21 間一髪とはこのこと
「……ん?」
アリアスが手探りで、かなり慎重に確実に階段を登っていたところ。段差が見えるわけでもないが、下を向いていた目を上げる。何か、聞こえた。時間のわりにどれくらい登ってこられたかは分からないが、次の段に差し掛かろうとしていた足を止める。
すると、何の音がどこから聞こえているかがおそらく分かった。たぶん靴音。それが行く先から。そう、アリアスが登っていっている階段の上からだ。
「……誰……?」
目線を上げ、目を細める。捉えたのは、真っ直ぐ続いていく階段の、こちらよりも高い位置に浮かぶ赤と橙色の合間の色のぼんやりとした光。コツ、コツ、という固い音と一緒にそれはどんどんと近づいてくる。
アリアスは近くなるにつれて揺らめく火を目にしながらも考える。
誰が降りてきているのだろうか。騎士団の人か。巡回? でも、そもそもこの地下通路は魔法師の最高位と騎士団の団長しか知らないはず。ではあれは。ここに来るとすれば、ジオやルーウェンだろうか。だが、ジオではないだろう。
「誰だ? ブルーノ団長……じゃ、ないな」
間に数段をおいて鉢合わせることとなったのは、軍服を身につけた三十代半ばほどかと思われる男性。襟章は黄色。そこまで判別してから、男性が持っているろうそくの光によって照らされた目と合う。こちらを認識して、みるみる内に厳しい顔つきになる。声にもその感情が浮き出ている。
「召し使いか……? いや、そんな者がここにいるはずがない」
「……えぇ、っとですね」
あれ? これは何かすごくまずいんじゃないだろうか。と立ち止まっていたアリアスは気がつく。
今、この人ははじめに何と言った。『ブルーノ団長』
ゼロが地下で遭遇した人物の正体を教えてくれた。『あれがブルーノ=コイズ、俺の前の白の騎士団団長でまさに今指名手配中の男だ』
この目の前の人は、人影を見て迷わずにその名前を出した。
そこまで考えて、アリアスは冷や汗が出てきたことを感じる。
「お前は何でこんなところにいる。誰に言われて来た」
階段は二人やっと通れるほどの幅。しかしながら、目の前の男は中央に身体が位置している。軍人ゆえか、無意識に退路でも絶っているのだろうか。灯りがないために触れていた右の壁よりに立っているアリアスはちらりと男の横の隙間を見るも、どうも通れそうにはない。
男が一つまた段を降りる。アリアスは下がることは出来ずに固まる。
この男はおそらくというより絶対にブルーノ=コイズの仲間だろう。さあどうやってこの場を切り抜けるか、それが問題だった。
前は不可能。後ろへ階段を駆け降りるか。転げ落ちる可能性と、それからその前に捕まる可能性、さらにはその時点で疑いが確信に変わるだろう。だからといって、城の召し使いだと言っても、ここにいるところでもう疑いは拭いきれないだろう。あとは……戦う? それもまた無謀極まりない。どれほどの魔法の使い手かが分からない上に、これだけ至近距離であると腰にある剣が気にな……
「う……っ」
無意識に一つ段を降りかけたそのとき、アリアスの息が詰まる。同時に背中には固いもの。首に何かがまとわりついてきて、喉を圧迫する。男の手が首を捕らえ、壁に押し付け圧迫しているのだ。
行動に移すまでの予備動作はほぼなく、アリアスからしてみればまさに瞬きする間の出来事だった。とっさに自分の首の辺りから伸びる腕を掴むが、びくともしない。それどころか、そんな抵抗をさせる暇も大して与えない内にか、
「ブルーノ団長を探しに来たのか。どうも上の方が動いていたことは知っていたが、何だお前は何かのカモフラージュか? どうでもいいか」
その言葉の最後と共にアリアスは恐怖を感じる。息苦しさの中、その原因である手に力が籠ったことが分かる。単に手に力を入れたのではなく、魔法の力。
首を絞める力を弱めようとしている場合ではない。本能的に悟って、男の腕を掴んでいた手を離す。その判断も一瞬。指を鳴らす音が響く。目を力いっぱい瞑る。首に熱が走る。光が弾ける。
「ぐ……っ!?」
魔法を放つ際の小さな光ではなく、むしろ一時的な強烈な光を目的とした魔法の光。ぼんやりとしたろうそくの火だけだった空間に光がぱっと満ちる。正確に言えば、アリアスと男との間に発生し、すぐに消える。だが、男の目を眩ますには十分だった。
「は、あ……どこのだれのお仲間かは知りませんけど、どうも簡単に人のことを殺そうとしすぎだと思うんですけど」
思わず手を離して目を押さえている男。高めの音を立てて階段に落ちたろうそく立ては辛うじてその場に残った。火は魔法でつけられたものなのか、揺らいだがまだその姿を残している。
