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「廃刊? この計算書を見る限り、あと1刊……節約すればどうにか2刊は発行できる予算がありそうだけれど……」
翌朝出勤したアメリア・サルディバルは、ヘーゼル色の瞳を瞬かせて尋ねた。ゆっくりと傾げられた首の動きに従って、緩やかに波打つ白金色の髪の一房が胸元へと流れ込む。
子爵令嬢であるにもかかわらず、アメリアが自らデザイナーとして商人街で働いているのは、実家の経済的な事情が大きい。彼女にとっても、編集部の廃刊は危機的状況だ。そんな状況にあって、普段通りにおっとりとした対応を見せるのは、貴族令嬢の矜恃というものだろうか。内心驚嘆しながら、マーヤは頷いてみせた。
「そうね。でも、編集部を畳むのにもお金が要るわ。ここを立ち上げたときから決めていたの。あと1刊しか発刊できない状況になったら、廃刊だって」
「そうなの……」
アメリアの長い睫毛が、ヘーゼル色の双眸に陰を落とした。
「ここが唯一、家から認められた働き先なのよね。『トロキリデ』がなくなるのは困るわ」
「――たとえ『トロキリデ』が廃刊になったとしても、これまで請け負ってきたパンフレットやチラシなどは、継続して受けることができるはずです」
セリカが口を挟んだ。
「雑誌はどうしても利益が売上に左右される、博打的なところがありますが、広告だけ請け負うのであれば、受注時に利益の確保はできる……いえ、確保しますので」
それは、昨日セリカと話し合った内容でもあった。アメリアの視線を受けて、マーヤも頷く。
「心遣い、嬉しいわ。ありがとう、セリカ。マーヤ」
アメリアはふんわりと微笑んだ。いつも通りの、陽だまりのような笑顔。でもね、と視線が落とされるとその微笑はたちまち儚げなものになった。
「でも、正直に言えば、寂しいの。だって、広告だとどうしても、デザインの善し悪しを判断するのは依頼主になるでしょう? わたくしは、好きなようにデザインを組ませてもらえる『トロキリデ』の仕事が好きなのよ」
呟くようなアメリアの言葉に、セリカはそれ以上は口にできず黙り込んだ。彼女が『トロキリデ』編集部を家業の関連組織に組み込んでまで立ち上げたのも、まさに同じような理由からだったから。
他国は知らないが、少なくともフォルトゥナ王国において雑誌とは、教養であり政治だ。『トロキリデ』以外の雑誌は大抵、政治か経済を論じるものばかり。それらは最新の政治動向や投資情報を扱うし、場合によっては大きな商会や政党の宣伝としても使われ、百年前から変わらない《格調高い》形式で文章とデザインで構成されたものばかりである。
女性の社会進出が進んだとはいえ、フォルトゥナ王国においても女性はまだ社会の《添え物》なのだ。
そこに風穴を開けたのが、女性、しかも子爵以下の3名が背負う『トロキリデ』編集部であった。セリカの父、つまり『フォルトゥナ経済新報』代表のガストン・ソレス男爵は、彼女らの発信する情報は女子供の遊びにすぎない低俗なものだと言い切り、今も認めてはいない。
それでも彼女たちには、自分たちが経済を少しは動かしてきたという自負がある。たとえば最新のファッション情報。それは《流行》をある程度定型化はしたが、そのおかげで《遊び方》を覚えた令嬢たちは流行を追い、あるいは独自のファッションを生み出すようになった。また下町の観光情報は好奇心旺盛な貴族子息のお忍びに使われ、護衛にとっては《忍び先》の見当がつけやすく、下町にとっても貴族の出入りが増えたことが治安維持につながった。ほんのわずかなことではあるが、頭の固い父にはできない経済の回し方であると、セリカは考えている。
「そうよね……」
相槌を打ったきり、マーヤは黙り込んだ。
***
静寂を打ち破ったのは、ドアベルの音だった。
すぐにセリカが立ち上がり、ドアを開ける。「どうもっすー」っと言いながら、積み上げた茶色い包みを両腕で抱えた男が入ってきた。プレンタ印刷所のアレクだ。
「例のチラシの刷り直し、200部の5結束で1000部っす。どこに置きます?」
「一応確認したらすぐに納品するので、この靴箱の上に置いてください」
セリカの声に従い、包みを靴箱の上に置いたアレクは、肩から下げていた鞄から茶封筒を取り出した。
「セリカさん、こっちが予備で、これがお借りしてた布です。確認お願いします」
封筒からチラシを取り出したセリカは、アレクに渡された布と見比べて頷いた。群青色の布は、商会から借りてきた制服の端切れだ。
