知った後宮の慣習として、側女候補になるには15歳以上29歳以下という条件があるのだという。つまり言葉が分からないふりをする必要はなかったのだ。もっとも、年齢を証明する物などは持っていないので、万が一を避けるためには有効な方法だった。
「なるほど。しかし惜しいな。そなたほどの教養があれば陛下もきっと気に入ったはずだ」
「私など自国のことに多少詳しいだけで、詩を吟じることもできなければ、踊りも歌も楽器もできませんので」
美波は念には念を入れて王族と関わる可能性を潰しておく。
「それならば側女候補になってから学ぶ者も多かったと思うが……まぁよい」
男は立ち上がって、これまでのつまらなさそうな表情からわずかに笑みを浮かべた。
「よい退屈しのぎになった。そなたにはまたここに来ることを許可する」
(これはまたここで話し相手になれってことね)
王族の言葉を文字通り受け取ってはいけない。仕える側の人間はその奥の意味まで察する必要がある。
「身に余る光栄です」
男は一つ頷いで去っていった。
美波は立ち上がってその背を見送り、男が見えなくなったところでズルズルと座り込んで、そのまま倒れ込む。
「脱出どころか、本当に一生ここに囚われたままなんじゃ……」
美波は長い長いため息を吐いた。
この夜、美波はハンナとシャロンの部屋を訪ねていた。
「私はアラミサルから連れ去られた女性を探すためにここに来たの」
美波は指導係の2人とある程度関係性を築けたと判断して、自分の目的を話すことにした。
「どういうことですか?」
シャロンが疑わしいものを見る目で美波を見た。
「実は国内で人身売買組織による連れ去りが発覚してから政府も色々と動いていて、私は国外に連れ去られた被害者の早期帰国を実現させようと設立された対策チームのメンバーなの」
本当のところは、ブンガラヤで海賊に拉致されバザンに売られることになったことで、アラミサルでの被害者も同様なのではないかと気づいたわけだが、そこは伏せておく。
「私は後宮に潜入して本国と連絡を取るために来た」
「私たちと接触するためだけに後宮に入ってくるなんて……信じられないような話だけど、騙したってあなたにメリットはなさそうだし……」
その説明で2人はとりあえず納得したようだった。美波はひとまず安堵する。
「まずはこの3人でアラミサルから連れてこられた人の正確な人数を把握しましょう」
「分かったわ」
数日の調査で、後宮にはハンナとシャロンの他に、側女候補としてジュリアとローラという女性がいることが判明した。
アラミサル出身の2人が聖王国語を話せたのかと疑問に思いシャロンに聞くと、特に容姿の優れた女性ならばあり得るということだった。
シャロンから2人に帰国の可能性を話したところ、側女候補の一人、ローラはアラミサルに家族もなく帰ったところでまたゼロから生活を始めねばならないのは嫌だと帰国を断った。『ここで王様の子を産んで成り上がってやる!』と意気込んでいるという。
美波はその情報を手紙に書き記し、宰相宛てに送った。
後宮の女らから主に実家へと送られる手紙は検閲が入るため、『同郷の仲間が3人いました』と家族に伝えるような内容にした。宰相にはこれで分かるだろう。
(あとはここから出る方法をひらめいてくれたらいいんだけど……)
困った時の宰相頼みである。