62 船に乗り外国へ行こう
美波が窓から入る柔らかい日差しを感じて、凝り固まった体をほぐすため伸びをした。
「もうすぐ春だねぇ。日本人的にはお花見といきたいところだけど、アラミサルには桜がないからちょっと物足りないなぁ」
執務室で机に向かいながら、斜め向かいで同じく執務に励んでいる宰相に話しかけた。
「サクラですか……確か東のブンガラヤ王国に、東方大陸から輸入して植樹した木があると聞いたことがあります」
宰相は書類から目を離さずに答える。
ブンガラヤ王国とは、カディス帝国よりも東にある海に面した国で、100年ほど前にカディスから独立して今の国となった。
「へぇ、桜の植樹って難しいのにすごいなぁ。……ねぇ宰相〜、私まだ年末年始休暇も取れてないんだよね」
美波が急に猫撫で声になった。
「なっなんですか急に」
宰相は怪訝な顔で書類から顔を上げて美波を見た。
「頑張ってる私に休暇をください!」
「うっ、そんな目で見ないでくださいよ。……分かりました、1週間くらい休みが取れるように調整してみます」
「やった! じゃあもうちょっと頑張って3週間ちょうだい!」
「3週間!?」
宰相は驚いた声で聞き返すが、美波のキラキラした瞳の圧に負けて、善処すると答えた。
「陛下、3週間も休みが取れたとして、何をするんです?」
「ブンガラヤに桜を見に行こうかなと思って」
「ブンガラヤ!? いけません! 国王が他国に出るとなるとどれだけの人員と準備が必要になるとお思いですか?」
宰相の言うとおりで、外国訪問ともなれば、侍女に護衛騎士らを伴って行くことになり、そうなれば馬車の手配や宿の手配など多くの準備作業が必要になってくる。少人数での移動など、ゾルバダへの潜入はなし崩し的に許可が出たが、国王を警護もなしに国外に出すなど危険なことを宰相は許可しない。しかし、出来るだけ美波の希望を叶えようとする彼は代案を出した。
「そういえば、ブンガラヤから会談の申し込みがありましたよね。そのついでに少し観光するというのであれば可能かもしれません」
美波はその案に飛びついた。
「あーそうだったね。いいじゃん! じゃあそうしよう! それで会談の内容は?」
「同盟の申し入れです。ブンガラヤもカディスの軍備増強の情報を得て、警戒を強めているのでしょう」
カディスから独立したブンガラヤは、数多くの港を擁しており塩の産出もあることから、カディスは再びその領土を得ようと、常に虎視眈々と狙っている。そのためカディスの西と東にある両国から睨みを効かせたいというのがブンガラヤの思惑だと思われた。
「同盟を組むのはアラミサルとしても問題ないよね?」
「えぇ。ただ、ブンガラヤとカディスが戦争になった場合の条件は慎重に検討すべきだと思いますが」
「アラミサルが参戦するかしないか。支援するかしないか、だよね」
「そうです。そして我が国としては首を突っ込んでもメリットはありません」
カディスの領土拡大は、安全保障上の脅威となり得るが、ゾルバダ対カディス戦に参戦した際のデメリットは上回らない。
「しかし、ブンガラヤ側は我が国にもしもの時の参戦を約束させたいはず。それを上手く切り抜けねばなりません」
「そうだね。私は人命第一だと思ってるし、国が豊かでいるためにも戦争をしないことが一番だからね」
「ただ、ブンガラヤ側の本命は戦時の協力でしょう。同盟を組むなら妥協点を考えておかねば話はまとまらないかと」
「そっか。じゃあ同盟を組むかどうかから検討しようか」
美波はブンガラヤに行くことを決め、宰相や長官らと同盟の検討を始めた。
「陛下、なんとか頑張って各所にもご協力いただき、ブンガラヤで1週間程度の休暇を取っていただけるよう調整いたしました」
数日後の執務室。そこには少々やつれた宰相の姿があった。
「さすが宰相! ありがとう! 愛してるー!」
美波はこの3年で、どんな無茶振りでも彼はなんとかしてしまうことを学習していた。
抱きつこうとする美波を、宰相は華麗に避けて尋ねる。
「それで、会談へ向かうメンバーですが、移動時間短縮のためにも少数精鋭でいきます。編成は近衛隊長と国王付きの護衛5人、そして第1師団長のフォスター、侍女はケリーに同行してもらいます」
少数精鋭という言葉に偽りなし。このメンバーであれば何が起こっても対応できるだろう。
「そもそもブンガラヤまでってどれくらいかかるの? 漠然と遠そうってくらいしか知らないんだけど」
