1 いたずら気質
染料で綺麗に染め上げたかのような、澄んだ真っ青な空にまばらに散らばる雲の隙間を突っ切る影。みるみる内に巨大さを現しながら、その存在は地上へ向かってかなりの速さで向かってきていた。
地では何人かの人間が来る竜をほぼ真上に顔を向ける形で見上げ待っていた。いくつもの一対の目に見られた竜は直ぐに一直線に人の入っている建物に近づき身体にふさわしい大きさの翼を緩く羽ばたかせる。
着陸体勢に入った、誰もがそう思っただろう。
しかし、見ていない者でもその音で地上に降りてくるかと思いきや、灰色の竜は予想外の行動を見せた。
翼をもつ彼らが空から入れるようにと屋根が一切ない円形の建造物の頂点、「縁」に鉤爪で器用に降り立ったのだ。
その拍子に巨体の重さによってか、単に爪の鋭さよってか、パラリと少しの欠片が落ちてきたような気がするが、ヒビなどが入る様子はない。
あのように縁に止まれるのだな、と当の地上から高い場所を見上げたアリアスは新しい発見をする。竜が羽ばたいていたことにより起きていた風の名残に長いスカートが揺れて、止まる。
アリアスはそのときすでに一体竜の健康調査を終えた身で先輩の元へ行ったばかりで、なぜか地に降りて来ず、まるで鳥が器用に木にとまるように落ち着いてしまった竜をしばらく見つめてから近くにいる先輩の横顔に訊く。
「あんな場合、どうするんですか……?」
「なにが……ああ、ああいう場合?」
先輩が顔を上げ、同じ方向を見る。竜が降りてくる様子のない光景である。
すると先輩魔法師はアリアスの言葉に首を横に振り、
「駄目。こうなると降ろせないから待つしかない」
仕方ないといった、放置するというあっさり元の位置に目を戻しつつの言葉が返ってきた。
確かにどうにかしようと思っても出来るものではなさそうだ、と今一度かなり上の方にいる竜、それから騎士団の団員が待っていたはずの竜をどうすることもできずただ見上げていることを見てアリアスは納得する。
中々に竜という存在は「生き物」っぽいところがある。彼らにだって各々性格だってあるのだと、言われてみると当たり前のことに気がつかされたのはわりと早い内だった。
「……本当に、時々あんなことするんだヴァリアールは」
ぶつぶつと先輩はぼやいて浅くため息をついたので、アリアスは苦笑いするしかない。
灰色の竜――ヴァリアールはなんと言おうか、気まぐれというには確信犯めいたものが混じっているのでただのやんちゃ……といたずらっ子な性格のようだった。
「降りてくるんでしょうか……?」
「どうだろう。同じことは何度かあったことがあって、いつもどこか遠くに行ってしまうことはないけど、見える範囲で上を飛んだりああしてとまってたりで、僕が居合わせた中では一度中々降りて来ずに一時間は降りて来なかったことはある」
「え」
「降りてきてくれないと僕らの仕事は終わらないんだけど。とりあえずまだ来ていない竜もいるしそっちを先にする」
「はい」
他の竜は真似しないのだろうか。いや子どもの集まりではないのだからそんなことはないかと、空高くに新たに現れた影を見つけながら考える。
「それに、今日は心配ない。今日は全体飛行訓練のはずだからそのうち降ろせる人が来る……ああほら来た」
「?」
来た、とは。
あの竜を降ろせる人物。そんな技を持つ人が……と上を見るため曲げていた首を戻し、アリアスが広い空間につながる通路の方を見るとちょうど一人やってくる人物がいた。
ゼロだ。
竜に関わる仕事についてはアリアスが就いているのは健康調査であるので、毎日のようにこの建物に来るようになっていた。けれど、竜と契約している者はいつもいつも来るわけではない。
そういうことで、数日振りにこの場では姿を見る。
「アリアス、他が来る前にあれ降ろすように言ってきてくれる」
「はい」
なるほど、彼ならば降ろせるのかとアリアスは言われた通りに来たばかりのゼロの方へ走り出す。
「おはようございますゼ、いえ団長、」
「アリアス……団長なんて言い方すんなよ」
大きめの声で呼び掛けたので反射的に言い直すと反応したゼロが足を止めてくれたのはいいが、少し不満げにそう言った。
別に呼び捨てにしているわけではないので「ゼロ様」と呼んでも構わないことは構わないのだが如何せん周りは「ゼロ団長」と呼んでいるもので、普段の会話で合わせている癖がこういう場では出るものだ。
しかし、アリアスの意を汲み普段は一応は一介の新人として表立った会話はしないゼロが、「団長」のみはさすがに嫌だとばかりである。
「まあ分かってるけどな……おはよう」
最終的には向けられた笑みにアリアスもつられて微笑んでいたが、そうではない。と、彼の元に来た理由を思い出す。
「あの、えぇと、実はヴァリアールが降りてきてくれないので降ろして欲しいと……」
「降りてこねえ?」
あそこだとアリアスが指で示せば、ゼロは「ああ」という表情になった。慣れているのか。
「ヴァル!」
鋭く短く大きくゼロが竜に向かって名前を呼ぶと、竜がその顔を声の方に向けて数秒。言うところを汲み取ったのかぶわりと翼を一気に広げて、宙に巨体を委ねる。
ズシンと重い音がした。ほぼ落下したような速さで落ちた風に見えて、少し目を見張ったアリアスは爪とか大丈夫だろうかと少し心配になるが様子としては問題はないようだった。あのくらいの高さから落ちても平気なのか、身体が頑丈すぎるのか。
