第76話 計算違い
第76話〜計算違い〜
シルクハットをかぶった全身黒で固めた男は、湿地帯の上空でその光景に自身の表情が引きつっていくのを止めることができなかった。
ここまでの計画を立てるのに要した期間は一年や二年ではない。それこそ帝国が第二次魔道大戦に負けてからすぐに男は東の大陸に送り込まれたのだ。
目的はもちろん帝国の復権。魔道大戦で敗退し、星の龍穴は取られたものの、それでも西の大陸での覇権は揺らぐことはなかった。ならば帝国がこれからしていかなければならないことは、再び世界の覇権を得るために動くこと。
そのための下準備として送り込まれた帝国のスパイの一人が、このシルクハットの男、ナウラ・イルドーレだったのだ。
ナウラの任務はハルバス聖王国の力を削ぐこと。それこそやり方などは問わず、あらゆる手段を用いて聖王国の東の大陸での支配力を落とすことだった。
目的自体は単純明快ではあるが、それを為せるかは話が別。一国に対して個人が行えることなどそれこそたかが知れている。正攻法ではもちろん不可能。何か作戦が必要だ。
そこでナウラが考えたのは、国の有能な貴族を追い落とすこと。国というのはその大きさ故、国王一人で全ての運営をしているわけではない。そのしたの大臣や貴族たちが連携し、あらゆる方面で協力しながら運営を行っているのだ。
ならばその一角が消えればどうなるか。当然そこに穴が開き、聖王国に付け入る隙ができてくる。そう考えたナウラが標的としたのが、ハルバス聖王国の外交を担っていたエジャノック伯爵だったのだ。
そのためにナウラは入念な仕込みを行った。標的を決めたとはいえ、相手は聖王国で外交のトップに上り詰めた者だ。当然生半可な手段では追い落とすのは不可能。
そこでまずはエジャノック伯爵の情報収集から始めたのだが、満足いく情報が集まるまでには丸一年の歳月がかかってしまった。
だがそのおかげで道筋が見えてくる。エジャノック伯爵家には、息子であり次期当主候補のアーリヒがいるのだが、実務はできるのだが如何せんそのルックスが悪くそれなりの年齢となってもいまだに縁談が決まってないというのだ。
利用するならそこ。早速ナウラは縁談相手をピックアップしていくと、聖王国の隣国であるヘルメス王国の中に今の聖王国の大陸支配を快く思っていない貴族を見つけることができた。
まずはその貴族を調べ、流れの商人と身分を偽り懇意となるのにまた一年。そこからあの手この手で帝国との裏取引を持ちかけ、アーリヒとの縁談に漕ぎ着けるまでにさらに一年。
長い年月をかけた作戦だけあって、一度軌道に乗ってしまえばあとは非常にスムーズに計画は進行して行った。
ヘルメス王国の貴族の娘はタイミングを見計らいアーリヒとの婚姻関係を解消。そのせいで聖王国はエジャノック伯爵を左遷させることになり聖王国の外交関係の力は一気に弱まることとなった。
本来ならこれでナウラの任務は終了なのだが、本国にそれを報告したところ追加任務を出されてしまったのだ。
ナウラが所属している帝国の情報部隊はいわば隠密。
裏で暗躍する部隊であり、その任務は通常の人たちが見れば顔をしかめることも多々あるほどだ。それ故の暗部的組織なのだが、ナウラはもともと表で働いていたものだ。
戦場で作戦の立案や指揮、時には戦場で戦うこともあったのだがとある作戦で痛い敗退をしたせいで失脚。本来なら処刑もあり得たのだが、その能力を買われて命の危険の高い情報部隊にその身柄を引き取られた。
当然ナウラはそれを拒否したかったが、家族を人質に取られてしまえば従わざるを得ない。
この任務が終われば再び家族に会えると思っていたところでの追加任務。当然ナウラは異議を申し立てたがそんなものが通るはずがない。しかもここで戦果をあげれば情報部隊から解放してもいいと言われれば、頷かざるを得ない。
仕方なくさらに任務を延長し、さらなる聖王国の弱体化を図るためにナウラは考えた。
外交のカードを潰した以上の戦果。そうなってくるともはや聖王国自体に実害を出す以外にはない。
しかし実害となればさらに難しく、これもやはり一人で何かをするには無理がある。
ならばと策を巡らせた結果、前回と同様にエジャノック伯爵を利用することにしたのだ。
左遷されたエジャノック伯爵の新しい領地には、アキレス腱とも言える湿地帯があった。いまだ開拓が進まない未開の地。もし切り開くことができればそれは凄まじい功績になるが、湿地帯という特性や魔物の量によってそれがうまく行ってはいない。
これをうまく利用できないものかとナウラが湿地帯を調査したところ、湿地帯の形成に関して気になる資料を見つけることができたのだ。
