32 当然の存在
朝の当番で、竜の全身を診ていたとき何気なく上を向くと、穏やかな気性の竜が静かに空を見上げていた。
空を厚く覆う雲は今日も白い雪を降らせ、空よりもたらされた白いものは地面にうっすらと積もっていた。
竜の鱗の青い色味は主と同じ青空の色のはずが、曇り空の下でそう見えるだけか、若干輝きが優れない気がした。
「……ルー様に会ってないの?」
小さく話しかけると、おもむろにアリアスを見下ろした青い竜はどこか物憂げに橙色の瞳を伏せた。
「……そっか……」
アリアスもあれ以来ルーウェンに会っていないから、気持ちは分かる気がする。
冷えすぎた空気が頬に刺さり、痛い。冷たいとは思うけれど、アリアスの中で何かが鈍ってしまったように、身体が震えることはなかった。
*
ルーウェンがいない。
つい最近も兄弟子とは会わない、見かけないことが数日続くことはあり、職場の違いと彼の仕事もあるのだろうと思っていた。
だが今、その事実が与えてくるものはここ最近とはわけが違う。
容易には処理することが出来ない話を聞いて四日、騎士団でもどこでもルーウェンの姿を見ていない。
「――出席して下さいと、」
「あれが結界をかけ直し封じる、その事実を確認するだけの会議だろう。内容は分かった。俺は寝る」
「ジオ様!」
レルルカの声の後返されるジオの声は聞こえず暫く、心なしか憤然とした足音が鳴り、遠ざかっていった。
脇の通路にとっさに避けていたアリアスは、去っていくレルルカの背中を見送ってから、元の通路に足取りを戻す。
晴れていようと落ちかける夕陽があと一足二足も届かない、城のジオの部屋がある通路。
聞こえてきていた声の片方のジオが消えたはずの、閉めきられた扉の前に立って耳を澄ませても中から声はおろか物音一つ聞こえてこない。
魔法でどこかへ飛んでいなければ、ここに入ったはず。扉をノックしても中から返事はない。
レルルカは足音を立てて去っていったのに、彼女だと思って警戒しているとでもいうのだろうか。それとも魔法でどこかに飛んでしまい不在か。
返事がなかったことに、かつて朝に師を起こしていたときのようにアリアスが構わずノブを捻ると、扉は難なく開いた。この時点でもまだ、ジオが中にいるかどうかは判断不能。師は不在にするからといって一々鍵をかけていくほどのマメさは持ち合わせていない。いつでも鍵は開きっぱなしだ。
部屋の中には本があった。積み重ねられた本は例の文献。
しかし、明るさの関係で辛うじて見える部屋の中に積まれている本の量は、前に見たとき埋め尽くさんばかりだった記憶と比べると背が低く、明らかに減っていた。
そのため部屋に入ったときから奥のソファーに寝そべって本を手にしている師の姿が視界に入った。
「……師匠……」
呟くと同時にジオの目がアリアスに向き、本に戻る。
「何だ」
「さっき、レルルカ様」
「知らん」
以上のように簡潔に返してきたジオだったが、何を思ったかアリアスに首を巡らせ、目を戻した。紫の色彩が映したのは、部屋に来たはいいが扉の位置からは進めず、陰りが拭えないアリアスの様子。
ジオは身を起こし、ソファーに座った。
「……来い」
アリアスの足は言われて数秒経ってから動いてくれ、師の近くまで着くと「座れ」と隣を示されたのでソファーに浅く腰かける。
ジオは指を挟んで止めていた本を組んだ足の上に置き、パラパラと指で頁を送りはじめる。
「地下の結界の様子が思わしくない」
「……」
「方法は探し続けているが、後どれくらいの時間か予想が出来ない以上、もう猶予はない可能性がある」
「……」
「ルーが結界をかけ直すことが正式に決まった」
アリアスは膝の上の手をより強く握りしめ、唇に力をいれた。そうでもしないと震えそうで、耳に入ってきた現実に負けてしまいそうになる。
「…………ルー様は、どこに、いるんですか……」
開くと勝手に小刻みに震える口を懸命に御して尋ねた。
ルーウェンが、いない。