何十秒かぶりに吸えた空気を吸いながら息を整えるアリアスは、突然訪れた確かな命の危機にいつもの倍くらいに早く打つ心臓を抱えながらもぼやく。自分を落ち着かせるためであり、感じた恐怖を誤魔化すためでもある。最近も首は絞められなかったが、似たようなことがあったのではないか。震えているのとわななきが混じったような手で首に触れる。
自らが魔法を放つ寸前、感じた熱。明らかにこちらを傷つけるための魔法。その状況をどうにかするのに、攻撃の魔法を放とうとしていたら遅かったかもしれない。
押し付けられていた壁に背をつけたまま、未だ掴まれた感触の残る首をさすり続ける。ひりひりとした結構な痛みがあるものの、そうせずにはいられない。
そうしながらも――幅が幅だけに大して離れてはいないが――さっきよりも距離の空いた呻いたっきりの男から目を離さない。おそらく、この男はしばらくは目を開けてもろくに見えないだろう。かくいう自分も目の前がチカチカしているんだから。
目を押さえて腰を曲げてうずくまる寸前の体勢の男を絶えず見ながら、アリアスは一瞬だけ目線を横に向ける。階段の上。今なら、と足を動かした直後。
横を風が通った。それから、金属が硬いものに当たったような耳障りな音がすぐに耳に入ってきた。
「どこへ行くんだ。逃がさないぞ」
「……え」
目を戻すと、足元から照らされる男の姿。その手にされた剣が、アリアスの横にまで続いている。その距離、指二本分ほど。僅かな誤差はアリアスが多少動いたことによるのか。
そもそもその位置に剣を突き刺せたのは、アリアスの立てた微かな音を辿ったのか、元々の位置を思い出してのことか。前者であるのならば、かなりの軍人である。一気に表情が動かなくなるのを感じる。
「……当たらなかったか。まあいい、じきに目も慣れる」
「うそだ……うわっ」
「それまでに仕留める。逃げられると思うな!」
絶対に上へは行かせないという気迫。人には知らせさせないという気迫の乗せられた剣が振るわれる。こちらも必死だが、あちらも必死。目がよく見えていないからか、大きく振るわれる剣を躱す。場所がないので、しゃがむことくらいしか出来ない。避けられて何も切り裂かなかった剣は壁に当たる。また耳障りな音が響く。
それが三度。それから、その高さに獲物がいないことに気がついた男が今度は下に向かって剣を振る。間一髪、しゃがみこんでいたアリアスは尻をつけたまま階段を一二段降りて剣を回避。またも耳障りな音が響き渡る。
そんなことをしていると、いつの間にやら位置関係が戻っている。男が上段に、アリアスが下段に。男が上へ逃れられることを一番に怖れて、その位置を陣取った。
下段で立ち止まり、振られる剣を注意深く見たままのアリアスは焦る。
このままではまずい。
けれども、元々この場を照らす光は少ないものの多少は視界において有利であるアリアス。時間をおかせてはそれこそ、さっきの二の舞になると相手に向かって攻撃の魔法を使う覚悟をする。
殺されるのは、嫌に決まっている。
とにかくこの場から逃げる。決めてしまえば行動は早く。
だが、いつものように指を鳴らす直前、躊躇する。ここは平らな地面ではない。階段だ。もしもこの人が段を踏み外してしまったら、この階段を転げ落ちるだろう。そうすれば、死――? 過った考え。
しかしながら、自分の命の危機である。それに受け身くらい取れそうな感じだ。とすぐに気を持ち直して指をこすり合わせる。音が鳴り魔法が発せられることと、
「そこか!」
「う、そ」
剣が迷わずにこちらに突き出されることは無情にも同時だった。
やはり、音を聞き取って居場所を割り出していたのだと思う。鋭い切っ先を本能的に避けて、刃を逃れる。それは良かったが、方向は悪かった。刃が向かってくる方とは真逆に身を引いた瞬間、アリアスの身体はバランスを失った。簡単に言えば、階段を踏み外し、足場がなくなった。
身体が後ろへ傾いでいく感覚のゆっくりなこと。足を踏ん張ろうとしても、無駄なこと。放った魔法が男に当たるが、肩。おまけに躊躇したせいで威力がさほどなかったらしい。若干よろめいた程度だ。
そんな光景をどうすることも出来ずに見ることの絶望感。ふっ、と何もかもをも考えることを止めたくなったのは防衛本能だろうか。
次に来る衝撃を予想してしまって顔をしかめるが最後――、
「――あ、ぶね」
聞いたことのあったような言葉が聞こえたのみで、予想した地面に叩きつけられるという想像したくもない痛みは訪れなかった。訪れたのは、決して壁ではない地面ではないものに背から迎え入れられた感じ。足は地につき、落下する妙な感覚はなく、景色は固定されている。
「……え、あれ?」
「無事か?」
それに何だかさっきよりも明るくなっている。灯りが増えている?
