第146話 思い入れがなかったとしても
第146話〜思い入れがなかったとしても〜
シャーロットには母親との思い出は特にない。それは相手からしても同じで、血の繋がりこそあるが母と子という表向きの関係性以外は二人は全くの他人として生きてきた。
その理由はひどく単純でありながらも貴族社会特有のもので、シャーロットの母親はシャーロットを望んで産んだわけではなかったからだ。
元はフリューゲル領の一つの村に住む村娘に過ぎなかったシャーロットの母親は、ある日当時のシュバルツに見染められてしまった。
当然見染められた相手が公爵という、貴族の中でもさらにその頂点に立つような人物なのだ。一介の村娘はもとよりその親も、村長であろうと公爵からのその思いを断ることなどできなかったのだ。
だがシャーロットの母親には将来を誓い合った男がいた。とりわけ有能でも、金があるわけでもない同じ村に住むただの平民。それでも二人は互いに惹かれあい、二人で幸せな家庭を築いていくつもりでいたのだ。
だがそれは貴族という、しかも国でも随一の貴族であるシュバルツの一声によって儚くも壊されてしまう。
例えそのおかげで村が街に発展するほどの寄付をもらえたとしても。家族がこれまでの暮らしからは考えられないほどの裕福な生活を送れることになったとしても。それでも二人の幸せは叶うことはなくなってしまったのだ。
何度も言うがこれ自体は珍しいことではなく、世界中どこでも行われていることだ。
むしろシュバルツは見返りとして村への多大な財貨をもたらしている点を考えれば、貴族の中でも相当に優しい部類に入ると言ってもいい。
普通は何をすることもなく、むしろ平民が貴族に見染められたのだから光栄に思えくらいにしか考えていない貴族がほとんど。酷い者では、それに少しでも異を唱えようものなら村ごと消してしまう者だっている。
だからこそシャーロットの母親も無理やり納得しようとした。これでよかった。村や家族のためにもなったのだし、自分も何不自由ない生活が約束されたのだと。
それを後押しするように、フリューゲルの屋敷の者たち皆シャーロットの母親に優しかった。
いくら公爵に見染められたとはいえ、村娘に過ぎないはずなのに、それはもう怖いくらいによくしてくれた。
もちろんそれはシュバルツに言い含められているところもあるのだろうが、それでもそんなやさしがシャーロットの母親に染みたのもまた事実。おかげで時間と共に屋敷にも馴染み、忘れたわけではないが、少しずつ将来を誓い合った相手のことも良き思い出に昇華していきかけていたのだ。
だが幸せというのは突如として簡単に崩れてしまう。それを一番知っていたはずなのに、またしても突きつけられた現実に今度こそシャーロットの母親は心が折れてしまったのだ。
その一報が届いたのは、奇しくもシャーロットを身篭ったことがわかった日の夜のことだった。
自身の懐妊が発覚し、屋敷で盛大に祝いが行われた夜。シャーロットの母親のもとに届けられた一通の手紙が全てを狂わせた。
そこに書かれていたのは短い短文だった。
彼が亡くなった。
原因はわからない。今皆で調べている。そう、手紙には書かれていたのだ。
村から少し離れた小高い丘。そこは見晴らしがよく村では人気の場所だが、切り立った崖になっている箇所もあり見誤ると危険な場所でもある。
数日姿を見せない彼を心配した村の者たちが捜索したところ、その丘の崖の下で事切れている彼を発見したのだそうだ。
それを見た時シャーロットの母親は確信した。彼はきっと自分で命を断ったのだろういうことを。
なぜならその場所は、いつかの二人が将来を誓い合った場所。そして彼が身を投げたであろう日こそ、将来を誓い合った日だったのだから。
この事実を誰が聞いたとしても、決してシャーロットの母親を責めることはないだろう。
確かに将来を誓い合った男とのことを思い出に、新しい環境で前向きに生きていたことは事実だ。だがそれはあくまで自らの選択できる選択肢の中で、最大限に良い方向を選んだ結果に過ぎないのだ。
もしこの結果を責められる者がいるとするならば、それはシュバルツ以外にはいない。しかしシュバルツが貴族であり、死んだ男が平民である以上そんな理屈は通らない。
