8 進路
さすがに王が長く席を外すのは良くない。と、麗しき王が銀髪を煌めかせ去ることを余儀なくされたあとに四阿に残るのはアリアスとジオであった。
「師匠は戻らなくてもいいんですか」
「顔は出した」
それだけでいいものなのだろうか。最高位の魔法師とあろう者が。加えて今回の戦にも行っていたというのに。
口には出さないものの、アリアスがそれらを込めた目線で見ているとジオは何ともないことを主張する。
「俺が姿を消してもどこぞにいるだろうということになるが、あいつがいるはずなのは玉座だぞ。いなければそれなりに目立つ」
「それはそうでしょうけど」
それはともかくあいつ、と王を示すのはいかがなものか。
緊張が解けきったアリアスは知らず知らずの内に肩に入っていた力をようやく抜いていた。
この師に何か言ってももう無理だろう。大広間に彼を向かわせる手段も案もないし、使命感もなかった。
レルルカはあの綺麗な笑顔で怒っていないだろうか、とそんなことが頭に過ったが申し訳ないが仕方ない。
師を見ると、着ている黒い上着を脱ごうとしているではないか。
「何してるんですか」
「窮屈」
「まさか本当に戻らないつもりじゃないですよね」
「俺は冗談は言わん」
言葉少なに返され、そして彼は本当に上着を脱いでしまった。白いシャツに白の糸で刺繍施されているベスト姿になったジオは上着をそれは雑に置こうとするのでなぜかアリアスの方が慌てる。
「皺になります!」
「お」
お、ではない。
思わず立ち上がって手を伸ばしても届かない方向に置かれようとしていたそれを奪い取る。
手触り良い布で作られたそれはまさに良いものであるとすぐに分かるもので、しかし師の背丈に合わせられたもので長くそれでいて結構な重さがある。
ので、引ったくった勢いで華奢な靴の踵が滑った。
「うわ」
もっと単純に言うとバランスを崩した。これだから見守られこの靴を履くときにも不安が過ったのだ。見た目は可愛らしくて女の子であれば憧れる外見はしているが、『春の宴』でも似たような靴をはいたアリアスの頭に浮かんだのは不安定さだった。特に最近は踵のあまりない靴をはいていたこともあり、だから――
「お前が転びかけてどうする」
移動する視界は止まった。
誰かに支えられた感触はなく、本当にただ止まったという感じ。
傾いた身体によってもはや地から離れようとしていた踵、斜めに傾いている身体、はすーっと戻っていく。
アリアスの意思ではなく、自然に。
見えたのは、ジオ。
「……ありがとうございます」
この人は呼吸するように自然に魔法を使う。
倒れかけたアリアスを救ったのはジオであり、彼は魔法を使ってそれを成したのだ。
まずいという感情生まれる前に地に足をつけ安定して立っている状態に戻されたアリアスはひとまずお礼を言った。
自分がこれを巻き添えにして転んでは本当にどうしようもない。師の上着だけでなく身に付けている借り物のドレス類も含め、だ。
手よりも魔法が先に出るとは師らしいことというかなんというか……助けられたものなのでいつものように言えないもので、ベストの前まで開きかけ今その動作を再開させたような師を見ていると、彼の顔が上がり目線がどこかに浮いた。
危なかった、と安堵の息を心の底から吐きつつ席に戻ろうとしていたアリアスもつられてその先を見る、振り向く。
すると、銀髪青目の色彩を持ちちょうど向こうから現れたのは戻ってきた王、ではなく兄弟子であった。
「師匠、お帰りになられていなかったようで安心しましたよ」
「よくここが分かったな」
「実はそこで陛下にお会いして教えていただきました」
「なるほどな」
かつ、と靴音鳴らして四阿に入る階段に足をかけたルーウェンは見つけづらいここという場所に現れた理由を明かし、彼の姿が現れる前にその気配を察知したジオは納得の言葉を返した。
「そろそろ戻っていただかなくてはならなくなっていまして」
「……面倒だな」
「余裕を持って来たのでまだ時間はありますが……アリアス、ゼロはどうしたんだ? あいつと一緒にいるんじゃないかと思ったんだけどな」
「そう、だったんですけど……」
そういえば、ゼロはルーウェンに聞いて自分のところに来たと言っていたのだったか。
そして実際にアリアスはゼロと一緒にいた。少し前まで。少し前に色んなことが起こりすぎてそうではなくなったわけであるが。
「今は席を外しているが、その内戻ってくるだろう」
口ごもっている間にジオが簡単に言った。
「ま、座れ。時間はあるんだろう」
「……そうですね、そうさせて頂きます。アリアスも座ろう」
「あ、はい」
ルーウェンにそっと促されてアリアスは席に戻る。
それから改めて抱えていたままだった上着を丁寧に畳んでゆく。師に渡そうと、身につけずにさっきと同じことが行われることは明白だ。