とにかく、言うことをきく相手を選ぶらしい。
「ありがとうございます」
「いや、手間かけて悪いな」
小さな悩みの種になりかけた竜を降ろしてもらえ、ゼロにお礼を言って先輩の方を見ると頷かれたのでアリアスはまた走ってゆく。
灰色の竜の元へ向かう途中でもう一体竜が降りてきた。慣れつつある、起こされる強めの風に吹かれながら紙がぐしゃぐしゃにならないように胸に抱え、スカートが下手にあおられないように適度に押さえながらアリアスは先輩の後ろからついていっていた。
「……じゃあ、アリアスあっちやってきてくれる」
「はい」
「ディオンさん!」
降りてきたばかりの竜を顔で示され、アリアスが返事をした直後すぐ側にいる先輩の名前が呼ばれた。
先輩が反応し、アリアスも見るとそこには声を張っただろう竜に関わる魔法師の制服を着た男性。ディオンはすぐに顔を違う方向にぐるりと巡らせ、止めた先に指で何事か合図を送る。
音が伝わり辛い現場になることもあるので簡単な合図があるそうで、この場合要約すると「あの竜の健康調査お願い」である。合図が向けられたのは離れたところにいるこれまた竜の育成に関わり同じように健康調査を行っていた魔法師で、ちょうどその手が空いたところを見つけたらしい。「了解」との動きが返る。
一度頷いたのを最後に短いやり取りを終えたようなディオンが再びアリアスを見たのは一瞬。
「行ってくるから、アリアスお願い」
「あ、はい」
ぽんとそっくりそのまま押しつけられ、受け取ったアリアスはとっさに返事をすることに成功。
ディオンは走っていった。
さっき地面に降りたとき相当の衝撃を受けたと見えたヴァリアールの爪は無傷だった。地面が踏み固められているとはいえ土だからか。
まず心配していたそれらが全て無事だったことを入念に確認し終えたアリアスは一安心だ。同時に頑丈なものだとしみじみ思う。
爪を見るためしゃがみこみ紙にチェックもそこそこに立ち上がり、次だと竜の正面の方へ向かおうと――
「――ゼロ様」
驚いた。いつから背後にいたのか、ゼロが近くに立っていたのだ。
「ディオンは?」
「ディオンさんなら、さっき呼ばれて……あっちに」
示してみせるが聞いたわりに用があるという風ではなさそうで、アリアスに気にせず続けるようにと促した。その横にくる。
ちょうどそのとき、見える範囲で牙を診ていたらガパリと竜がその大きな口を開けた。並ぶ全てが鋭い歯を前にすることになり、アリアスは思わず身を離す。
同時に周りにいた騎士団団員が気がつき一人何事かと動きかけたが、ゼロが制する。
「悪ふざけが過ぎる」
呆れたような声がかけられたのは、灰色の竜。それと共に拳で無遠慮に鼻面を叩いたのはもちろんのことゼロでアリアスはついさっきとは別でぎょっとする。
が、竜は叱られた子どもみたいにすごすごと――状況的にアリアスには見えた――口を閉じた。
中が見えやすいことこの上なかったが、確かにいきなりは心臓に悪い。人なんて容易に噛み砕け、飲み込めるだろう口を前にするわけだから。
それでも確認は出来たので、びっくりした心臓も静め異常なしと印をつける。
「ったく……ルーが睨んでるな」
睨んでいるかはアリアスには分からないが、ルーウェンの姿は確認できた。ゼロの見た方に青い竜がいたから目を引かれると、その傍らに彼は立っている。銀髪と見慣れた立ち姿。
全体訓練だと先輩が言っていたから気づかぬ内にこの場に姿を現していたようだ。こちらを向いているよう、ではあるか。灰色の竜の挙動に気がついたのだろうか。
そんなルーウェンに向かってゼロが笑った。
ちなみに青い竜はとても穏やかである。
「ヴァリアールはいたずらっ子ですね」
まるでこちらの反応を楽しんでいるかのよう。
人の手が届かず、声をかけても素知らぬ様子は疑いようもなくわざと。今のだってわざとだろう。
作業に戻り、橙の目を見つめ濁りも何もないことを目視ししつつ先程のことに関して言う。基本的に彼らに無闇に触ることはない。言わずとも、危険が倍増しになるからだ。
それはともかく、隣から視線を感じて見るとやはりゼロである。
「『いたずらっ子』か……図体でかい竜をそういう風に言うとこ聞いたことなかったからな」
言われた通り『子』というには大きすぎるだろうか。
何だかこの灰色の竜に関しては動きが妙に様々で、他の竜に比べると分かりやすい、からかもしれない。
けれどそれ以外に……どことなく彼に似通っている部分があると思うのだ、この竜は。
別にゼロが『いたずらっ子』だと言っているわけではない。それは言えないが、こちらの反応を楽しんでいる分にはどうも既視感があるのだな、と考えたアリアスは思わず口許を少しだけ綻ばせてしまった。
「なんだ?」
「いいえ、何でもないです」
竜は、契約している魔法師の影響でも受けるのだろうかとくだらないことまで考えてしまった。
ゼロは不思議そうな顔をしたが、すぐに笑みを浮かべてついというようにアリアスに手を伸ばした。
先輩は、最後の項目を確認し終えたときに帰ってきた。
「終わった?」
「はい、終わりました」
全て異常なしと記したそれをアリアスは戻ってきたディオンに渡す。受け取り目を通したディオンが「そうだ」と顔をあげた。
「竜、孵ったって」
ぽん、と言われたことにアリアスは目を丸くする。
――エリーゼ曰く「温め」続けていた卵からとうとう竜が出てきた。