2 二週間経った二人は
手にはずっしりとした重みを感じる書類。言わずもがな、ジオの処理したものだ。
ジオの部屋から出て、アリアスが歩くのは同じく城の中。しかし、師の部屋がある場所とは少し場所を違えた通路。
「よお、アリアス」
「ぜ、ゼロ様」
たった一つ、自分の足音だけが響いていた中。
突如声をかけられたアリアスがおっかなびっくり反射的に振り向いた先に立っていたのは、アリアスよりも二、三十センチは高い身長の男。
にっと浮かべられた笑みはどことなく野性味を感じさせるもので、それが浮かべられている顔は端整なものだ。現れたのは、灰色の髪をした、顔にある眼帯が存在感を放つ男性――ゼロだった。
アリアスに見上げられたゼロは急にその身を少し屈める。気配もなく現れる、おまけに今度はぐっと近づいた姿に少女は瞬く。
「おはようアリアス」
「お、はようございます」
自然な手つきですくいとられた横髪。それはすぐにするりとその手から離される。
「朝から会えるとはな、俺はついてる」
「そ、そうですか……」
目の前のゼロの口元の笑みにはいつの間にか甘みが加わっていて、近くで見るのには少々心臓に悪い。アリアスは手に持つ書類の重さなど今は感じず固まるのみだ。
「どうせならこのまま連れて帰りたいくらいだぜ」
それは困る、その空気にどうすればよいのか分からないアリアスは目をさ迷わせる。
朝から何だ、この心臓に悪い空気は。
前は論外。横は窓と部屋。後ろしかないか、と何をするつもりか自分でも分からずに頭をぐるぐると回しすぎながら考えていると、
「……くっ」
「ぜ、ゼロ様?」
前では、身体を起こしたゼロが片手で顔を覆っていた。身を震わせている。これは、
「何で笑ってるんですか!」
急に笑い始めた。
笑われているのは自分しかいないと理解するアリアスは、別の意味で顔に朱を入れながら言う。
その場にあった空気は霧散していた。
「だってよ、アリアス、動揺しすぎ……。あー可愛い」
「……な、」
くっ、とその口元の笑みもただの突発的な笑いの形になってしまっている。どうやら面白いまでに動揺したアリアスの様子がツボにはまったようだ。
対してアリアスは突然現れ、突然整いすぎた顔を近づけられ、突然笑われて少しご立腹である。だが、何でもないように言われた言葉に口をぱくぱくさせる。
『春の宴』から今日まで、ゼロと会うと今までと一転なぜかこういう――心臓に悪いというか、恥ずかしさが勝るというか――とりあえず、どうすれば良いのか分からなくなる行動や言葉を言ってくる。
まるで、『春の宴』での言動が続いているような。おまけに本人は本当に何ともないように言ってくるものだから……。普通に日常会話に入れ込まれてくることも何かと心臓に悪い。
まさかこれが通常運転なのか。兄弟子も兄弟子で何だかさらっと恥ずかしくなってくるようなことを言うこともあったりするが、それは慣れた。それは慣れているはずであるが、人が変わると……。
目の前のゼロはこちらに眼帯に覆われていない方のただ一つの灰色の目を細めて向けているが、どうもまだ笑ってはいる、と思う。だからアリアスはその隙に行ってしまうことにする。
「……ゼロ様はそこでずっと笑っててください。さようなら」
「待、て待て待て待て。誤解すんなよ? アリアスに会えて嬉しいっていうのは間違いじゃねえんだから。な?」
「な? じゃないですよ。知りません」
「悪かった。だから待てって」
「あ! 返してください!」
「重いだろ、持っていく。どこに持ってくんだ」
「……レルルカ様のところです」
笑いを収め、アリアスの手から軽々と紙の束を奪ったゼロは、その名前に苦い顔をする。
「あのババ……おっとレルルカ様のところか」
「聞きましたよ。嫌ならいいんです、私の仕事ですから」
「持っていくって言ってんだろ。どうりでここにいるわけだ」
再び歩き出すことになった通路には今度は二人分の靴音が響く。
さっき音もなかったのはゼロが足音を忍ばせていたのだろう。どこからアリアスの姿を見つけていたのだろうか。
