『リアル系戦記もの』とは?
まずは『リアル系戦記もの』について説明したい。この言葉は『リアル系』『戦記もの』の二つの言葉を組み合わせたものだ。勝手にややこしい言葉を作るなと言われると、まったくその通りである。反駁にもならない言い訳と共に解説したい。
『戦記もの』については定義がわりとしっかりしている。戦争をテーマにした物語だ。○○戦記というタイトルは大体これだろう。古くは『平家物語』や『太平記』なども該当する。『リアル系戦記もの』はこのジャンルにおけるサブジャンルという位置付けだ。
さて、ここからが大事なのだが、ややこしいところでもある。『リアル系』とはなんだという話だ。アニメやゲームに造詣の深いかたならおわかりいただけるだろうが、これは架空のロボットにおける分類の一つであり、リアリティに重点が置かれているのが特徴だ。架空なのにリアリティとはこれ如何に? と思うかもしれないが、ある程度現実の物理学に即した設定が行われているものであると理解していただきたい。それ以上の説明は、申し訳ないが私の手に余る。
ようやく『リアル系』『戦記もの』を説明する準備が整った。つまりは架空の世界を舞台にした戦記もののうちリアリティに重点を置いた作品について『リアル系戦記もの』の分類を与えようということなのだ。小説家になろうにおいては『ハイファンタジー』に属することになる。定義は以下の通りとしたい。
・架空の世界を舞台とした戦記ものである。
・現実世界の物理法則に則した設定が行われており、亜人種や異形は存在しないし、異能や超常現象も存在しない。
その定義なら『架空戦記』というジャンルが既にあるではないかと思うかも知れないが、あれは過去の歴史においてもし過程と結果が異なるものであったならというものを描いた作品群の一大ジャンルであり、私が想定する『リアル系戦記もの』とは作風が大いに異なる。現実の歴史ではなく、架空の世界の歴史を舞台にする以上は混同すべきでないと考えたのだ。
ではなぜこんな言葉を作ってまで分類しようとしたのか。それはつまり、私の好きな作品群だからだ。言い訳のしようがないほどに私情である。そして、これは検索が難しい。どれほど検索ワードと除外ワードをいじくり回そうが、この作品群を浮き上がらせるのは困難だ。『オリジナル戦記』というキーワードはあるが、戦記ものかどうか怪しいものまで含む大雑把さであるからして使い物にならない。
この言葉を流行らせて作者の皆様に利用していただこうなどという厚かましい野心はない。大事なのはこの作品群のおもしろさを伝えることだ。そして紹介した作品を実際に読んでいただくことである。好みの傾向を私と同じくするかなり限られた方々には、この作品紹介が大いに役立つと思う。
どうして『リアル系戦記もの』はこんなにもおもしろいのだろうか。おそらくそれは登場人物が人間だからだ。私たちは人間にできることの限界を知っている。人間は異能も魔法も使えないし、病気や怪我であっさりと命を落とす。これは、どんなに優れた英雄でも免れない人間の限界なのだ。この制限は一種の公平性を担保する。彼我が戦場で対峙するとき、格闘技における体重制限のような制約が課されるのである。ゆえに私たちは英雄を評価する尺度を用いることができる。
アレクサンドロス大王がガウガメラの戦いにおいて地を埋め尽くすペルシャ勢を巧みな用兵で打ち破ったのは、戦史に打ち立てられた金字塔だ。これに比肩する偉業を創作で表現しようとするなら、登場人物に人間を超越する能力を与えた時点でその試みは失敗するだろう。私たちは人間を測る尺度は多く持つが、架空の超人を測る尺度は持たない。アレクサンドロス大王の偉業は評価できても、指先一つで万の軍勢を消し飛ばす行為の評価ができないのだ。それはもしかしたら大変な偉業なのかも知れないし、象が蟻を踏み潰すだけのことなのかも知れない(あえてそれを楽しむ作品を否定するつもりはない)。
架空の登場人物であっても、現実の物理法則に即した設定における人間であるならば、私たちは自分が持つ尺度を用いることができるのだ。
とある登場人物は僅か一〇〇名の兵を率いて一〇〇〇名の敵勢を打ち破った英雄だ。しかし、創作だから可能なのであって現実はこうはいくまい。いやしかし、島津義弘は木崎原の戦いにおいて三〇〇名の兵で伊東勢三〇〇〇名を打ち破っている。全くでたらめな話ではないかもしれない。
このように思考することができる。決して一般的と言い難いが、これはなかなか楽しいものなのだ。『リアル系戦記もの』ならではの醍醐味と言えるだろう。異能で三〇〇〇名の兵を爆殺した登場人物がいたとして、島津義弘を引き合いに出して評価することはできない。この両者は用いることができる尺度が違うのだ。象が蟻を踏み潰しても、誰も象を英雄だとは言わない。
超人であるから英雄になれないとは限らない。マーベル・コミックやDCコミックのいわゆるアメコミヒーローは大体が超人だが、立派に英雄として成り立っている。しかし、彼らは蟻を踏み潰して英雄となったわけではない。ヴィラン(悪役)もまた超人であり、同じ土俵で戦っているのだ。
ではこの構図を戦記もので用いるとどうなるだろうか。兵は皆超人であり率いる将も超人であるとする。そして敵兵もまた皆超人であり、率いる敵将もまた超人であるとしよう。戦争の形態が一体どういうものになるのかまるで想像がつかない。槍を並べ立てたり騎馬を駆けさせたりといった、人間の営みの範疇で行われてきた戦争とは全く違うものになるのではないだろうか。少なくとも私の望む作風ではない。
人間の営みとして起きる戦争と、そこで活躍する英雄の物語を読みたいと思ったら、『リアル系戦記もの』かもしくは史実の戦記ものをお勧めしたい。人間は異能も魔法も使えないからこそ、用兵に技巧をこらし、謀を綿密に巡らし、勇気で己を奮い立たせ、儚い命を輝かせるのだ。創作において人間を描くことは制約ではない。物語を生き生きと描くための近道なのである。
最後に一言繕っておきたいが、これはまったく私の趣味である。単純にそういうのが好きだというだけであって、それ以外を否定する意図は全くない。