もはやシャーロットの母親は壊れるしかなかったのだ。そうでもしなければ、とてもじゃないが平静を保ち生きることなどできなかったのだから。
かつて愛した男は自分のせいで死んだのだ。どうしてそんな自分がのうのうと幸せに生きることなどできるのだろう。
本当なら自分も後を追いたかった。今すぐにも死んで詫びたかった。だが今の自分の中には子が宿っている。さすがにこの子を道連れにすることなどできない。だけど、だからといってこのまま生きていくのは辛すぎる。
そんなせめぎ合いの結果は自分が人形になること。あらゆる感情を消し、ただ生きているだけ。何も感じないし話さない。そんな人形にシャーロットの母親はなってしまったのだ。
そうなってしまえばもはやシャーロットを育てることなどできるはずもない。親としての責任から自ら命を断ち切ることだけはしなかったが、それでもシャーロットを出産した後は本当の人形のように生きてきた。
公爵夫人であるため公式の場などには姿を見せたが、そこで見せる笑顔は全て表面に貼り付けられた偽りの仮面。普段から近くにいるものには、その笑顔の方が普段の能面のような無表情よりもよほど辛く見えたそうだ。
無論、これまでの話は全てシャーロットも知っている。だがそれを聞いてもシャーロットは同情はできても母親に対して寄り添うことはしなかった。
シャーロットは母親と違い、最初から貴族として生まれ、そこで貴族としての教えを受けて育てられてきた。故に母親のその感情の理屈はわかっても理解をすることができなかったのだ。
そして何よりも物心ついた時からシャーロットの記憶の中に母親はいない。母親代わりはいても、母親はシャーロットの中には何もないのだから、最初から気持ちを寄り添わせるなど土台無理な話。
シャーロットからしてみれば、自分を見捨てたのと同じこと。母親からしても関わることを拒否した子どもだ。今日この日に至るまで、どちらからも歩み寄りを見せることはついぞなかった。
「これまで一度も話すらしたことのない人のことでどうしてそこまで怒れるのですか?そこがもはやシャーロット様らしくないのです!!」
「人の親を殺しておいてらしくないも何もないわよ!」
シャーロットは今の己の武器である短剣を横薙ぎに払うが、アンリはそれを槍でいなし、一歩後退するとノンストップで突きを繰り出す。前傾姿勢気味に突っ込んでいたシャーロットだが、その攻撃を読んでいたかのように一歩横へと躱すと後退したアンリ目掛けてさらに突っ込んでいく。
「っ!?」
「遅いわよ!!」
その動きを予測しきれなかったのか、次の動作が遅れるアンリに対し、シャーロットは戸惑うことはない。コンパクトに振り抜かれた短剣は、アンリの左肩を捉える。
「降参しなさい。幼なじみのよしみで命は助けてあげるわ」
傷口を押さえながらさらに後退するアンリに対し、シャーロットは冷たくそう言い放った。
確かに母親は他人以上に遠い存在だった。このまま一生話をすることがなくても特に問題はないと思っていた。だけど今、自分は確かに怒っている。はらわたが煮え繰り返りそうになるほど怒っている。
それはきっと、公爵家の令嬢としてでは得られない経験をルミエールでの数ヶ月で得たからに他ならない。信頼できる仲間という存在を得たからに他ならない。
「落ち着いたら一度話をしてみようと思ってたのよ!!」
他人だとしか思っていなかった。これから先もその思いは変わることはないと思っていた。それでも心のどこかではいつも引っかかっていた。
だからこそシャーロットは吠える。その機会を奪い去った幼馴染みに対し、容赦のない攻撃を向ける。
「やはりシャーロット様は変わってしまったのですね」
しかし劣勢であるにも関わらず、アンリから漏れたのはどこか呆れにも似たそんな言葉だった。
「何をっ!?」
「できれば穏便に済ませたかったのですが、こうなっては致し方ありません。少し痛い目を見てでも目を覚ましてもらいます」
そう言ったと同時、シャーロットの目の前からアンリの姿か消える。その動きを、シャーロットは捉えることができなかったのだった。