驚きやら何やらで早鐘を打っていた心臓は静まっていき、アリアスは言葉に甘えて隣を歩く。返してくれないことはもう分かっていたからだ。
「ゼロ様は今日はなぜお城に?」
「早朝から会議があった。ただの定例会議だけどな」
ゼロは魔法師で構成されている騎士団の内、白の騎士団の団長を勤めている。その格好は騎士団の紺色の軍服というもので、襟章の色は所属騎士団を表す白。
その立場のため、城での会議に出席していたらしい。
「ああそういえば、ジオ様来てなかったけどどうした?」
「……え」
アリアスはそこで前を向いて見ていなかった、ゼロの顔を凝視する。
話題に上がった会議は騎士団だけの会議ではなかったらしい。もしかすると、高位の魔法師と魔法師の騎士団団長だったのか。どれでもいいが、ジオが出席するはずの会議であったことには間違いがないようだ。
「すみません、ただの寝坊です……」
今も城の部屋にいるであろう師を思い出しながら、自分のことではないがやりきれない気持ちになる。
「相変わらずだなジオ様は。レルルカ様怒ってたぜ。いやあれは怒ってたっていうよりも、他のじーさん共含めて諦めてたな」
「そうですか……」
じーさん発言は置いておいて、アリアスはため息をついた。これから行く先はそのレルルカの元なのだが、何だか申し訳なくなった。もちろん、そんなアリアスのせいではないのだが。
「わざわざありがとう、アリアスちゃん」
あれから二人がほどなくして着いた部屋には一人の女性がいた。本日は若草色のドレスに、結い上げられた栗色の髪。いつもながら美しいレルルカだ。
「書類は確かに受けとりました。それで、なんだけれど」
「師匠のことですね」
「そうね」
にこり、と浮かべられた笑みはこれまたいつもながらに綺麗なものだ。その姿は本当に若々しいものであるので、中々四十代だとは信じられない。ゼロ曰く、「頑張った若作り」これは前に師も言っていたような気がする。まったくもって失礼である。
アリアスには、ジオやおそらくゼロが彼女を苦手にしているのかが分からないのであった。
そのレルルカの綺麗ではあるが、どこか異なる色を纏った目の前での微笑みにアリアスは背筋をより伸ばす。さっき聞いたばかりの師のサボりの件が頭に過ったからだ。
「あら、たいしたことではないのよ? 今朝はどうなさったのかと思って。ここ最近連続なのよ」
本当にあの師は何をしているのか。
「伝えさせて頂いておきます」
ただのサボりなので。
「ありがとう。助かるわ」
「何か……すみません」
「あらやだ。アリアスちゃんのせいじゃないわ全く」
綺麗、だけの微笑みに戻ったレルルカにアリアスは滅相もないと首を振る。
ところで部屋に入ってから、気配をないくらいに消し黙っているゼロを見上げると、気がついたゼロは眉を上げる。レルルカに話しかけてこられないようにしているようにも見える。それほど苦手か。
「ではレルルカ様、これで」
「ええ、ありがとう。ゼロ団長も」
「いえ、アリアスを手伝ったまでですから」
結局ゼロが口を開いたのはこれだけだった。
「ゼロ様、手伝ってくださってありがとうございました」
「ああ」
「あ、あの?」
レルルカの部屋を出て、アリアスは手伝ってくれたゼロにお礼を言う。返事が返ってきたはいいが、髪をすくいとられた時と同じくして自然に手をとられる。
触れたのは、確かな人肌。包まれたのは、自分よりも大きな手。加えて、灰色の色彩と目が合う。
それらを感じた途端、顔が熱くなってくる感覚もした。鼓動が少し早くなる。最近馴染み深くなってきた感覚だけれど、全く慣れない。そこまで強く掴まれているはずもないのに、動けなくなる。
「アリアス」
ゼロは一歩アリアスに近づく。名前を丁寧に呼んで。
もう片方の手は、自然にその髪に触れる。
そこは、今朝会ったときと同じ。
けれども、硬直体勢のアリアスには取られた手によって何だか違う行為に見えた。
そしてその予感は正解で、髪を一筋すくいとった長い指はそのままでは終わらずにアリアスの目線ほどにまで上げられ、そのまま髪に流れるように口付け……