遥か昔の王朝時代に生息していたとされる古龍。その龍が湿地帯で倒され、今もまだ死体は朽ちることなくその場所に眠っていると。
実際にナウラはその場所に行き、龍の死体を確認した。すでに骨だけとなり、その骨も長い年月でもはや骨と分からないほどに周囲と溶け合い同化してしまっている。それでも確かにナウラは感じることができた。
まだこの龍は本当の意味で死んではいないと。
その証拠に龍の骨を中心に立ち込める濃い瘴気は、そこから湿地帯全体に及んでいる。であれば湿地帯の魔物の多さは、この死体が関係していると見るのが自然。
これを利用しない手はなかった。
まず手始めに瘴気と魔素の流れをいじり、湿地帯に徐々に魔物を増やして行った。その過程で瘴気が一度あまりに強く澱むことになり、アンデットも多数発生することとなったがそれもまたアクセントとして許容した。
地道に魔物を増やし続け、湿地帯が魔物の楽園のような場所になった頃、ついに湿地帯を保有する領地において魔物の被害が頻発し始める。
ナウラの計画がさらに次の段階に進んだ瞬間だった。
魔物が領地に被害をもたらせば、領地を運営する貴族はそれを鎮圧するために動かざるを得ない。しかし魔物がそれだけ湿地帯の外に出ているということは、湿地帯の中に魔物が増えているということだ。そう簡単に討伐に動くことなど出来はしない。
だとすると大規模な作戦が組まれると睨んだナウラだったが、果たしてその狙いは現実のものとなる。ハルバス聖王国側の領主であるエジャノック伯爵が、聖王国の有数の魔術学院とくんで湿地帯の魔物の間引きを行うという情報を手に入れることに成功したのだ。
聞けば、未来有望なルミエール魔術学院の生徒が多数防衛に来るというではないか。
そこでナウラはまずその探りとして、ルミエール魔術学院の生徒と接触を図りその実力を調べることとした。
新入生、その最上位クラスであるA組に所属するランデル家の子息。接触は非常に簡単にいき、しかも魔力炉暴走剤まで買わせることに成功する。
その後の結果は思い通りにはならなかったが、学院の内情や保有する戦力など、非常に様々なことを知ることができた。
そしていよいよ湿地帯での仕上げに取り掛かることになったのだが、もちろん警戒はしていた。何せ学院には世界でも最強と言われる魔術師である五芒星の魔術師が所属しているのだ。
かの魔道大戦で猛威を振るい、帝国を敗北に追い込んだ一番の要因といってもいい人物達。その一人がいると言うのだから油断などすれば自分などは粉微塵にされてしまうだろう。
だからこそナウラはあえて餌をまき、何かを掴みかけていた五芒星の魔術師であるシルフィ・ファスタリルを今回の作戦が行われる日にこの場所から遠ざけたのである。
そして最後の仕込みも成功した。
湿地帯を有する二人の領主のアキレス腱につけ込み、瘴気を一気に集める魔道具を購入させ、それを湿地帯の奥で使わせる算段も整えた。
龍の肉体は死んでいようと、あれだけの瘴気を今も放ち続けている死体だ。濃密な瘴気の流入によりアンデットとして復活することが容易に想像できたための策。もしそれが実現すれば、湿地帯に溜まっていた魔物は一気に外へと流れ出しスタンピードに発展する。
そうすれば二国に与える影響は計り知れないものとなる。全ての計画は完全。その証拠にナウラが思い描いていた絵は完全に実現された。
古龍は復活しスタンピードは発生。夥しい魔物が野に放たれ、ハルバス聖王国とヘルメス王国は甚大な被害を被るはずだった。
「何故ですか!!」
だが結果はナウラの想像するものとは全く違ったものとなった。
ヘルメス王国側は見てはいないためわからないが、少なくとも聖王国側はスタンピードはルミエールの生徒達により張られた防衛線により阻まれ、警戒していたはずの五芒星の魔術師により魔物はほとんど駆逐されてしまうこととなった。
これでは帝国に定期の報告として送っていたものと被害状況が一致せず、ナウラは責任を問われることとなるだろう。
「クソッ!!」
この計画が成功した暁には、ナウラは情報部から解放される予定だったのだ。著しい戦果をあげ、そして家族と共に再びゆっくりと暮らす。あと少しでそこに手が届きそうだったにも関わらず、その夢は掌からこぼれ落ちてしまった。
「まだです!!湿地帯にはまだ龍がいるはず!あれをけしかければ結果は同じはず……!」
「残念だがそれは無理だ」
何とかして計画を完遂させようと頭を回転させるナウラの耳に届いたのは、この計画を完全に破綻させる者の声。今まさに、ナウラの命運が尽きた瞬間だった。




