22 対話
作業の途中で失礼させてもらって兄弟子に促されて来たのは、さっきまでアリアスがいた部屋から角をひとつ曲がったところにある部屋だった。
ちょっとした休憩が出来る感じの、薄明るいその部屋のソファに座るように示され、アリアスが座ると隣にルーウェンが腰を下ろした。
そして、彼が呼んだのにどこか迷いに類するものが見られる様子でこちらを見て、アリアスもアリアスで待っているので沈黙が続くこと十数秒。
「えーっとな、アリアス。この間、あの場で見たかもしれないもののことなんだが……」
ルーウェンがやっと口にしたのはアリアスが半ば予想していたことだった。
彼はそのことを気にしていたらしい。それから、この様子だと彼はアリアスが気にかかっていることを知っていると感じた。
「どれのことですか」
あの場で見たものなど、いくつもあった。
歯切れ悪いもので、まずそう言うと兄弟子は困った顔をした。
だから、アリアスは、
「ルー様、『魔族』って何ですか」
と比較的当たり障りのないものから聞いてみることにした。
ルーウェンが来てくれて話を言いにくそうにでも切り出してくれたのは、それらに答えてくれる気があるからだ。とアリアスは捉えたのだ。
それは正しかったようで、アリアスの様子を見たルーウェンは落ち着いた声でもはや淀むことなく語り始めた。
質問したことは正しかったようだ。
「その存在は、実は伝承としてはこの国で広く知られている。けれど、それはあくまで伝承に過ぎない形なんだ。誰もがそれはよくある作り話だと思っている。多くの魔法師もそうだ、本でさえその正式な名前は出てこないからな」
彼の声は他に誰もいない部屋で響きの良さを存分に感じられ、そう前置きした。
すっと両の手が手のひらを上に出される。以前、この国の歴史など色々なことを教えてくれていたときのように、彼は話す。
「――かつてこの地には魔族、竜と人が土地を二分して生きていた。竜が善く魔法を使い土地を豊かにさせていくのに対し、魔族は争いを好む傾向にあり土地を荒れさせていった。やがて魔族の魔法が竜と人の土地にまで手を伸ばそうとしたとき、土地に根付いた魔法をその身に受け自らの『力』とした人と竜とが手を取り、魔族を追い払いかの土地ごと空間ごと住む場所を違えることになった」
『魔族』『魔法族』。ゼロはあの青年に向かって『かつてこの地を追われた』と言った。対して青年はそれを『お伽噺』と表した。
――かつてこの地にいたのは人と竜だけではなく悪しき力を持ったものがあった。人――現在の王族の祖先にあたり魔法師の走りとなった『人』は竜と手を取り合い、害なる邪悪なものを地から追い払った。建国に関するあらゆる本に記されている『伝承』に出てくるその邪悪なものは実在したのかどうかは甚だ不明であった。
しかし、それは確かに存在していたという。
漆黒の髪。深紅の目。魔性を感じざるを得ない雰囲気。あれが、その『邪悪なもの』だと言うのか。
けれど、その漆黒の髪は。
「『魔族』の正式名は『魔法族』。……俺たち魔法師とは人の中で魔法が使え、魔法を生業とする者の総称だ。でも、人は人だろう? だが、魔族、魔法族は違う。数は人より遥かに少ないが、残らず人とは比べ物にならないほど強大な魔法の力を持っていて……不老長寿とされる」
存在そのものが魔法のように、身体に魔法が満ちている。名前はそれに依る。
ルーウェンは手のひらをしまって、前に向けていた青の目をアリアスに向けた。アリアスは俯いていた。
他とは比べ物にならない、規格外の魔法力。年齢のわりに外見年齢が若すぎる。少なくともここ十年で言っても少しも老けていない。不老。
それだけの特徴。けれど、十分な特徴。当てはまる人物を一人だけ、知っている。
語られたことと自分の考えを擦り合わせると、やはりぴったり合っていて考えの正しさを知る。その事実は本来なら目を見張るほどのもので、でも心は必要以上に波打つことなく落ち着いていた。
「師匠と、何か話したか?」
穏やかな声が隣からそっと尋ねてくる。
魔性の青年は師と同じ漆黒の髪を持っていた。師の他に誰も持っていなかったはずの色彩を。
あの色味の少ない空間でそれを見たことを、ルーウェンと共に現れていた師はおそらく知っている。
「いいえ」
けれどもジオはいつも通りだった。二日前もその次の日も最近続く会議から帰ってきたかと思えば、だらりとソファに寝そべりぼやく。何ら変わった様子なく話す。
それは今日になっても変わらなかった。
「何も。師匠も普段通りで、私も何も聞かなかったので」
「この際俺が言ってもいいんだが……どうする?」
ルーウェンは何をどこまで知っているのだろうか。彼は否定もしなかったが肯定もしなかった。だが、この時点で何らかの繋がりがあることは暗に認めていると言えるだろう。そんな申し出をされる。
「いえ、いいです」
アリアスはルーウェンを見上げ、その目と合わせてはっきり断った。