直前。
ガキン、二人の間――ゼロの顔すれすれに壁に短剣が刺さった。
「ゼロ、何してる?」
短剣を一思いに投げて突き刺したのは、軍服姿の男だった。しかし、その襟にある襟章の色が白であるゼロとは異なり、青だった。
横の通路から出てきたのはルーウェン。アリアスの兄弟子である。その口には、緩やかな笑みがあった。いつも通りには見えるが、注意して見ると口の端がひきつっているように思える。
「……ルーか、見て分かんだろ」
アリアスから手を引っ込めたゼロは横を向いて、彼を認識して笑う。
その間に素早く彼らの元へ来たルーウェンはゼロに歩み寄る。
「分かりたくねーよ、馬鹿が! 俺のアリアスに何してるんだよ!」
「何がお前のアリアスだ。あ? ただの兄弟子だろうが」
「うるさい、大体なとっさの攻撃に反応できなかった奴なんて……お前剣は?」
「おう、忘れた」
「剣は常に携帯してろって。部下に示しがつかないだろ」
「悪いな、気を付ける」
壁に浅く刺さっていた短剣を引き抜き、腰にある剣の横の鞘に収めたルーウェンとゼロの会話は段々とずれていき、最後にはずれた話題に落ち着いてしまった。
本当だ、ゼロの腰にはあるはずの剣がない。
「……じゃない。アリアス、大丈夫か? 何もされなかったか?」
「ルー様……大丈夫ですよ」
突き刺さった剣からの展開にぽかんとしていたアリアスであったが、ルーウェンにこちらを向かれて目を瞬かせた。
短剣が刺さったことへの恐怖感はなかった。やった本人がルーウェンであったとすぐに認識したためだ。眉を下げてしまった兄弟子の問いに笑って答える。
「そうか?」
「そうです。それよりルー様おはようございます」
「うん、おはよう」
「ルー様も会議だったんですか?」
「ああ。終わってから途中でゼロとは分かれたんだが……」
ゆるり、とその口元に笑みが現れたかと思いきや、側に立つゼロを見て半目になる。
「ルー、顔」
「誰のせいだ誰の。お前は……騎士団に戻るぞ」
「おう。――アリアス、またな」
「はい、お二人ともお仕事頑張ってください」
ひらひらと振られる手を見送ってから、横髪を耳にかけて、また彼女も歩き始める。今度はゆっくりと。
「ゼロ……」
二人揃って歩き出した騎士団団長たちはと言えば、並んで前を向いたままルーウェンの方が口を開く。
もちろん、今からする話題の関係上十分に距離を歩いてからだ。
「何だよ文句あんのか」
「あるに決まってるだろう。お前な、」
「分かってるって。触っちまったら、何か……入った。まずいな、気を付けねえとやりすぎる」
「…………」
頭をかきながら、さすがに決まり悪げに言われたことではあるが、ルーウェンはとっさに言葉が出なかった。
彼らの話題はさっきのこと。ゼロの行動である。二週間ほど前、ゼロは三度目の正直とばかりにアリアスへの告白実った即日、ルーウェンに話したことがある。曰く、『まあそりゃ俺だって一番最初で逃げられてるからな。学んだ。性急すぎるとまずい。徐々にいって……』まとめると慎重に行くということだ。何しろアリアスは明らかにああいったことに不慣れだ。いくらゼロの気持ちが逸ろうと、彼女が遠ざかってはどうしようもない。だから、
「表情がころころ変わって戸惑うところもいいよな、ってところで我慢してたんだけどな」
こちらが笑うと怒っているようだが全く怖くないところも。赤くなるところはもちろん。
真顔でそんなことを言われたルーウェンもまた、
「すこぶる心配になってきた……」
「何だよルー、何か言ったか?」
「お前がやりすぎないか心配だからアリアスに近づけたくないって言ったんだよ」
「そりゃあ兄弟子の立場の乱用か?」
「何とでも言え」
真顔で一人ごちた。
最近隣の友人の変化にやっぱりついていけないし、それはいいが恋愛が不馴れな妹弟子に本当にやり過ぎないか心配になった。
「加減が難しいな」
「絶対挫折するなよ、ゼロ」
した瞬間に彼がどうするのか、ルーウェンには想像がつかなかった。つきたくもなかった。