73 航海長の日誌
ドレ・ミラージュ号の日誌
航海長 ロジェ・マーシャル
4月11日 北西からの弱い風 平均速度10ノット
ラ・ロシェット港を出発
元々奴隷船ではないこの船で、ミナミ・カイベの住居スペースをどこにするのか、船長は悩んだ末に上級水夫用の一室を与えた。船で女はミナミ・カイベしかいない。平水夫と生活を共にさせるとトラブルになることは目に見えている。よって隔離することにした。そして我が船長は商品といえども船に無駄飯食らいを置いてはおかない。ミナミ・カイベには船の家畜の世話係をさせることにした。
出港して数時間後の深夜近い時間。壊さんばかりの勢いでバンと美波の船室の扉が開かれた。
「お前、ロジェを口車に乗せて勝手に服なんか買いやがって!」
ベッドの上で徐々に強まる船酔いにぐったりしていた美波だったが、心臓が飛び出るかと思うほど驚き体を起こした。
「着替えが必要だったので」
しれっと言い返す。
「普通奴隷は着替えなんて持たねぇんだよ!」
「元国王の奴隷なんて普通はいませんからね」
ああ言えばこう言う美波にレオンはイライラと髪をかき乱した。
「ああー!! やっぱ殺しとくんだったか!? クソッ、二度と勝手なマネすんじゃねぇぞ!」
レオンは吐き捨てて、バタンとまたしても扉を壊さんばかりの勢いで部屋を出ていった。
相手は海賊船の船長だ。暴力を振るわれる覚悟もしていたが、幸いそれはなかった。
美波は再びベッドに転がって、船の揺れに身を任せた。
◇
4月13日 南西からの強い風 平均速度15ノット
ミナミ・カイベの船酔いは治らず使い物にならない。あまり不健康そうに見えるとバザン王宮はあれを買わないかもしれない。それでは困るが、まだ出港したばかりだ。じきに慣れるだろう。
船の上では水も食い物も、船長であっても自由にはできない。割り当ても多くない。今日の配給はビスケット500グラム、リンゴ1個、野菜類と肉が400グラムずつで、贅沢に慣れた陸者には我慢できないだろうと思っていたが、食糧事情にも狭苦しい船室や制限される行動にも何一つ文句を言う様子がない。
お頭は俺にだけミナミ・カイベがアラミサルの女王だと話してくれた。あんなそこら辺にいそうな女が王だというのは信じがたいが、お頭が言うのならそうなのだろう。
そもそも今回の仕事には謎が多い。お頭は船の出資者であるシャヴァネル公爵からの仕事だから断れないと言っていたが、話も急過ぎた。仕事の話を受けた次の日には動かなくちゃならなかった。それに元々俺たちは奴隷売買には関わっていないし、仕事場は陸ではなく海の上だ。船員の多くは馬にも乗れないから今回の仕事では公爵が用意した人間を使うことになった。そいつらの多くはミナミ・カイベの連れが殺しまくってたから仲間をほとんど連れて行かなかったのは正解だったが。
ともかくこんな仕事はとっとと終わらせて、自由に仕事がしたいもんだ。
◇
4月18日 嵐 操舵不能
こんな揺れの中で文字が書けるか!
一定間隔で突き落とされるような縦揺れと、歩くことさえままならない横揺れがもう何時間も続いている。嵐では帆を畳むしかなく、船はただ流されるままになるしかない。美波には無事に東方大陸に着けるのかさえ疑わしく思えた。
(これいつまで続くの!? っていうか沈まないよね!?)
