25 手をとるは
正直、階段を下りたくなかった。アリアスは滅多に履くことなどない華奢な靴で恐る恐る階段を一段ずつ下りている。上るときは暗くてそれはそれで気を付けなくてはならなかったが、下りは下りで灯りが満ちていようとも踏み外せば転げ落ちそうでより気を使う。
主に階段だけを一生懸命見ているが、ちらりと時おり前方を見ると、先をのんびりと下りていく師の背中で隠れていない、下りていく先は様々な色が集まっている。
あの中に行くことは気が重い。『広間を出るのなら早めにした方がいいわ、毎回『灯火の娘』の子はダンスにひっきりなしに誘われるのよ』頭を過るのは直前にレルルカが言ったこと。
だがどうしたことか、一番奥にある階段から下りたばかりのアリアスからは当然出入り口は一番遠い。
……いやいや、大丈夫だ。きっとほとんどの人はジオに寄って行くはずだ。しかし、万が一のことがあったらどうする。まさか彼らは今年の『灯火の娘』中身が、正式な魔法師でもなく貴族でもないダンスなんてろくに踊れない娘だとは思っていないだろう。
なぜ一番緊張することをやり遂げたのに……。アリアスはため息が洩らす。視界に靄をかける薄いベールが揺れる。階段はあと数段。直に着く。
「……いないな」
やけにゆっくりと階段を下りるジオが何かを呟いた。羽織っていたローブを取って、もはや手に持つことも面倒なのか右肩にかけている。その目がどこを見ているのかは、後ろを行くアリアスには分からない。けれども、きっと現在いる階段の位置から言って遠くまでは見通せないだろう。
そして、階段が、終わった。
「レディ、ぜひ私と踊ってください」
「いえ、私と踊ってくださいませんか?」
瞬間、予想外にも囲まれてアリアスは目を白黒させる。それと共にあっという間に、今までそこまで距離の空いていなかったジオとの距離が若干広がる。
あちらはあちらで一気に倍の人数に囲まれている。その横顔には愛想笑いの欠片もない。逆に面倒そうな色が目に濃くなったくらいか。確かにあの師がこんな場とはいえ、にこにこ笑っているところなど予想も出来なかったわけではあるが……、とそんなことを考えている場合ではない。
ベール越しに見える世界は、人ばかりでろくに周りが見通せない狭いものだった。
ぽつり、胸の中にあった不安が大きくなっていく。それと、焦り。どうすればいいのか、というもの。
笑顔でこちらに迫ってくる人。人。差し伸ばされる手。手。
アリアスは知らず知らずの内に一歩後ろに下がる。こつんと踵に当たる固い感じで、階段が後ろにあることを思い出す。そういえば、階段を下りてからさほど動いてなかった。階段を上がることは、さっきのこと以外では基本的に許されない。本当にどうしたものか。
「さあ、最初にベールを取らせて頂けますか?」
「いや、あの、ちょっと……」
アリアスは目をうろうろとさせて両手を前に舌が上手く回らない。出すべき言葉が思い付かない。頭は回っているが、意味もなく回っているだけで白紙そのもの。
「レディ?」
「すみません、私は……」
せっかく誘われてもダンスなんて踊ったことがないし、踊れない。それにこの場は自分にはどうも華やかすぎる。目までもが、回りそうだった。実際回っているかもしれない。ベールで顔が隠されているからだろう、期待に満ちたような顔でこちらを覗き込んでこられるのも何だか……。
やっぱり何がなんでも断ればよかった。と今日何度思ったか分からないこと。思っても仕方がないことを思う。加えてやっぱり、広間を出るなら早めにした方がいい、という助言をもらっても出られたわけはないとも思う。
「うぅ」
アリアスは必死であれこれ考えながら、意味を形作らない時間稼ぎの言葉の合間に唸った。視線は現実逃避気味に下がってきていた。
そんなとき、前の人の集まりが薄くなったような気がした。そう、前だけ。疑問に思ってふっ、と視線をあげる。
「失礼、私と踊って頂けますか」
他の声が途切れ、かかった声。見知らぬ声ではない、と思った。薄い布越しの視界、最初に映ったのは白の手袋。次いで、周りにいた人々の服装とは明らかに違った正装。何かにデザインが似ている。
