20 人ならざるは
どこからともなくその姿をするりと男の隣に現したのは漆黒の髪の青年だった。その頭の上には小さめのシルクハットが乗っていてストライプ柄のリボンがぐるぐる巻き付いている。
男よりは背が低く、体格も良いというほどではない。細身なくらいだ。衣服は真っ黒。
だが、シルクハットの影から覗くのは妖しい深紅の瞳。見たこともない色彩。
不思議というよりも妖しく不気味で、この空間で一番存在感を放っている。
「お前が――出たな」
「嫌だな、すごく冷静な人間だ。もう少し反応が欲しいのに面白くない」
青年はその目を細めて、一言反応したゼロに向かってつまらなさそうな声音で言った。
けれど一転、シルクハットを頭から取って唇で弧を描く。にんまりとした笑み。
「それはともかくごきげんよう、とこんなときは言うべきなのかなあ」
けらけらと笑い声。
それもまた、アリアスが男と城の通路にいたときに聞いたそれ。この青年だったのか。
でも、どこから。影がその形を型どったのは見ていた。けれど、どういうことなのか。
それに、その色彩の意味は。
「やっぱり絡んでると思ってたんだ。これでやっと全部完全に繋がったぜ」
ゼロはやっとかと言いたげにため息をついた。
「すごい納得した顔するな。これもさすが団長殿、なのかねェ。動じるところが中々見られない」
「犯人が魔族だと考えると目的が分からない。レドウィガ国の仕業だと考えるとどうやって竜を弱らせることが出来たのか分からなかった。まさか魔族が人間と手を組んでるとは思わねえだろ」
「竜ね。あれはね、最初は魔法詰め込んだ石だけ置いていけばいっかって思ってたのにさ、寄ってたかって溶かされちゃったんだよ。ほんと、僕が敵だって本能的に分かったんだろうな。面倒だけど、ムカついたから辺りに僕の魔法の力を充満させてじわじわ苦しめてやろうと思ったのさ。竜ってあんなに弱かったかな? まあいいや。で、ほどよく弱ったところでそんなにゆっくりしてる暇はないとか言われたから魔法石を地中に埋めて、一日経ったら死んでるの確認しに行こうかなって思って……。魔法石ってこういうのには便利だよね。というか、手を組むっていうより、僕が見たいものと彼のやろうとしていることが合っただけだよ」
「見たいものだ?」
「それは……内緒みたいだね」
ちらと魔性の青年は横の将軍を見やって、肩をすくめた。将軍であるらしい男が首を緩く振ったからだろうか。
「まぁ、そのための前準備で力を貸してあげようってことで色々やったよ。竜のことを含めてね」
やれやれ、と次はシルクハットをぽんと頭に乗せながらさっきからいたように自然に話を始める。
「そもそも魔族はかつてこの地を追われた――正確には空間ごと住む場所を違えることになった。それに、お前らはこの地に宿る魔法の力を嫌い受け付けず降り立てないはずだ」
「そのお伽噺、どれだけの時が経ってると思う? 綻びは出てるみたいだよ。ま、確かに僕たちはその地の魔法の力は受け付けない、だから興味も大してもたない。おまけに出入り口がその地にしかないから困ったものだ。僕は運が良かったんだよね、彼に宿借りしてるんだよ」
「魔族を取り憑かせてるさせてるってのか」
「正解。おおむね、ね。それにここは場所の概念がないところだからね。僕が道を開いたこともあって、まだ僕自身が出てきやすい場所に近いわけ。それよりさあ、『魔族』なんて俗っぽい呼び方止めてくれる? 『魔法族』と言ってくれない?」
魔性の青年は辟易した表情になった。
「失礼しちゃうよ、省略してるなんて理由じゃなくて勝手に邪悪なもの扱いするんだから。本当の魔法を宿すのは僕らだっていうのにさー」
実に表情の幅が広く、人間臭い。『人間臭い』と思うことにアリアスは違和感を覚える。
見ているほどに頭の中で、身体の中で何かが叫ぶ。あれは人よりほど遠いものなのだと。滲み出る雰囲気が物語り、男よりも危険だと察する。
では、あれは何だというのか。
さっきから当然のように飛び交っている『魔族』とは、青年を指していることはうっすら分かるけれど。その名前は妖しげで、青年の異質さを増幅させる。
微塵も臆することのないゼロの背後にいると、この――内容はさておき、互いに他に何をするでもない――『普通の会話』のこともあって身の危機は感じない。ただ、不安は胸の中にあり続ける。