どんな関係かはあるだろう。けれど、あまりに師は普通だった。それがアリアスを落ち着かせた。
「待ちますから」
今まで言わなかったということは、それなりの理由があると思う。そして、あの場でアリアスが見たものを知っていて言わないのには。
それに、その昔、自らに手を差し伸べたその人がそれと同じものだとはどうしても思えなかった。あの人は、あの不気味な深紅の目を持っていない。魔法も黒い光ではない。
「……そうか」
「はい、師匠は面倒くさがりですからね」
「うん。そうだな……大丈夫、師匠は師匠だからな」
「はい」
確かな共通点はあって、兄弟子も肯定している部分があって、それでも異なる部分も確かにある。それだけで悪しきものなどではない。と思うのは勝手だろうか。
それより、もうアリアスは短いとは言えない期間師の姿を見てきたから、過ごしてきたから何であってもいい気がする。綺麗事でも何でもなく、今のアリアスがあるのは師のお陰の部分が確かにあるのだ。今まで見てきている師の姿が全てだった。
話題のわりには和やかな空気となり、かつて『邪悪なもの』を追い払った『人』の末裔はアリアスの頭を撫でた。
「あと、もうひとつなんだけどなー」
さっきより言いにくそうにルーウェンは話題を引っ張り出してきた。顔にさえ言いにくさが出ている。
それにより、アリアスは彼が言いにくさを抱くもうひとつの話題を容易に推測することが出来て、ぎゅっと手を握り合わせた。
「――ゼロにはあれから会ったか?」
その言葉は本当に滑らかに耳に入ってきた。
「……いいえ」
アリアスは目を伏せて、ゆるゆると首を振って否定するしかなかった。
「あいつの眼帯の下、見たのか?」
「はい」
目を閉じると、思い出される。橙の片目。
アリアスが肯定すると、ルーウェンはわずかに黙した。「そうだよなー……」と微かに聞こえた気もする。
「何か言ってたか?」
と次いで問いかけられたことに、息を浅く吸う。
「……『人じゃないって言ったら、どうする』……と」
自分で口にした瞬間、露になった左目を含め目は翳っていたことも思い出す。
謝られもした。何に。誰に。
ああ何だろう、とてつもない不安感。師の話のときとは全く異なる。
数日顔を見ないことなんて、それこそ『普通』にあることなのに。
あの日、ゼロはすぐに姿を消してしまった。アリアスが再びその姿を目にする前に。おそらく、意図的に。
あの空間で、あの距離でさえ手が届くかと不安に駆られたというのに……。
握りしめた両手に目を落としていた。この手を届かせるべきだった。言葉が出なかったとしても。どうしてこうも――
「あいつは……」
と隣で兄弟子が声低めに呟いた。
出会ってから長い時も経っていなくて、でも確実に近い存在になっていた。それなのに、突如、糸が途切れた感覚に陥る。それが、現状。
「ゼロ様に、会いたいんです……でも、会ってくれて……話をしてくれるでしょうか」
話、とは根掘り葉掘り聞くことじゃない。単に、言葉を交わしたいと思った。伝えなければならないと思った。何を伝えるかなんて、思いついてもいないのに。
長く泣いた記憶はないのに、何だか泣きそうになった。
「なのに、どう会いに行けばいいか分からなくて。――ルー様、」
「うん」
「謝られたんです……私……どうして、ゼロ様は、」
「うん」
優しく相づちを打っていたルーウェンが、徐々に意味を成さなくなってきたアリアスの声が詰まるとその背に宥めるように触れた。
それから、横からふわりと柔らかく腕を回され、とん、とん、と背を触れるだけくらいに叩かれる。幼い子どもをあやすそれの力加減。
間近で耳に入るのは、昔から歳の離れた妹弟子の扱いが上手い兄弟子の落ち着いたトーンの声。
「どっちも悪くないんだよな。ゼロはあいつにとって不測の事態が続いて結局ああやって姿を眩ませてしまった、アリアスは今こうして後悔して、足踏みしてる。それは悪いことじゃないんだ。――たぶん、ここから先過ごしていたとしても必要になっていたことだろうから」
紺色、ほぼ黒に近い視界の中、アリアスは言葉だけに耳を傾けてごちゃごちゃ考えていなかった。ゆっくりと息を吐いて吸っていた。
「まー、安心はしたかなー」
「何の、ですか?」
「それは秘密だ」
アリアスが聞き返したことで平気だと感じたのか、ルーウェンは身と腕を離した。
「落ち着いたか?」
「はい、大丈夫、です」
「アリアスは強いからなー」
覗き込んでくるルーウェンの目は一度そこで逸れて、何やら軍服を探りだした。一分経たない内に何か取り出した。
「アリアス、これ持っていてくれるか?」
それはアリアスの手に渡った。手渡されたのは、台座のついた魔法具だった。
思わずきょとん、として言われるままに受け取った手の上の魔法具を見たあとアリアスは兄弟子を見上げたが、彼は緩やかに笑みを浮かべている。それと、どことなく任せておけというような笑顔と手つきで頭を撫でられた。