最後に、真前に現れたのは見知らぬ人ではなかった。
「……あ、」
「ジオ様、借ります」
一気に視界が、暗い色に覆われた。真っ黒、と錯覚しそうなくらい濃い紺。アリアスは近くにいるようで、人に阻まれていた師の着ていた衣装のローブだ、とだけは理解した。それから、光が一瞬近くから発されたことも。
目を瞬き次に目を開いたときは、周りの環境はがらりと変わっていた。
まず室内ではなかった。周りを十分に照らすきらびやかな光とその下にひらめいていた人々の身に付ける様々な色はなくなり、そんな場所からすると暗かった。当たり前だ。真っ暗な夜空の、光と言えば月の光の元のみだったから。
夜風でふわりとベールが微かに浮く。
藍色がかかっていた視界の端が一瞬だけクリアになる。
真っ白な輝きが見えた。色を追っていくと、左手の方に一面に広がる白。花。花だ。
「まさかとは思ったが、空間移動の魔法を込めてるとはな……。使っておいてなんだけどよ」
すぐ近くでぼやく声。視線を前に戻すと、そこにいたのは、軍服を模したデザインの正装姿のゼロだった。人々の間からやって来たのは、確かに彼であったのだ。
「ゼロ様……」
ふと現れ、いきなりすぎる場所の変化に半ば呆然としながらもその姿を認識して名前を呟く。
「魔法具自体はルーにもらったんだけどよ、びっくりしただろ」
「ルー様に?」
いつもの紺色の軍服姿ではないからか、どこか新鮮なゼロは手に何かを持っている。言葉からして魔法具であるようだ。空間移動の魔法、だから瞬く間に外へ。
ルーウェンにもらった、ということは兄弟子が頼んでくれたのだろうか。今日彼の姿は見ていないが、ジオから『灯火の娘』のことを聞いていたのかもしれない。自分はレルルカに秘密、と言われたから誰にも言っていないのだから。
とにもかくにも、自分をあの場から連れ出してくれた。
……助かった。というのが最初の感想だ。
「まあそれはそうとして脱出成功、だな」
手にした魔法具をポケットにしまいながら向けられた顔は笑みを浮かべていた。にやり、としたその笑みに張り詰めていた気が緩み、アリアスもつられて笑ってしまう。
「ふふっ、脱出って何ですかそれ」
「あんな堅っ苦しいとこから出るには脱出ってのが合ってるだろ」
どうもゼロも師と同じかどうかは別として、パーティーのような華やかな場を好まないのだろうか。心底そう思っているような声音だ。それもまた、笑いに拍車をかける。
緊張から一転して、場所からして開放的になったことでアリアスはすっかり肩の力を抜いていた。やはり、あんな場でそれも知らない人ばかりに囲まれるのは、肩に無駄に力が入って堪らなかった。
「でも、ありがとうございました」
「……ああ」
見上げた先のゼロの目が細められた。ドレスと同じ色の薄い布を通して合っているはずの目は、正確な色が認識できない。ただ、その目は真っ直ぐにこちらを見ていることは確かだった。ばちり、と視線が交わって口に手を当てて笑っていたアリアスは静かにその動きを止める。
時間の経過が、急にゆっくりになった気がした。
おもむろに伸びてきた手によってベールを取り去られる。何十分ぶりにか、視界が開けた。そうして、直にその灰色の目と合う。アリアスはそっと息を飲む。
そんな少女にゼロは細めたままの眼差しを注ぐ。
「似合ってる」
流れるような動作でとられた髪の部分はつけ毛であるはずなのに、アリアスはなんだか落ち着かなくなる。
それは、相手の格好が違うことも作用しているのか。騎士団所属であることを示す正装を着こなし、異色の眼帯をつけた顔立ちが気にならないどころか凛々しさが増すようなのは。
心臓が早鐘を打ち始める。顔が何やら熱くなってくる。口が、広間にいたときとは別の理由で上手く動かなくなる。けれども、目はさ迷わせることはなく、出来ず、真摯な光を見返すばかりだ。
「――あ、りがとうございます」
絞り出せたのは、それだけ。
それでもゼロはどこか穏やかな笑みで手にしている髪を一筋するりと流す。それから、
「ちょっと歩くか」