この会話がいつまでも続くはずはない。そして、終わったときどうなるのか。
その間に、その終わりへと会話は向かおうとしていた。
「正気かお前、魔族に身体貸すなんて」
「会ったばかりのあんたは知らないだろうが、俺は目的のためには手段を選ばない種類の人間なんだよなァ」
魔性の青年の隣でへらりと笑い唇を歪める男も、どうも会ってからの言動で非道な部分があると感じているからか不気味だ。
「竜をも殺せるッて話だったからその力を使うためには宿貸してる俺が来るしかなかったというわけさ。あとはついでに情報収集、混乱を起こすため。ほとんど俺一人が働いてるよなァ。さァ、これで無駄話は終わりだ。ちょっと無駄な時間を過ごしすぎたかな」
男はぼやきを交えて、しかしそれまでと同じ声音で話を終え始める。
「団長殿、あんたひとつ大きな間違い犯したよ。人間じゃ出来ないことをする力を持ってるなんてことが分かってたら呑気に話してる場合じゃなかったと思わないか? あァ、だからといってここから出られるはずもなかったか」
ゼロは黙ってその目で男を見返す。未だ、微かな揺れも見てとれない。
だが、男の兆候のような言葉によって、より隙なくなった気がする。
「ほんと俺は無駄口叩きすぎたな。あまりにも色々バレてたから面白かったな、ハハハ。それで? あのお嬢さんは残しておけばいいのか」
「あ、そうだ君だよ君」
突然、話の矛先が今まで何も会話に加わることはなかったアリアスに向けられる。加えて、青年の深紅の目も向けられた。アリアスはばちりと存在感ありすぎる目と合ってしまい息を詰める。かと思うと、ゆらりと見えていた姿が消えた。
気がつけばすぐ側に闇は、闇色を持つそれは来ていた。漆黒の長い癖毛が波打つ様が目の端に見える。
アリアスは一歩後ろに下がり、軽く顔を仰け反る。
「……あ、」
「他に嫌な気配がまとわりついてたから、よく分からなかったけど。確かに慣れ親しんだ気配がするんだよね。今分かったよ、それからだ」
少年と青年の間をさ迷う顔つきが迫る。弧を描く目、前にその深紅の目があり、アリアスの姿が映る。
「すごく気になる。魔法の質が変わっちゃってるけど、きっと表面だけだ。最近見ないと思ってたらどういうことだろう」
囁き声と同じくらいの小ささの一人言。すぐ側で耳に入る声は毒のように染みていく感覚をもたらす。
魔性に輝く目も声も全てが『力』を持ち、アリアスの動きを支配する。それから、その雰囲気は思わず息を止めるほどの濃さ。
魔法を使うことが出来る者として、眼前に存在するものの魔法の力の底知れなさを漠然と感じることとなる。
『魔族』『魔法族』――その称され方の詳細は分からないものの、青年がそうであると称されたそれがしっくりきた。まるで、『魔法の力』そのものだと。
アリアスはそんな考えが浮かんで、背筋に震えが走る。
「それに、あの地にいるなんて思えないのに」
青年が触れたのはアリアスの手首にある、腕輪。それがバチっと青年の指を跳ね返した。
「あれ? 参ったなあ、これは」
そのことを感じ、青年の声が耳に入ってはいたがぼんやりと麻痺したように理解することが出来ていなかったアリアスははっと現実に返ってきた錯覚を抱く。
気配? この魔法具は。
改めて認識した、目に実際に映る漆黒といつも目にしている色彩が重なる。世にも稀な色彩。その漆黒を見たのは青年で二人目――
「離れろガキ」
低く威嚇するような声。同時に青年の首に突きつけられているのは刃。間を区切られた風に感じてやっと目を離すことが出来たアリアスがそれを辿って仰ぐと、ゼロが気づかぬ内に腰の剣を抜いてそうしていたのであった。
それに対し、青年はおやという顔をしたが、にんまりとした笑みは絶やさない。刃などないみたいに平気な口を叩く。
「残念、僕の方が目一杯年上だ」
「触るなって、言ってんだよ」
躊躇いなく、魔法の光が走った剣の刃が魔性の青年に向かって素早く滑らされる。
「嫌だな、短気だ」
間近で魔法の光が弾けた。
「将軍、あれの処理はしてよ」
「あんたがしろよ、お嬢さんごと殺してもいいのかァ?」
「それは遠慮して。ここじゃあ僕だって本調子出ないよ」
「出なくても勝てるんだろ。魔法族っていうのは我が儘だな」
「力ない者は力ある者に従うべきだとは思わない?」
「はいはい、ご協力感謝してますよ。もうすぐお望みのもの見せてやるよ」
「当然でしょ。僕はそのために君に手を貸してるんだから」