「完璧です。助かりました。……今回は、急がせてしまってすみません」
「いえ、こちらこそ……」
セリカがサインした受領書を受け取りながら、アレクは首を振り、心なしか眉を下げた。
「別の仕事の入稿が遅れてたんで、先にこっちの色見本を刷ったんです。刷り終わった後に入稿が来たんで、俺はそっちに行っちまって……。配達と印刷を新入りのホセに任せずに、俺が確認するべきでした。俺だったら色の変更指示が合ってるか、問い合わせもできたのに……」
「アレクは悪くないわ」
マーヤが口を挟んだ。
「間違った指示を出した私が悪いのよ。アレクは悪くないし、学院を卒業したばかりのホセにそこまで汲み取れって言うほうが無理だわ」
「その通りです。今回のことはこちらの不手際ですから」
セリカも頷いた。アレクは一度だけ深く頭を下げると、鞄から一枚のチラシを取り出した。
「これ、さっき話した別の仕事ってやつなんですけど、マーヤさんなら興味をもちそうだなって……あ、もちろん、さっき納品したときに依頼主から許可はもらってるっすよ。これから役所に置くらしくって、興味があれば平民でも応募できるそうっす」
早口にそう伝えると、アレクは二カッと笑った。
「『建国100周年記念事業コンペ』、いいじゃないっすか。どんな事業が受賞するのかわかんないですけど、きっと広報が必要になると思うんで。もしチラシを受注したら、印刷はプレンタ印刷所にご用命くださいっす」
***
「気遣われてしまったわね……」
アレクを見送った後、セリカが淹れなおしてくれた珈琲を飲みながらマーヤが呟いた。
「アレクはいい子ね。私たちより若いのに、もう跡継ぎの貫禄が出てきたみたい」
アメリアはにっこりと微笑んだ。
「それよりマーヤ、どうするの? コンペに応募している事業がどんなものか、私とセリカで調べましょうか?」
「そうですね」
セリカも頷いた。
「こういった催しがあることはなんとなく聞いていたので、おそらく貴族側の応募者はもう出ているでしょう。アメリアが上流貴族、私が下流貴族の動向を調べれば、自ずと受賞する事業の目星はつけられるでしょう」
マーヤはもうひと口コーヒーを飲んだ。
「とりあえず情報収集はお願いしたいわ。――でも、もっと面白いことができそうな気がするの」
マーヤはぼんやりと外を眺めながら、すっかり冷めた珈琲を啜っていた。アメリアとセリカはさっそく聞き込み先の打ち合わせをしているが、二人のやり取りもどこか遠いところに感じる。
いったん考え事を始めるとこうなってしまうのがマーヤの常であった。それを理解し、そっとしておいてくれる二人のことを、いつもありがたく思っている。
「こういったコンペは、もうある程度受賞者が見えているものよね……」
机の上に置かれたチラシに目をやりながら独りごちる。
「貴族側には先に話が流れてたのがその証拠だわ。だとしたら、一般に告知する意味ってなんなのかしら……」
おそらくアメリアたちも話しているだろうが、マーヤにも応募者の心当たりはある。コルヴィッツ大公は奉仕事業のための予算がほしいだろうし、魔導研究舎の総長もここぞとばかりに開発予算を取りにくるはずだ。あとはこの機会に知名度を上げたい辺境領主たち……。
先に貴族側に話が流れていたというのなら、貴族の中でも、話を聞いた順番があるはずだ。単に予算目当ての貴族でなく、本当に記念事業としてふさわしいところには、内々に話があったのではないかと推測される。そう考えると、応募者のなかから受賞候補を絞ることは可能だ。たとえば王国を代表する二大歌劇団『フォルトゥナ聖歌隊』『劇団ラ・ディオサ』。たとえば王都を警備する近衛隊。
また、貴族内のコンペで済ませず平民にも告知するのは、広く募集したという実績がほしいからか、それとも――。
「――ねぇ、考えたのだけれど」
なんとなく考えがまとまってきたところで顔を上げれば、それを心得ているようにアメリアとセリカもこちらを見た。二人の視線に促されるように、一度深呼吸をして、頭の中に浮かんできた考えを告げる。
「私たちも、そのコンペに応募するというのはどうかしら」
「……は?」
とぷん、と水音がして、アメリアが愛用する華奢な製図ペンが指先から滑り落ち、ティーカップに半分沈んだ。珍しく目を見開いているアメリアの隣で、セリカはポカンと口を開いている。
珍しいものを2つも見るなんて、今日はいい日になりそうだとマーヤは笑った。