降ってきた声は上からではあるが、もちろんつい先ほどまで自分に剣を振るっていた男ではない。聞き慣れてきた声の主。
「……ゼロ、様…………五分、経ちました?」
「経ってねえかもな。ギリギリで済ませたらカッコ悪いだろ」
アリアスを受け止めたのは、ゼロだった。見上げた彼の斜め後ろには魔法の灯りがふわりふわりと浮いて、その場に光を提供している。どうりでさっきよりも明るいと感じたはずだ。
見当違いな言葉を発したアリアスの様子に、ゼロは安堵の笑みを口の端に表す。
「そういう、問題ですか」
「そういう問題だな、俺にとっては。怪我は?」
「お陰さまでありません……」
ゼロに支えられ、階段にしっかりと立ったはずではあるがアリアスは足から力が抜けそうになる。
驚いた。これ以上ないほどに驚き恐怖を覚えた。落ちたかと思ったし、落ちると確信していた。剣に貫かれるのと、落ちるのがどちらがいいかと言われればまったくもってどちらも選べないが、問答無用で落ちてさらには剣か魔法で止めを刺されるところだった。
「それならいいんだけどよ、大丈夫か?」
「大丈夫です。安心しまして……少ししたら落ち着くかと」
アリアスは思わず壁にもたれてしまいながら、ゼロに力なく首を振る。大丈夫だ、という意味を込めて。しかしながら、
「ちょっと待て」
「……え、あ、え?」
「これは何だ」
突如、ゼロがこちらに手を伸ばす。片方は頬の下辺りに添えられ、顔を少しだけ上げさせられる。加えて腰を軽く落としたのか傾けられた顔が下から覗き込むようにぐっと近づく。
突然のことにアリアスは一転して戸惑いの声を洩らす。何だ何だ、とすぐ近くの整った顔を見ていたが、どうもその目が顔の下の部分に向けられているようであることを察する。
「あの……いたっ」
「悪い。……皮膚が」
「皮膚?」
「すげえ赤くなってる。火傷か?」
もう片方の手が首に触れた、という途端に痛みが走る。ぱっと思い出す。あと少しで首を絞められたまま魔法を放たれるところだったということを。感じた確かな熱を。
「魔法の――この痕、まさか絞められたのか?」
疑問で言われたはずなのに、首を覗き込んでいた目がやけに確信じみてこちらを見る。思い出していた光景と言葉が重なり、ぎこちなく息を吸ってしまう。
すると、真っ直ぐにこちらを向いていたゼロがおもむろに触れさせていた手を離し、屈めていた腰を伸ばして立つ。すぐにその顔は高い位置へと戻り、身体の正面を真っ直ぐに階段の上段の方向へ。
「で、お前はここで何してるんだ?」
発された声は普段と変わらぬ声音であった。壁に背を預けたままのアリアスはその視線を追う。その先にいる男は何度も何度も瞬き、下段を見下ろしている。その視界はもう元に戻ったか。だがその表情は驚くほどに固い。焦りと驚きと緊張が入り交じっている。
「……ゼロ団長、あなたまでここにいるとは」
「俺がいることがおかしいか? いや、もう無駄話はやめにしようぜ。俺はお前の名前は知らねえが、おそらく名前は『フレイ』ここに隠れていたブルーノ=コイズに会いに来たな」
淡々とした言葉が連ねられ、その最後にゼロが一段階段を上がる。直後、男が決定的な場面に現れた騎士団団長に感じていた緊張に耐えきれずに手の剣を投げつける。魔法を放つ。
「くそっ!!」
しかし、ゼロは魔法のかかった剣を手を切らないよう平らな部分を掴み止める。ばちっとその手によって魔法が相殺されて光が一度弾けて消える。その切っ先から顔までの距離は数センチのみ。それから同時に魔法に魔法をぶつけて相殺――することに終わらず、威力が衰えず相手に飛び込む。
「ぐあ……!!」