息がかかるほど近くにいた青年は一瞬の内に男の横へと戻っていた。けらけらと笑っている。
「アリアス、あんまり離れんな」
「は、はい」
青年が割って入って出来ていた距離はゼロがぐいっとアリアスの手を引いたことでなくなる。
そこから今までの不自然なほどの普通さが失われ、一転して魔法の光が弾け合う。一方は剣を収めたゼロ、もう一方は……聞こえてきた会話を合わせて考えると将軍の男だろうか。
ひとつずつ飛んでくるわけでなく、絶え間なくいくつも飛ぶ魔法はかなり強いものだ。おそらく当たれば相当の衝撃を受けることとなるくらいにしか推し量ることが出来ない。
しかしながら、それらの魔法はひとつもこちらに届くことはない。全てゼロが相殺し、同時に攻撃もしているのだ。
隣国の『将軍』――グリアフル国で言う団長の地位にあるという男は彼と互角にやりあっていた。
少しでも注意が逸れたならばどうなるか、とどれほどの広さか想像もつかない空間に途切れることなく瞬く前方の光から目を離さずにアリアスは息を潜めていた。
「将軍か……結構厄介だな。先にさっさと仕留めねえとな」
とゼロが呟いた直後、一際大きな光。彼が放った魔法の威力が増す。回数は変わらず、威力だけが格段に上がった。
微かに聞こえた言葉の通り、一気に仕留めにかかっている感じ。
しかし、ゼロが押していき言葉が現実となる前、
「あは、人間もやるね。将軍、やっぱり手伝ってあげるよ」
にんまりとした笑みが頭に過る声。
途端答える声はなかったが、白の光の中に黒の光が混ざった。
黒い光。普通魔法師が魔法を使う際に発されるそれは白。例外があるのは、王族だけが使うことが出来る結界魔法の清らかな青の光だろうか。
けれど、黒とはあまりにも、正反対ではないか?
魔法の威力が同じくらいで飛んでくる、その相手が二人になったことにより、アリアスは心配になる。
いくらゼロとはいえ……。
見上げた先ではゼロの顔が無言で険しくなっていた。
「……」
でもきっと、アリアスが手出しをしたところで魔法を相殺することも敵わない。
呼ぶことだってはばかられる状況だ。唇を噛む。何も出来ないことを噛み締める。その背の後ろに隠れていることしか出来ないことを。
が、緊迫感増す油断ならない戦闘の最中、ゼロがちらとこちらに目を向けた。
そのとき、確かにその目はアリアスを捉えそれから翳ったのは――
「ゼロ様……?」
目が合っていたのはそんなに長い時であるはずもなく、灰の色彩は前方を見据える。
アリアスはついゼロの名前を小さく呼んだ。呼ばずにはいられなかった。ここに来てから彼のあまり見ない様子を見ている。危機的状況への不安ではなく、そのことへのわけもない不安が湧く。
それとほぼ同じくしてゼロが右手を上げて、顔の辺りでむしりとるような仕草をしたと見えた。
何を。
次いで、これまで動作など何もなく魔法を放っていた彼はにわかに反対の手を動かした。手は真っ直ぐ、男たちの方に向けられる。
時を同じくして、白い魔法の光と黒い魔法の光と半分半分であった光が黒の方が強くなる。
とうとう、ゼロの魔法の間を縫って、または威力で打ち勝ってそれが通り抜けてきた。
それが、アリアスの元へ届くことはなかった。
ゼロの差し出した手のひらからめらりと現れ、勢いよく放たれたのは炎。大きな、鮮烈な橙の魔法の炎。
その炎は向かってくる黒い魔法と拮抗し、ほどなくして飲み込む。他の魔法ごと飲み込む。
刹那、飲み込まれた黒い魔法が、溶けた。 どろり、と視覚的に映ったのは気のせいではない。
その後、魔法を飲み込み終えた炎はその身を細くして空間に紛れ、消えていく。そして、空間は味気ない色味に戻る。
それなのに、さっきまで魔法が飛び交いぶつかり弾けていたことが嘘のように、どちらからも魔法の光は発せられない。
物音も立たず、誰も動かず。
時の流れが、失せたようだった。
「……何だ君、僕の嫌いな魔力持ってるじゃん。わからなかったなあ、――人間じゃないなんて」
沈黙がそれほど続かずして口を開いた魔性の者は今までよりは一段低い声を出した。
その声は最後に至るまで、音の失せた空間ではますますよく通り、聞こえた。
「……魔法が、溶けた……って……」
アリアスは目の前にあった光景を呆然と口に出す。
この光景を、最近見たことがある。あまりに不思議で、記憶に残っている。師の魔法を無効にしてしまった、ということもあって。