不安になった美波は船室を出て階段を上り甲板に出ようとする。まともに歩くことは困難で、体をあちこちの壁にぶつけるが、それよりももとにかく誰かに状況を確認したい気持ちが勝る。船室を出た先にある階段を、縦揺れで転げ落ちそうになりながら一段ずつ足をかけ甲板の入り口まで辿り着き、ハッチを押し上げる。すると出ていくのを躊躇わせるほどの激しい雨音と吹き込む雨風に美波は呆気にとられた。
「なっ、なにこの雨……」
外はまともに視界さえも確保できないほどの激しい嵐だった。
「お前っ、邪魔だ! 出てくんな!!」
船尾側のハッチから頭だけ出した美波は、ちょうど船の中央部に立っていたレオンに怒鳴られる。
「この嵐いつまで続くの!? 何か手伝えることは?」
「これはただの嵐じゃねぇ! シーモンクがこの海域で暴れてやがんだ!!」
それは新兵訓練の座学で聞き覚えがあった。
海に生息する巨大な魔物で、エイリアンのような顔にイカやタコのような手足を持つ。とにかくその大きさが厄介で、運悪く遭遇してしまった場合は大砲での集中砲火か魔法で倒すしかない。だが__
「ここまで酷い嵐じゃ大砲も使えないんじゃ」
「だから見ての通りなす術もなく波に遊ばれてんだろうが!」
くだらない質問をするなと今にも殴りかかられそうな勢いだ。
「クソッ、奴さん姿ァ現しやがった!!」
レオンは美波越しにシーモンクの姿を視認した。
シーモンクは最初は頭、次に何本もの腕を海面から出し振り回す。そのどれか一本でもマストに当たれば大破し、船体に当たれば風穴が開き沈没は免れないだろう。
「こりゃマジで嵐がマシになるより船が沈む方が早いかもな……。ついでに教えてやるよ、船乗りが付けたシーモンクの別名は『海賊を改心させる魔物』だ。どうか無事に切り抜けられるようにってこれまでの行いを懺悔させるからだ」
口調だけはどこか余裕を感じさせる。それは彼が船長という乗組員全員の命を預かる立場だからだろう。美波はレオンの冷静さに助けられて対処を考える。
「船長、私の首輪を外して。私が魔法で狩るから」
美波は階段を全て上りレオンの隣に立つ。
「本気か!? 1人でアレをなんとか出来んのか?」
彼は雨でぐっしょりと濡れた長髪を掻き上げる。
「なんとか出来なきゃあなた達と心中する羽目になるだけじゃない!」
「確かにな。……分かった。外してやるから死んでもアレをぶち殺せ」
レオンが美波につけられた首輪の繋ぎ目に指をかけるとカシャリと外れる。
首や肩周りが軽くなり解放感を感じるも、今は喜んでいる場合ではなく、すぐにでも倒す方策を考えねばならない。
(火球も水球も水場にいる魔物とは相性最悪だし使えない。あぁ! 使い慣れた魔法が使えないなんて!)
美波は一昨年ゾルバダ城に乗り込んだ時、使える魔法の少なさに気づき、その後公務の合間に少しずつ練習していた。しかし新たに使えるようになった魔法は、対人戦を想定した人の動きを縛る魔法『レスト』や電撃を発す『ラディウス』の2つのみ。
(レストは論外だし、電撃なんて使ったらこっちにまで被害があるかも。つっ、使えないー!)
国王になってまで高レベルの魔物との戦闘が待っているとは露にも思わなかったが、後悔していても魔物の巨大な腕で薙ぎ倒されて死ぬだけである。
(私が使える魔法の中で効きそうなのは水系しかない。こうなったら水球を最大出力で魔力が切れるまで打ち続ける……? いや、ちょっと待って。それなら__)
目を開けているのも困難な風雨の中で、美波は両足を踏ん張って揺れに耐え、右手に魔力を集めて最大出力で鋭い水流を放った。
「いけぇぇ!!」
手のひらから放たれたそれは、まるでウォーターカッターのようにシーモンクの腕を切り落とす。
本体から切り離された数本の腕は運良く甲板ではなく海の中へと落ちてゆく。
「マジでやりやがった……! けど、あの腕が1本でも船の上に落ちてたら今頃俺らは海の藻屑だぞ! 次はもっと上手くやれ!!」
レオンが素直ではない言葉で称賛する。
美波が頷き、再び手のひらに魔力集め始めたところに舷縁を乗り越え巨大な波が押し寄せ甲板の上をさらい、美波はそれに飲み込まれ反対側の舷縁に叩きつけられた。
「っ!! うぅ……ぐっ」
全身を激しく打ち呼吸もままならない。美波はずぶ濡れで甲板に転がり痛みに呻く。
「……っはっ、おい生きてるか?」
波に飲まれる寸前に船尾側上方の操舵部へと繋がる階段の手すりにしがみつき耐えたレオンが雑な動作で、海水を吸って重くなった服と打撲の痛みのせいで上手く動けない美波を引っ張って立たせ、船体中央のメインマストの方へ連れて行く。
「こっちはお前に死なれたら終わりなんだ。しっかりしろ!」
レオンは美波をマストの側に立たせ、腰に結んでいたロープで自分と美波をマストに固定する。
「何を、勝手なっ……! あんたらが私を攫ってこんなとこまで連れてこなければこんなことには__って何してんの!?」
「海に落ちたくなけりゃ黙ってろ!」
言われて改めて周りを見れば、持ち場を離れられない水夫らが同じようにマストに体を固定して波に耐えていた。生きるか死ぬかの凄惨な状況に思考ががかえって冷静になる。
(こんなところで海賊と心中なんて絶対嫌!)