男が上に軽く吹っ飛ぶ。ゼロがすかさず階段を素早く上がり、距離を詰める。もう一度魔法を放つと、男はびくりと派手に動くがそれからはぴくりぴくりと小さな動きをするのみ。意識はあるようだが、上手く身体が動かないのか。頭を打ったのか、ゼロが身体を痺れさせでもしたのだろう。
そんな男に悠々と歩み寄るゼロは受け止めた剣をその間に持ち直す。それから、男の側に立ち止まり自然に剣を持ち上げ、下ろ――
「ぜ、ゼロ様!? どこ狙ってるんですか……!?」
下ろされる先が明らかであったために、アリアスは力なく壁にもたれて始まった一方的な展開をただただ目を見張って見ていたのだが、よりその目を見張って身を乗り出すことになる。
「そこ、心臓に刺さっちゃいますよ!」
「ブルーノ=コイズは捕まえたから問題ねえ」
「そういう問題ですか!」
心臓の真上。剣の切っ先が位置したところはそこだった。逃げられないようにするにも他があるだろう、と前のめりになる。ゼロの本気か嘘か分からない言にも驚くしかない。
「さすがにそれは冗談ですよね……」
「いや、さすがにこれは冗談言わね、」
恐る恐る尋ねると、ゼロは手を止めて振り向いた状態でこちらを見て、口を閉じる。そして、一度下を見て、またこちらに目を戻す。
「まあ、確かに保険はいるな……」
と呟く。
手にした剣をベルトに差し込み、ズボンのポケットに手を突っ込んだかと思えば屈んで、
「うぅ……」
取り出したものを男に向かってどうしたかまでは見えなかったが、呻き声がする。階段の中央に立っているアリアスは、どうなっているんだと様子を窺おうとする。が、その前に立ち上がったゼロがこちらを向く方が先だった。そのまま降りてくるので、後ろが見えないこともあって尋ねることにする。
「あの人、大丈夫ですか」
死んでませんよね。とりあえず、最後に何をしたのかが気になりすぎる。
するとすぐに一段上までやって来たゼロが何ともない風に軽く答えてくれる。
「死んでねえよ、魔法封じだ。これは一応しとかねえとな。情報源はあるだけいい、生け捕りにして役に立たないことはないだろうからな」
「そうですか……」
どうやら、もう呻き声の一つも聞こえてこないが、生きてはいるようだ。まさか、という疑念が晴れたアリアスは息をつく。
「それより、自分よりもこいつの心配か? なあ、首絞められたんだろ」
殺されかけたのにさすがにそんなわけではない、とアリアスは否定しようとした。しかし、灰色の目と目がぶつかってさらには近づいてくるそれに声が出ることはなかった。
気がついたときには、魔法の灯りがあるはずなのに目の前は真っ暗だった。いいや、正しく言うならば紺色だろうか。それからその隣には白。軍服と同じ色のベストと白いシャツ。嗅ぎなれない匂い。頬に触れるのは、シャツ越しの温もり。
アリアスは目を丸くするのに合わせて身体が固まる。抱きしめられて、いる。それくらいは理解できる。
「すげえ焦った……」
これまでにないほどに近くで聞こえる声。
どきりとする。その距離だけでなく、その声音に。
心臓が命の危機にあったときとは別の意味で早く早く鼓動を打つ。
しかし同じくして眉が下がる。そろり、と目だけで見上げた先、頬にはすっぱりと切れた一筋の傷。血は拭ったのか、そのあとが残っている。さっきの戦闘で出来たものではないはずだ。まさにゼロの一方的な展開だったのだから。ならば、考えられることは、ブルーノ=コイズの方へと戻って戦ったときしかない。
自分も怪我をしているくせに、なぜこちらばかりを。
そんな声で、心配してくれるのだろうか。
「……ゼロ様こそ、自分の心配してくださいよ……」
ぐるぐると回り始めた頭の中から絞り出せたのは、そんな言葉だった。
冷たいばかりだった地下通路で、確かにアリアスはその温かさに安堵した。