あれは魔法で灯したただの火ではない。灯りを提供するためのものではない。
魔法を溶かす。それを為したのは、魔法の生き物。
声に反応してなのか、攻撃の手がない――というより攻撃の気配が一時的にか失せてしまった――こともあり彼の顔が振り向くことが窺えた。
その動作はゆっくりに目に映った。
あの眼帯の下は、本人に直接聞くこともなく職業のこともあって怪我をしているのだとアリアスは思っていた。ソフィアをはじめとする周りの噂で何となく耳に入れていたこともあった。
まるで気にならないこともあって、彼に聞こうと思ったことはなかった。
「なあ、アリアス」
今や、いつも眼帯に覆われていた左目は覆うものなく露だった。ただし、予想していた傷などひとつもない。
だがひとつ、無視できないもの。輝き。
その目は、見たことのある色彩をしていた。しかし、彼の右目と同じ灰色ではない。青や緑でさえもない。
橙色。夕暮れを思わせる、あの魔法の生き物も持っている目。
「俺が、人じゃねえって言ったらどうする?」
そう、竜特有のあの色。
その目は哀しげな感情を表していた。
左右の目の色が異なる、というだけでも驚くほどのこと。けれど、さらにその片方が『人』が持つ色彩でなかったとすると――
「はー、へえ本当分からなかったなあ」
にんまりとした歪んだ笑みの表れた声がするものの、アリアスは夕暮れの左目を持つ彼から目を離せない、そのままだった。
だが、視線の先の彼は哀しげなその目をふいと逸らした。
「……悪い」
なぜ、謝るのか。
理解が出来なくて。
距離的には近いほどなのに、変わらないよに一気に遠く行ってしまった気がして。
でも、何もかもが上手く理解出来ていなくて。
とっさに伸ばした手さえ、届くのかどうか――
「アリアス!」
突如、時が固まったような空間、視界の右端で目映い白い光が発生した。
反射的に我に返ったアリアスは名前を呼ばれてその光の方を見る。
「ルー、様?」
姿を現したのは紛れもなく兄弟子だった。
ルーウェンは現れるや否や、アリアスの姿を捉えて名前を呼んだのだった。
「良かった、無事だな?」
「ルー様、どうしてここに……」
「それは後だ。というかゼロ、お前まで……」
駆け寄って来る彼はその表情を安心したものに変えたが、数秒のことですぐに険しげなものとなる。
こちらに到達する間際、ルーウェンが声を途切れさせることと共に足取りを一時だけ止めたように見えた、がその背後で強烈な白の光が瞬いたことを視線だけで確かめて再び足を進める。
端から見ても分かるほど強い魔法を放ったのはルーウェンと一緒に現れていたジオだ。彼は離れているままで、そして近づいてくる兄弟子でちょっとしか姿は見えなかった。
「ルー先に戻れ」
「分かりました!」
ただその声が届き、ルーウェンがアリアスたちの元へ着いた頃に顔だけ振り向いて返事をした。
「出るぞ」
ルーウェンが握った手のひらを開いた。そこに現れたのは目に鮮やかな紫の魔法石。
彼の手のひらに収まるほどの大きさのそれから、魔法が光と共に溢れる。魔法はあっという間に三人を包み込む。
「……ん」
眩しい。と閉じていた目を少しずつ開けると、太陽の光が降り注ぐ、黄緑の鮮やかな芝生が広がっていた。とても鮮やかに映った。
何もなく、広さも定かでなく、味気ない色味の空間はもうそこにはなかった。ピピピピと鳥のさえずりさえ聞こえる環境。
戻ってきた。とアリアスは感じた。
どこであるかは判別出来ないが、おそらく城の敷地のどこか。
強力な空間移動の魔法で戻ってきた。
「……戻って来れたな。アリアス大丈夫――おいゼロ?」
兄弟子の声でそちらを振り向いたときには、ゼロの姿はなかった。
「あいつ……」
ルーウェンが後ろで呻き混じりの呟きをしたが、アリアスの耳には入らず半ば呆然と彼がいたはずのその場を見ていた。
ゼロはもうこの場にいなかった。
ルーウェンの様子ではさっきまでそこに、共に戻ってきたはずで。けれども、いないということは、彼が移動したということ。
「……」
アリアスの頭には、数多くの視覚情報が渦巻いていてわけが分からなかった。
でも何よりも、引っ掛かるのは。
魔法を溶かす炎。橙色の目。竜と同じ色。
『俺が、人じゃねえって言ったらどうする?』
翳った声で作られた言葉。
逃げるように魔法で消えた姿。