アリアスはドレスの色よりも濃い色の手袋をはめた手をとられ、花の咲き誇る庭に誘われるままに足を踏み入れる。
華奢な靴は相変わらず歩きづらいものだったが、ゼロがゆっくり歩いてくれているのと支えてくれるような手があることでまるで不自由は感じなかった。
花が植えられている間に設けられた小道を歩いていると、花の押し付けがましくない微かな香りが鼻を通り抜ける。
花たちは満開だった。元々この時期の花たちは一様に『春の宴』に最盛期が迎えられるようにと育てられる。まさに、今夜が一番美しい時であるだろう。目の錯覚であるか実際そうなのか、銀色を帯びているようにも見える。雲一つかからずに星の瞬く中、一際存在感を示す真ん丸な月の光の影響であるのだろうか。
「綺麗ですね」
去年は見られなかった花たち。アリアスの嬉しさも倍である。ため息をつきそうなくらい見事な光景に目を奪われながら、口許が緩む。本当に、どこを向いても純白の花々が目に映る。
そういえば、ここは城のどこの庭なのだろう。パーティー会場から出てこれたとろこで気にしていなかったが、どれくらい離れたところに移動してきたのだろうか。花を眺めていたアリアスはぐるりと花以外の周りの景色を見渡す。
そこで気がつく。この庭確か――、
「……ゼロ様と初めてお会いしたのは、もしかしてこの庭でしょうか?」
庭に関して言えば、城の中で特別な庭というわけではない。こうやって普通に入れるくらいなのだから。
そうではないのだ、ここは、あの日アリアスが水やりをしていた庭。あの日ゼロがどこからともなく現れた庭だ。衝撃の登場が同じ場所に来て頭の中に甦る。おまけに、ちょうど今歩いている辺りだったのではないだろうか。
思わず夜空も見上げてから、アリアスが呟くように言った。
「そんなこともあったな。あのときは悪かった」
「花の上に現れたことですか?」
「ああ、もう少しで庭師に睨まれるところだったぜ。正直助かった」
第一印象は、花を踏み潰した人。
わざと言うと、その人は苦笑いした。
それから、
「それと、その後のことも」
その言葉で、庭に視線を戻しかけていたアリアスはとっさにゼロを見上げた。
その姿が、格好は違うはずなのに頭の隅にあったらしい記憶と重なりかける。
「話、聞くだけ聞いてくれるか?」
*
彼はこの庭で一人の少女に一目惚れした。
けれどもそれは、そんなに最近のことではなかった。そう、彼が空から下りてきた日ではない。加えて、アリアスとは直接顔も合わせなかった。
「半年くらい前、ルーを探してた」
半年前、この庭に訪れた。
今、ゼロの目はただ前に広がる見事な花たちに向けられていた。月光の下でそれはそれは白の花が特に透き通ったように浮かび上がる。光を受けて、より美しく。しかし、頭の中に浮かび目に映るようなのは、純白の花ではない。
「そのときは、一面黄色の花だったな。それまでどんな色の花が植えられてたかなんて覚えてねえよ。けど、そのときのことは覚えてんだ」
城の庭には、四季折々色々な花が咲く。途切れることなく咲く。庭だけでなく、あらゆる場所に飾られる花もその時々で変わる。
だが彼は花に興味を持つたちではなかったし、毎年移り変わるそれらを一々認識しているわけでもなかった。
「探してた当のルーはいた。俺はすぐに声をかけようとした。けど、止めた。大した理由なんてなかった。ルーと一緒に誰かがいたからだ。
あいつが女といるのは珍しい。だからとっさに声かけるの止めたが、待ってる義理もねえからやっぱり声をかけようとした。そのときに、」
顔が見えた。それは楽しそうに笑って、その笑顔を親友に向けていた。彼は気がつけば、足を止めていた。目を奪われていた。その少女だけを見ていた。彼女の周りに咲く花がやけに鮮やかに色を持った。
その目に映りたい、と唐突に思った。
しかしながら、彼の目の先に広がるのは二人の仲睦まじい様子だった。ルーウェンもパーティーで浮かべているような笑顔ではないとゼロには分かった。緩い笑みを口元に、ルーウェンは笑いかけていた。少女をとても大切に思っているとはたから見て分かるほどに。