四日前、この部屋で話を聞いた後ルーウェンは微笑みを僅かに崩した瞬間、耐えきれなくなったように席を立ち、「師匠、失礼します」と魔法で姿を消した。
それきり会っていない。
騎士団には来ているそうだが、アリアスは会っていないどころか姿さえ目撃していない。城の部屋にはおらず、アリアスが知る限りでは竜の元へも来ていない。
緊急時でないにも関わらず、空間移動の魔法で消えたルーウェン。アリアスの行ける範囲にはいない彼は、どこにいるのか。騎士団の方の部屋にいるのだろうか。
「知ってどうする」
「……会いに」
「会ってどうする」
「……分かりません、けど、」
「どうせ会っても、お前もルーもどうしようもなくなるだけだろう」
そうかもしれない。
分からないと答えてしまうのは、会ったとしてどうして良いか分からないと思っているから。一体、ルーウェンに会ってアリアスは何を言う、どうする。何が出来るのか。
――どうしてこのようなことになっているのだろう
「……ルー様は、どうしてそんな役割を、受け入れてしまえているんですか……」
「あいつしかやれないからだろう」
そう言われてしまえばそれまでだ。
でも、とアリアスは閉じた唇を噛む。
先日聞いたばかりのこと。
あんまりではないか、と思う。
王の子どもとして生まれてもその出自から公爵家で育てられたというのに、今になってその血でその生まれたときには過酷な役割が決められていたなんて。彼自身に選ぶ権利がなくて、『運命』なんて理不尽だ。
だからといって他の人が犠牲になればいいとは思えないのも事実。封じをすると命が奪われてしまう。しかし封じは誰かがしなければならない。王族の血筋特有の結界魔法が必要である。
『犠牲』になるのはその中の誰かだ。
王族特有の結界魔法を具体的に誰が保持しているかは知らないけれど、王、第一王子、第二王子……と考えていくと知らない人達ではないことになり、なぜ彼らではないのかとなどと思えるはずがないから。
だからあるのは、ルーウェンがいなくなってしまうかもしれないとてつもない恐怖。
普段と変わらない生活をすればするほどに、心の中に焦りが積もっていく。どうにか、どうにかしなければ取り返しのつかないことになってしまう。
それなのに――
「――どうにも、ならないんですか」
師からは、何も言葉は返ってこなかった。
頁を送り続ける微かな音のみが聞こえる。
この師でも何ともならないのかと、真っ暗だった現実がもっと色を失い、絶望を知らしめられた気がしてならなくなる。
地下に境目が見つかったとき、不安を覚えながらも師がいるから大丈夫だろうと思っていた。アリアスの中でジオとは絶対的な魔法師だ。力があり、この世の真理が如き事柄を知る師。
その師が口を閉ざしている。
「……どうして、そんな方法しか……」
口からはこんな言葉を出さずにはいられなかった。
頭の中には様々な叫びが渦巻いている。
他に方法はないのか。ルーウェンはどうしてそれを受け入れてしまっているのか。一体どこにいるのか。どうしてこんなことになっているのか。これは現実か。どうして……。
全部、全部悪い夢であればいいのに。
全てが夢で、何もなかったようにルーウェンが曇りない青空の瞳で笑っている姿があればいいのに。
兄弟子は、いない。
――当たり前にあったものが崩れ去った感覚。慌てて捕まえようと握った手のひらをさらさらと逃げていく細かな砂のようで、あって当然だったものだから何も捕まえられなかった手のひらをどうしていいか分からない。もう一度手を伸ばそうにも、どこに伸ばして良いのか見当がつかない。
「……ど、して……」
どうしてと、何度思ったか数えきれない音を、また一度アリアスは溢した。
頭と心が拒否したい現実は、拒否して見ない聞かないふりをしてしまえば後々必ず後悔するもので、しかしどうにも出来ないという事実がついた、残酷な現実。
――大切な存在が失われる、恐ろしい未来
刻々と、時は容赦なく過ぎて行く。
一言も発さないジオはやはり無言でアリアスの頭に手を乗せた。