戻っていただかなくてはならない、というルーウェンの言葉から察するに呼びに来たようなのでジオにはそのとき渡せばいい。
「それで」
いくばくもしない内に口を開いたのは、一気にどうしてその衣装でラフになれるのかというくらい楽な格好になったジオである。
その紫の目は服を抱え直したアリアスに向けられており、アリアスは目を合わせながら言葉の先を待つ。
それで、とは前にしていた会話を繋ぐそれであるがそんな記憶はないような……。
「学園は長期休暇に入ったということだったな」
「はい」
「戦は終わったが、どうする」
どうする、とは。
はじまったのはどこから繋がってきたのかという学園の話で目を瞬き、どうするという言葉の真意も図りかねて首を傾げる。
それが伝わったのかジオが付け加える。
「最低限、戦が終わるまでは預かってもらうつもりだという話をしただろう」
それは、戦の前のこと。
戦が近づき、アリアスは学園に預けられた。他ならぬ、師のつてによって。
そしてその本当の理由は情報を隠すためだった。流行り病、戦。
アリアスに将来のことを考えさせることは二の次で。
でも、それは最低限の期間。彼らがいない間。学園長も言っていた。最低限、アリアス自身が望まなくとも戦の間はその身を預かるということを約束したと。
けれど、編入の機会を与えたのは何も期間限定ではない、学ぶ気があるのであれば卒業までここにいなさいと後から言われもした。
「一応聞く。どうする」
この「どうする」とは、この後引き続いて通う必要は特にない、彼がアリアスを通わせる理由はなくなったが「どうする」ということ。だから、こちらに選択肢をくれているのだ。
そのことを今度は正確に汲み取った。
そうして、その質問にアリアスは迷わなかった。
学園に行ったことは確かに自らの実になった。なっている。同じ年頃の彼らと触れあい共に学び共に生活するということは、大切なことであるということを知った。また、楽しくもあった。そのすべてがこれまで城にいた頃とはまるで異なる感覚。
一度、離れたことのなかった場所から離れて分かる発見。
ゆえに、アリアスが言うことは決まっていた。
「このまま学園に通って……卒業してもいいですか」
このままあの場で学べることを学びたいのだと。自ら進む道を決めたあの場で道を開きたい。
意を込め言うと、ジオはひとつ頷いた。分かっていたが、それを確かに聞いた印というように。それからそれ以上のことを聞くこともなく言う。
「分かった」
と。
「ドローレスにとやかく言われることもないな」
どういう心配だ。という目を師に向けておいた後、アリアスはルーウェンを見上げる。
兄弟子は緩い笑みでもってそれを受け、言う。
「アリアスと中々会えなくなるのは寂しくなるなー」
そうだ。その選択は、アリアスが急に通うことになった期間とは比べ物にならない時間彼らに会うことなくなることを示す。これまでは毎日とはいかなくとも数日に一度は会っていたものを。
けれど、それは。
「でもそれはアリアスの選択でアリアスが必要だと思ったことだろうから」
そう、必要なこと。
優しい雰囲気で同意し、兄弟子は続ける。
「アリアスなら大丈夫だろうけど、何かあったら会えなくても手紙で言うんだぞ?」
もちろん寂しくなっても。と言われるものだからやはり過保護であると思ってしまう。彼はきっとアリアスが学園に再び通い始め城から離れたとき手紙をくれるのだろうと思う。その長さははたして落ち着くのだろうか。
「はい、ありがとうございますルー様」
長期休暇の間に元のような生活に戻ればまた学園に戻ったときに寂しい心地を抱くのかもしれない。その言葉は嬉しいものだからそういう意味もあってアリアスは微笑んだ。
加えて、頑張らなくてはと心に決めもする。師と兄弟子の立場あってそれを汚すことになるわけにはいかないからということもあるが、遥か遠すぎる背中を違う道で追えるのではないかと頑張ろうと思う。
アリアスにとってはじめての魔法師であり身近な魔法師で自らと比べるわけにはいかないくらいに実力ある魔法師。
師においては少し異なるかもしれないが、彼が現在魔法師であることに間違いはないだろう。
学園に行ってそういう見方ができた。
「あ、でもルー様お仕事に支障ない程度にしてくださいね。手紙を送ってくださるのは嬉しいんですけど……」
「もちろん」
そうならいいのだが。
戦前のときにも関わらずに来ていた手紙を思い出してしまったのは仕方のないことである。何しろあれもあって何にも気がつかなかったほど頻繁に来ていたのだ。
アリアスの言葉にすんなり頷いたルーウェンがそこでふっ、と首を少し傾けた。
そして、なぜかこちらに上半身を乗り出して近づいてくる。
「ルー様? どうかしましたか?」