「南部都市セレゥまで行き、そこから船で4日かかります」
船という単語に美波は瞬時に反応を示した。
「船なんだ! この世界に来て初めて……いや生まれて初めての船旅だ! 楽しみ〜」
美波は執務机の下で脚をバタつかせる。
「浮かれるのもいいですが、会談に臨むんですからね。しっかり準備をお願いしますよ」
宰相は指でメガネを押し上げ、呆れた表情で嗜めた。
「はーい」
宰相との付き合いも3年。仕事には厳しく期待値も高いが、彼の弟と同じで分かり難いけれども優しいこの人の小言を聞くのは、美波は嫌いではなかった。
◇
ブンガラヤ王国との会談が決まってから1カ月後。美波は南部都市セレゥの地を踏んでいた。
当初、ブンガラヤに桜を見に行きたいから始まったこの旅だが、国同士の会談ともなれば、そうすぐに日程など決まるものではない。結局ブンガラヤに着くのは宰相曰く『運が良ければ桜が見られる時期』となってしまった。
道中では魔物と度々遭遇したものの美波の非常識魔法は健在で、馬車の中から魔法を放ち足を止めることなくセレゥの埠頭まで馬車で乗り付けた。
座りっぱなしで凝り固まった体をほぐしながら、美波たち国王御一行は港に停泊している帆船を見上げる。そう、蒸気船ではなく帆船である。
この世界では50年前に大きなエネルギー革命が起こっている。それは魔石の採掘と実用化が行われたことだ。蛇口やシャワー、コンロなどに魔石を入れ込み、そこから水や火が出る仕組みが確立された。
魔石は石炭よりもエネルギー効率が悪いのだろう。ましてや石油などとは比ぶべくもない。そのため莫大な動力を必要とする乗り物の類いは未だ開発されていなかった。また、魔石があるせいか、採掘技術が及んでいないのか、石炭も採掘されていない。
(某夢の国にあるような蒸気船も見てみたかったけど、帆船にはロマンがあっていいよね)
美波は停泊中のため今は畳まれている白い帆布を眺めた。
美波たちが今から乗るその帆船は客船ではなく郵便船である。この世界ではまだ一般庶民の国外旅行需要は多くはない。陸路での移動には魔物の襲撃にも備えねばならず、必然的にギルドで冒険者に護衛依頼を出さねばならず旅行費用が高くなる。
また、一定の需要に応えた客船もあるが船賃も安くはない。庶民の船旅はもっぱら郵便や荷物を運ぶ郵便船に乗ることになる。郵便船は荷を運ぶだけでは利益率が低いため、30人程度を上限に乗客を乗せることで運営していた。
今回の視察では一般市民を装っているため、客船ではなく郵便船に乗ることになっていた。乗り合わせる乗客も少なくなるため安全を確保しやすいというメリットもあった。
アラミサル国籍の郵便船は週に1度、ここセレゥから出発し、東に進路を取ってアラミサルの隣国であり、カディス帝国の南にあるウェルバ共和国に寄港する。その後さらに西に進みウェルバの隣国でカディスの東にあるブンガラヤに着く。美波たちはここで下船するが、郵便船はそのまま北上し、中央大陸北端まで行き、同じ航路を辿ってまたアラミサルへと戻ってくるのである。同様に西側諸国を回る西方航路も存在している。
帆船の姿を十分に堪能したところで、美波は馬車から荷物を下ろしている近衛騎士らを手伝って旅行鞄を手に持った。今回の旅は少人数の編成のため、荷運びなどの雑用も騎士や侍女など肩書きを問わず、同行者全員が逃れられない。
「これ運んじゃうね」
美波がケリーに確認を取る。
「えぇ、お願いします」
荷物は自体はそう多くない。王様であるはずの美波は必要最低限の衣装しか持って行かないし、侍女や騎士は言わずもがなである。では荷物の中身はというと、ブンガラヤ王国への献上品が主である。アラミサル名産の、魔物素材で作った服を作るための布や、上質な絹織物、宝石や装飾品を仰々しい飾り箱に入れて運んでいる。
美波も両手に荷物を持ってタラップを使って船に乗り込んだ。今更『国王だから下働きのようなことをするな』などと言う者はいない。いや、小うるさい宰相は未だに言わずにはおれないようだが今はいない。
甲板に立った美波は風に煽られて顔にまとわりつく髪を頭を振って振り払おうとする。
「髪をまとめておくんだった」
呟いた拍子に髪が口に入る。
「あぁ、もうっ」
「陛下、どうしたんですか?」
美波は諦めて甲板に荷物を下ろそうとするのを、フォスターが見つけて声をかけた。そして美波が口をモゾモゾさせているのを見て、声を荒げた原因を察する。彼は両手に抱えていた荷物を片手に持ち替えて、美波の髪を整えてやった。
