不快ー1
例えば落ちたら危険な棒の上を歩いてる猫がいて、落ちてしまうとして。
その猫が右から落ちたか左から落ちたかなんて、落ちた猫だって重要だとは思わないだろう。
一番大事なのは、猫が落ちたという事実と、落ちた猫がどうなったかっていう結果だけ。
左右が同じ場所か違う場所かなんて。
落ちた場所がいばらの茂みか泥沼かなんて。
どっちに落ちても猫にとっては不快なものでしかなくて、それを見た人からすれば憐憫の情しか湧かない。
飼い主でも通りすがりの人でも。
テスト期間でバスケ部の練習が早く終わった。
もちろん、早く帰って勉強しろっていう意図だけど。
もちろん、駅前で少し遊んでいるけど。
どこまでもぬるい暑さに疲れて、コーヒーショップでアイスコーヒーをテイクアウトして、飲みながらだらだら歩く。
さすがにそのままどっかの店に入るなんて事はしないけど、通路を歩きながら店の外からぼんやり眺めて遊ぶのもわりと好きだったりする。
主に女性向けばかりのお店が競い合っているからあんまり見る所もないけど、メイちゃんが好きそうなものや似合いそうなものを見つけて眺めてるだけでも、楽しい。
あと、食べ物が売ってるコーナーも、たまに試食したり買い食いしたり、楽しい。
我ながらあまりお金がかからない楽しみだなって思いながら歩いていると、こちらに手を振って歩いてくる同級生の山手直が見えた。
「仙、寄り道かぁ、」
「お前もだろ、スナ、」
既に小麦色になりかけてる肌が袖から伸びている。
水泳部のスナは既に屋外プールで泳いでいるらしい。
オフシーズンでも屋内プールでの練習でほぼ毎日塩素にさらされてる茶色い短髪は、屋内の光でもキラキラ反射していた。
「水泳部も時短練習だったんだけど、駅着いたら電車の時間まで中途半端なんだよ、」
スナは電車で3駅の場所に住んでいる。
自転車通学も出来る距離だったけど、自転車は駅から学校までで、部活の練習で疲れてんのに自転車で帰るには距離的に微妙らしい。
勉強もしないワケではないけど、帰ってから勉強するには時間がない、との事。
電車の車庫がある駅だから、車庫入れで終点になる電車に乗りたいというワケわからんポリシーを持って、時間が中途半端と言っている。
駅に停まる電車自体はバンバン来るのに。
「何か面白いもんあったか?」
「毎日のように来てんのに、昨日の今日であるかよ、」
「わかんねーじゃん、昨日の今日で何かが変わる事もあんだろ、」
確かに、それはある。
楽しい嬉しい記憶ではないけど。
小学生の頃に母さんは突然倒れて死んでしまった。
今よりも幼いオレは、その場にいたと言う、姉であるメイちゃんに全部を押し付けて、今までの姉弟の信頼を失った。
オレは昨日の今日で景色が変わる事を知っているんだ。
「あ、そーいや、化粧品の限定品が出てたかな、」
「化粧品情報は要らねーよ…」
「彼女とか、」
「あー…何もイベントない。何でもない時にあげると毎回毎回期待してしまうだろ、」
「そんな打算的な付き合い」
「打算なの。彼氏っていうブランドなの、オレは」
「何だそれ」
「お前も姉ちゃんばっか見てないで、周りの一般中学生女子を見てみろよ、恋に恋する女子だらけだぞ。彼氏持ちの女子は羨ましい対象で、彼氏持ちの女子の中では彼氏に何してもらった話題でいっぱいだから」
「んん?」
「オシャレに夢中なだけにしか見えないけど、」
「彼氏はそのオシャレの一つ」
「冷めてる。怖っ」
「お前のが怖いって、シスコン」
「シスコンってワケじゃ…」
「あ、アレいいな」
急に話題をぶち切って、スナは雑貨屋の入り口に歩いていく。
不服を抱えて付いていくと、シンプルなペンケースが並んでいた。
「そろそろ新しいの欲しかったんだよな」
並んでいるペンケースの黒を手に取って、長さやファスナーを確かめている。
確かにスナが持ってても違和感のないデザインで、革が滑らかそうだった。
四色ボールペンとシャープペンシル、定規に消しゴム、マーカーが二本だけのシンプルな中身を入れるには良さそうだったけど。
「スナの持ってる中身全部入れたら、他に余裕なさそうな感じするけど、」
「確かに、たまにペン増えた時パツパツなるかな、」
「多分、形的に定規を一番下に入れるしかないから、出しにくいんじゃない?」
ペンケースは平たい作りで、スナの持ってる定規を立てて入れる余裕はなさそうな様子だった。
ごくシンプルな定規だったけど、少しだけ幅があって、それが本人には使いやすいサイズらしい。
「うーん…どうしようかなぁ…」
「このペンケースを使うなら、出しにくいストレスを抱えるか、新しい定規を買うかだけど、」
自分でも謎のプレゼンしてるって自覚しながら、ふと、値段を見る。
「スナ…、無理しなくても、もっとスナが使いやすいって思うペンケースあると思うよ、」
「ん?」
「値段」
ほぼ、一万円だった。
「よし、また違うの探すわ!」
「帰ろうか、」
氷の溶けてきたアイスコーヒーをすすって、改札まで見送った。