「紅が取れかけてる」
「紅…………あ」
「さすがに俺は直すものは持ってな……アリアス?」
何気ない言葉。
おそらくまさに兄のような目でこちらを見ていたものでその違いに気がついたのか。
本当に何気なく指されたことが普段身につけないものであったために理解遅れ、唇に塗られた赤いそれであることを理解して、さらに何で取れかけているか思い当たることあった瞬時にアリアスの顔がほてってくる。
「い、いえ何でもないです。た、たぶんえぇと、何かの拍子に触ってしまったと思いますはい」
同時に、座ったままでは限度が知れているができるだけ距離を取ろうという本能が働きアリアスはルーウェンとは反対に上半身を後ろに、ぶんぶんと手と顔を同時に横に振る。
赤みに気がついたはずの兄弟子に何でもないということを示す。結構必死だ。まさか、されたことを言うことできるはずない。
恥ずかしくてどうにかなるかもしれない。
死守だ。絶対にこれは。
それ以上聞かれることないようにととにかく言葉を重ねると、ルーウェンは少しばかりぽかんとしていた。
勢いよくやりすぎたか。
顔の赤みよ引け、と思い出してしまいそうになる出来事を頭から振り払いながら滅多に見ない顔をしている兄弟子と顔を合わせる。
目の前の彼は動きを止めてしまっており……はっと動きはじめたと思うと、
「……あいつ」
こめかみをひきつらせたように捉えたが、気のせいか。低く呟かれたのは一言。不穏な声に聞こえた気もしたが、この状況を切り抜けられるかといったことに頭がいっぱいのアリアスには正確な捉えられなかった。
やがて伸ばされた手に挙動不審にもぴくりとなってしまったほどだ。
「そっか、アリアスは普段つけないもんな」
「そ、そうです」
「だからこそこれも新鮮で可愛いけどなー」
「そ、そうですか?」
するりと言われる誉め言葉に呆れる余裕も戻ってこない。
でもどうやらやり過ごせたようで胸を撫で下ろす。
落ち着かなくては。それこそ挙動不審になればおかしいことこの上ないと一旦落ち着いていると、ルーウェンにおいでおいでと手招きされる。
そうされて、アリアスがのけ反り一歩手前であると気がついた状態を戻すと、手が伸びてくる。
「とりあえずのばしておこうか」
「え、ルー様自分でするので、」
言い切る前に唇に親指が触れる。手袋を外していたのはこのためだったのか。
触れてしまっては遅く、アリアスは大人しくされるがままにしておく。なんだか小さな子どもに戻った気分だ。
触れていたのは十秒ほどで、手を離したルーウェンは頷く。
「ありがとうございます」
「うん」
アリアスのお礼に答えたルーウェンはそのまま確認は終わっただろうにじっと見たまま、どことなく真剣だ。
どこか変なところがあるのかな、とアリアスは自らを見下ろす。
「……今回は忙殺されてたからな……だから……、そう考えると今後はどうなるか」
そんな呟きの断片が耳に入ってきた。
「アリアス」
「はい」
顔を上げたアリアスはまた兄弟子と向き合い顔を合わせる。
「ゼロには言ったのか?」
「何をですか?」
「これからも学園に通うということ」
「いいえ」
白い竜と連れ立って行ったゼロはまだ戻ってきていない。それほど時間は経っていないけれど、彼の去った方を窺う。静かに鎮座する植木があるだけ。
彼には今度こそ言っておかなければならない。前は突然で兄弟子にでもあったが彼にも言っていかなかったのだから。
「そうか……」
目を戻すとルーウェンは思案しているような声を出した。
そして彼が顔を向けた方は、
「師匠」
「……何だ」
静観していた、というか目を開けたところを見ると寝ていたのではないかというジオ。
彼に目を向け突然声をかけた。
「そろそろ戻りましょう」
「俺がいなくとも回るだろう」
「回るとは思いますが、それでも今回ばかりは」
「……分かった」
「あ、師匠これ着ていってください」
流れはともかく戻る様子になってきてアリアスは持っている上着を立ち上がって師に向かって差し出す。
大儀そうな目が向けられた。
思いたくないことではあるが、そのまま行こうとしたわけではないだろう。
「それでなんだけどな、アリアス」
「はい、なんでしょう」
やはり師弟というか今だけかどこから繋がってきたかとっさに理解できない繋げ方をされる会話。
受け取ろうとされない上着を師に押し付けきりながら兄弟子を見上げると、立ち上がっていた彼はアリアスに頼み事をする。
「ゼロが行った方向は分かるか?」
「はい」
「じゃああいつに戻るように言っておいてくれないか?」
「分かりました」
「特に急ぐことはない、ゆっくりでいいから。それだけ伝えてほしい。アリアス、時間は気にしなくていいからゆっくりでいいんだ」
「――はい」
それは、兄弟子の気遣いであった。