「そのときは妹弟子だなんて知らなかったし、名前も知らなかった。だから……ルーに嫉妬した」
初めて味わう気持ちを持てあまし、ゼロはその場を去った。瞼の裏から、頭の中からどうしても離れない光景を抱えたまま。それから、ルーウェンに会ったとき何とも言えない複雑な思いがあるのを感じた。彼は、それに対しては目を逸らした。自分が自分でも理解できなかったからだ。
だが、それからほどなくしてまた二人を見かけることとなった。城に勤めているのだろうか。自分もまあ団長になってから城に足を運ぶことが増えたので見かけなかったのだろうか。それとも、本当はすれ違っていたりしたのだろうか。
「いつの間にか、目で追ってることに気がついた。気づいたときは正直……やべえなって思った」
何が? 色々だ。一人言のように話すゼロは、昔のように思えるそのときを思い出して軽く笑ってしまう。
そんな感じが続いていた日。けれど、いつかは落ち着くだろうと思ってもいた日々。
あの日が来た。
うっかり竜に下ろしてもらうことを忘れたゼロは巣へと帰る竜の背から飛び降りた。魔法で減速すれば怪我なんてしないだろう。
下りた先はまさにこの庭。
少女をすぐ目の前にした。驚いた。花を治癒するとき、少し大きすぎるような麦わら帽子の下から現れたのは彼女だったのだ。
不意討ち。いざ目の前にしたとき、何かが内側から溢れ出す感じをどこかで覚えた。
『好きだ。――結婚してくれ』
ぶっ飛び過ぎてる。確かにそうかもしれない。自分だっていきなりあんなこと口走ってしまうとは思わなかった。それに今冷静に考えてみると、第一印象は最悪だったろうによくあの状況で言えたものだ。
だが、だ。どうもいざ目の前にしてしまって蓋を無理矢理閉めていたみたいに溢れだしてきた。いつかは落ち着くだろうなどと、無意識の内に言い聞かせていただけだったのかもしれない。ルーウェンのことがあったから。
そのときにまた実感した。これほどまでに惹かれていたのだと。これが『一目惚れ』なのだと。半年前の感覚はそれゆえだったのだと。
その後、その少女の名前が『アリアス』といい、友人の妹弟子であることが発覚した。その晩、ついつい本音をルーウェンに滑らせてしまったことは記憶に新しい方だ。
会ってしまった以上、目で追うだけでは満足できそうにもなかった。だからといって下手に直視すればまた何か口走ってしまいそうだった。
だが、それももう止めようか。自分らしくない。というよりも、我慢に限界があるだろうと思う。すぐ近くにして、ここまで『普通』の行いが出来たのもルーウェンに言われなくとも信じられないほどだ。確かに逃げられる、ということが異常なほどにダメージが来るということが分かったこともあるが。
つい先日抱き締めてしまったことは仕方がない。焦ったものは焦った。安心したものは安心した、だ。
それにルーウェンが自分に頼んだということは、良いということだろう。
意外とアリアスの兄弟子である友人の言葉を守り続けていたゼロはそうやって頭の中で結論付ける。
そうしながらも、話しつつもゆっくりゆっくり進めていた足を止める。同じように止まった少女の方を向く。
手にしたままの手はすっぽりと覆ってしまえるほどに小さかった。その手を改めて感じて、ゼロは微かに一度だけ震える。これは恐れなどではない、緊張でもない。
こちらを見上げる少女の姿が彼の目に映る。『灯火の娘』のドレスの藍色は少女の白い肌によく映える。地下通路で彼女が負った傷は綺麗に消えており、安堵する。ベールをとって現れた顔は化粧を施してあり、流してある髪は一番長い部分で腰ほどまである。
ベールをしていれば、全く分からないはず。けれども、真っ暗な会場に現れた『灯火の娘』の姿に、流し見しようとしていた彼の目は一気に惹き付けられた。 ああ、彼女だと訳もなく確信した。
一目惚れなんて、自分がする前は嘘っぱちだと思っていた。一時的なものだと思っていた。だが、どうだ。
彼の目は、今、熱を秘め真剣そのもので少女を見つめる。頬に微かに朱を帯びているような少女を。
「――アリアス」
彼の声は、それはそれは丁寧に少女の名前を呼んだ。