「ありがとう」
「どういたしまして。……髪、伸びましたね」
「そういえばこの世界に来てから1回切ったきりだったかも。いよいよ鬱陶しくなってきたしまた切ろうかな」
戴冠式に合わせて伸ばしていた髪を、その後に切った時は肩につくくらいだったが、今では胸の辺りにまで長くなっていた。
「あなたはどんな髪型でも似合う」
「あはは、ダニエルは私に甘いよね」
美波は苦笑して、荷物を運び入れるために客室へと足を向けた。
帆船の後方部にある船尾楼の最上階、1等客室が美波の部屋として割り当てられていた。
1等客室とはいえ、蒸気船のような豪華な設えや客室は望めない。部屋にはセミダブルベッドに、簡素な机と椅子、奥の扉の向こうには洗面台にトイレとシャワーが付いているのみだ。それでも2等客室以下ではそれも共用になっており、部屋にあるだけ贅沢といえた。
帆船には3本の大きなマストがあり、それに付随して多くの索具が張り巡らされ、また船の重心が高くなると不安定になるため上部へ高く伸びるように客室を造ることができない。それに展帆縮帆をする水夫も多く必要になることから彼らが寝起きする船室も必要だ。よって客室は狭くならざるを得なかった。
美波は客室の端に荷物を置いて窓辺に立った。そこからは煌めく水面と、どこまでも続く水平線が広がっていた。
出航準備を終えた船が動き出した。外を眺めていた美波はすぐに手持ち無沙汰になって椅子に腰を下ろし、会談のために用意した資料に目を通すことにした。この船旅の間で出来ることといえば、会談の準備か本を読むことくらいしか出来ない。
宰相と秘書のディケンズの用意した資料によると、ブンガラヤの現国王、アンリ・ブンガラヤは20歳のまだ若き青年で、政治の実権は母后のマルグリッドが握っている。また、ブンガラヤは約100年前まではカディスに併合されていたが、その昔を遡れば今のゾルバダと同じ国であった時期もあり、民族としてはゾルバダ人とも同じである。
(単一民族で構成されてる日本人的には分かりにくい感覚だよね。それでいうとアラミサルは大陸国家でもある。常に隣国の動きに気を配らないといけないのは大変だよ)
美波は宰相と秘書官が作成した想定問答集にも目を通す。
今までの会談はアラミサルで行われていたが、いわば今回は初のアウェー戦。助けてくれる宰相もいない。美波一人で仕事を完遂しなければならない。資料をどれほど読み込んでも安心できそうはなかった。
資料を読み込むのにも飽きて、城から持ち出した本を読んでいると、手元が暗くなったことに気づいて窓の外に目をやる。すると水平線に沈みゆく太陽がその目に映った。美波は船室の小さな窓からではなく船上の景色を堪能しようと、部屋を出て甲板へ向かった。
昼間の反省を活かして、髪ゴムで簡単に髪をまとめて、船尾楼の扉を開けると視界に飛び込んできたのは、大きなマストの背景に広がる幻想的な色彩だった。空は夜の訪れを待つ群青色に、水平線は燃えるような赤。美しいグラデーションに染められていた。
(マジックアワーだ。綺麗……)
東へと進む船は北に大海原、南には中央大陸の岸壁、そしてアラミサルとウェルバの間に横たわるヒース山脈の雄大な姿が広がっている。越えることが難しいこの山脈があるためにアラミサルから東に行くには船旅になるのだ。
美波は山脈を目に収めながら、舷縁に腕を乗せてもたれかかった。
(この世界に召喚されなかったら、こんな凄い景色を生で見ることもなかっただろうね)
日本で会社員をしていた頃は平日は会社と自宅の往復、休みの日は買い物などで近所に出かけるのがせいぜいだった。長期休暇には海外旅行に行くこともあったが、旅の目的をグルメやショッピングに重きを置いていたため、ゆっくりと大自然を眺めて過ごすこともなかった。
(綺麗な景色を見てるだけで、疲れた心が癒されていく気がする)
特にここ最近は精神的にダメージを受けることもあった。東部レアットでの人身売買。自分が治める国で起きていた凄惨な事件に、美波は現体制の見直しをせずにはいられなくなった。
(この仕事には終わりがない)
問題は次々と起こる。その度に一つ一つ対処するが、それが正解だったかも分からない。美波は重苦しい気分を吐き出すように深く息を吐いた。
完結まで書き終えたので定期更新再開します