強かにぶつけた後頭部や背中、腕が痛い。腹に巻き付けられたロープが揺れに合わせて内臓を圧迫され吐きそうだ。波に揉まれ船が大きく左右に揺れ動き転覆するのではないかと考えれば怖くて脚が震えそうだ。しかしそれらの感情は意識しないようにし切り離して、魔法を使うことだけに集中する。
右手に持てる限りの魔力を集め限界まで圧縮する。そのエネルギーが逆流してきそうになる寸前で外へと向かって開放した。
「当たれぇぇぇぇ!!」
鋭い水の刃がシーモンクの頭と胴の間を閃光のように駆け抜けた。それと当時にシーモンクと同じサイズの水球を放ち、魔物が倒れる方向を調整して船への影響を最小限にする。
「……やった、やりやがった……! マジかよ……。護衛の海軍なんざ連れてない海賊船がシーモンクに出会って生き残れるなんてな!」
レオンはこれまで見たことのない喜色満面な顔で自分と美波を縛っていた縄を解き、美波の肩を抱いてバシバシ叩く。叩かれた美波は体勢を崩しぐらりとレオンの方に倒れ込んだ。
「おっおい! なんだってんだ!?」
全く力の入っていない美波の体をレオンが小脇に抱えて支える。顔色や呼吸状態から体に異常はなさそうで、レオンは緊張から解放されて失神したのだろうと納得する。
しかし本当はそうではない。美波は魔力切れを起こしたのだ。
◇
4月20日 晴れ 東からの風 平均速度5ノット
シーモンクの襲撃から2日。船酔いが再発することもなく、美波はレオンに任された仕事を全うしていた。
「今日もメー子とメー美は元気だなぁ」
船首甲板で羊2頭を放し飼いにして運動をさせる。美波の仕事は船倉にある飼育スペースの掃除とそこにいる羊や鶏の世話だ。
レオンは最初、水夫らとの接触を避けるため船尾甲板での放牧のみを許可していたが、水夫と顔を合わせるなとは言っておかなかったため、美波が持ち前の好奇心を発揮して勝手に船内を探索し水夫らと交流し、なし崩し的に船尾よりも広い船首での放牧を許すことになった。
「ミナミちゃん、名前なんかつけるとあとでツレェぞ?」
ははっと笑いながら茶化したのは水夫の中でも美波と歳が近い男だった。
「つらいって、なんで?」
「なんでって。えっ知らねぇ? そいつら航海の最後の方で食料に困ったら食うんだぜ?」
「うそ!?」
思わず見た羊たちはのんきに甲板をトテトテ歩いている。この子たちが食べられてしまうなんて、と美波はショックを受けた。
「やっぱ知らなかったのか。そういうわけだから、あんま情移すなよー」
そう言って男は持ち場へと戻っていった。
「いやもう遅いかも……」
名付けてまでしてしまった今では、少なくとも自分で手にかけることは到底できそうになかった。
◇
5月18日 南西からの風 平均速度14ノット
嵐とその後の凪のせいで航海日数は予定より伸びている。常ならそろそろ船内がピリピリしだすところだが今回は別だ。
ミナミ・カイベの魔法のおかげで、航海開始から1カ月が経っても食料が腐っていないからだ。彼女が食料の入った木箱に魔法で作った氷を定期的に入れてくれている。航海も長くなってくると毎度腐った水や食べ物を食べざるを得ないが、今回だけは免れそうだ。慣れているとはいえ避けられるなら避けたい。
腐った物は食べなくて済むし、水にも困らない。
あいつずっとこの船に乗っててくれないだろうか……。
展帆や檣楼での見張りなどはさせられないが、食事の準備や放牧などまじめに仕事をするし、気難しくもない。水夫たちが彼女と話す姿もよく見る。
バザンの王宮に行くことは避けられないだろうから、せめてつらくなければいいと願うばかりだ。
◇
今日の放牧を終えた美波は船尾甲板にいたレオンに話しかけた。
「バザンまであとどのくらいですか?」
船の速度から推測できないため、船長か航海長に尋ねるしかない。しかしずっと気にはなっていたものの、彼らは部屋にいる時間も多く聞けずにいた。部屋を訪ねられるほど友好関係を築いてもいなかった。
「あと1週間以内ってとこだな」
レオンは本来面倒見のいい性格なのだろう。美波はこの1カ月間、あまり遠慮せず気になったことは聞いてきた。
「どうして今いる場所が分かるんですか? GPSもないのに」
「ジーピー? ここらには目印になるもんがないから、太陽とこの船の角度を測って、コンパスで方位を確認しながら航海すんだ」
レオンはさらにクロノメーターや天測暦の説明を始めたが、難しく理解しきれなかった。
「えぇっとなんとなく分かりました……?」
「分かってねぇな」
見抜かれた美波は苦笑う。
レオンは舌打ちをして、仕事の邪魔だと言わんばかりにシッシと手で追い払らった。
「アンタ、国王やってたわりには物を知らないんだな」
レオンの隣にいたロジェが口を挟む。
「世界にはゾルバダの皇帝のように頭が切れて国を引っ張っていく王様もいるんですけど、私は優秀な人たちに支えてもらって国王をやっていました。私の仕事は皆が働きやすいように整えることでしたね」
「何も知らないくせに上からあれこれと指示してくるよりかは下で働いてる人間もやりやすいかもな」
「そうなってたら嬉しいですね」
「そんな女王を失ってアラミサルには不幸だったな。っと、そろそろ現在地を計測する時間だな。暇なら帆の修繕でも手伝ってやってくれ」
ロジェはズボンから懐中時計を取り出して時間を確認した。
「あれ? この場所の正しい時間なんて分かるんですか?」
「いいや、懐中時計では時間経過を確認するくらいしか使えん」
「やっぱりそうなんですね。あーあ、帆って布が分厚いから縫ってたらすぐ指が痛くなっちゃうんだよねぇ。針も太くて怖いし」
そういったわけで、あまり好きな作業ではなく、行き渋る。
「いいからさっさと行け!」
しかし問答無用でレオンにどやされた美波は船首甲板へ向かう。揺れる甲板をふらつかずに歩くことにも慣れた。
帆船にはちょうどいい強い風を顔に受けて、ふと立ち止まった。
美波はこの1カ月で随分この海賊たちと親しくなった、いや、なってしまったと言うべきか。
(最初は憎くてしょうがなかったのに、一緒に生活してたら彼らの人となりとかが見えてきて、そうしたらやっぱり良い部分とかもあって、憎みきれなくなっちゃったなぁ)
彼らは海賊。人の物を奪い時には殺す男たちで、その被害にあった者やその遺族は彼らを許しはしないだろう。美波とて許してはいない。けれど彼らも故郷にいた頃、同じように誰かに虐げられた者たちなのだ。
(結局、加害者を知ることって嫌でも擁護に繋がっちゃうんだよね)
加害行為にのみ焦点を当てれば一点の曇りもなく非難できただろう。もしくは被害者の視点のみを切り取れば。現代の事件報道でもマスコミが被害者や遺族に発言を求めるのはそのためだ。
美波の内心も非難と擁護の狭間で揺れていた。




