29 耳を疑う言葉
ルーウェンの声で。
ルーウェンの声が。
ルーウェンは、何を言った。
アリアスの聞き間違いだろうか。
急に耳鳴りがして、灯りを取り落とした音もアリアスの耳に届くことはなかった。信じがたい言葉が耳に入ってきた気がしてから、無意識が意識を守るように耳はそれ以上の音を拾うことを拒否している。
――「死ぬ覚悟は、もうありますよ」
外部からの音を遮断した代わりに反響するのは、聞いたことが間違いないと言わんばかりの同じ言葉。ルーウェンの声で繰り返される。
つい先ほどまで、この扉を開けてルーウェンの様子を確かめてしまいたいと思っていたのに、ようやく動いたアリアスの身体は右足を一歩後ろに下げた。靴と地面とがぶつかったのに、その音も聞こえなかった。
よろめくように一歩だけ後退れたアリアスはそれがやっとで、足が地面と通路の石と同化してしまったように動かなくなってしまう。その前で、為す術もなく扉が動く様子が見えると共に、中の灯りが通路にまで広がり、現れたのは――
「アリアス」
扉の前にいるアリアスを見つけて苦い顔をした師。
「…………し、しょう……あ、の、」
師の向こうに兄弟子の姿を見つけてその顔が驚きに染められた様子に、アリアスの動悸が煩く打ち始める。
――ここから離れなくてはならない。何も聞いてはいけない。ここで去り、聞かなかったふりをしなければ。でなければどんなことが肯定されるか分からない。
漠然とした不安があっという間に大きくなって、「何でもありません」と言いたがっている自分がいるのに、口が動かない。
「落ち着け」
その様子に、ジオがアリアスの肩に手を置く。
そんなことを言われても落ち着けるはずはない状態に陥っていたのに、真っ直ぐにアリアスを見据えている紫の瞳が揺るぎないものだったから、アリアスは不安定に揺れる瞳を僅かずつに収めていく。
身体を強張らせている過分な力もほんの少しだけ和らぎ、何とか自分の意思で口を開けるまでにはなる。
「何の、話、してたんですか……?」
「……」
「死ぬ、なんて」
問うてしまった。
聞いてはいけないと叫ぶ一方で、聞いてしまったことに、一体何の話をすればあのような言葉をルーウェンを発することになるのか。何かの間違い、話の一部しか聞いていないアリアスの勘違いではないのか。教えて、肯定して欲しいという切実な望みでもあった。
その一方で、拭いきれない違和感が大部分を占めていることが事実で……
「――アリアス」
師をすがるように見つめるアリアスの名前を呼んだのは、師の後ろから進み出て来たルーウェンだった。
ルーウェンはアリアスがいたことへの驚きに染めていた表情に微かな笑顔を浮かべ、
「何でもないんだ」
こう言った。何でもないと、さっき部屋の中で聞こえてきた、信じがたい言葉なんてなかったように言った。
けれどアリアスは首を横に振る。
「そんなはずないじゃないですか、……だって、」
笑顔には誤魔化されない。声だけを聞いて覚えた不安はそう簡単には消え去らない。その声が紡いだ言葉が不安を決定付けた。
ルーウェンは笑顔の中に覆い隠すことが上手だ。今までだって彼の誤魔化しだと後で知らされたことに気がついた試しはなかった。
今は、その笑顔にそうなのかと返すことなんて出来ない。
「だって――――どうして、ルー様、さっき……」
死ぬ覚悟などという言葉を。とは、上手く言葉を繋げられない中でも、一際声にすることは出来なかった。
怖かった。戦のときだってどんなときだって、彼がそんな事を言うことはないのに。
聞き間違いであればいいと思っていると同時に耳から離れない声があるから、ルーウェンの言葉を素直に受け止め、なかったことには出来なかった。
アリアスが引き下がらないでいると、笑顔を浮かべていたルーウェンは少し困惑した様子。どうしていいのか分からないようになり、ジオを見る。
「……師匠……」
「ルー、お前も落ち着け」
「落ち着いてはいます」
「お前のそれは動揺を無視しているだけだろう。……ま、俺の部屋に近づく奴などそうはいないからといって無防備に話すものではなかったな」
「とりあえず入れ」と普段と変わらない調子の師に促されてアリアスは部屋の中に入る。部屋の中には古い文献と言われた本が行く先を狭めるほどに積み上げられており、すんなりソファーにはたどり着けなかった。その間にアリアスが周りの本に気を使うでもなく見たルーウェンとは視線が合わなかった。辿り着いた馴染んだソファーに横同士に座る距離も、どことなくぎこちなくならざるを得なくなる。
「さて、どうしたものだろうな」
ぎこちなさが伝染した空気の中、向かい側のソファーで背もたれにもたれて、ジオがアリアスとルーウェンに視線を流す。
「アリアス」
「……はい」
「お前は今、落ち着いて話を聞けるか」
「師匠」
アリアスが返事をする前にルーウェンが制止を要求するような呼び方をした。
ジオはルーウェンにゆっくりと紫の目を移し、言う。
「他にどうする。このままアリアスを帰すか」
「少なくとも、話をこのままするのは……」
「アリアスが聞いてしまった以上、どう誤魔化す」
「……」
「俺とお前の不注意だ。それにお前が先ほど言ったことをするのならば、遠くない先に言っておかなければならないことだろう」
「それは――」
「違うか」
アリアスが見た兄弟子の横顔は笑顔は消えて、師の落ち着き払った言葉に押し黙る。ルーウェンがそれ以上重ねて何かを言おうとすることはなかった。
「アリアス」
師に再度呼ばれたため、ルーウェンから引き剥がすようにして視線を声の方へ向けた。
「地下に境目を封じている結界魔法があるのは知っているな」
「……はい」
「その地下の境目の封じをルーがやることになる」
「ルー様が……」
地下に、王族の血筋特有の結界魔法で封じられていた境目。今回結界魔法を張り直すのならば、一体誰が魔法を使うのか。特有の結界魔法を使うことが出来て、騎士団の団長をしているルーウェンが適任だと抜擢されるのかもしれないとは無意識に思っていた。だからそれに関しては驚かない。
けれどどうしてこんなにも心がざわざわと騒ぎ始めるのかというと、あの、不穏でならない言葉が頭にこびりついているから。
師が思いもよらなかった話を始めるのは今に始まったことではない。それらは後の話に繋がる話と知っているから、こんなにも不安に駆られるのだろうか。
「地下の結界は確かに王族の血統が継ぐ結界魔法だ。だが単にその魔法を使えばいいのではないとは言ったな」
「……はい」
「境目を封じることはそう楽に出来ることではない」
アリアスは、結界魔法で封じられているのであればそうすればいいのではないのかと考えていた。対して、部屋で大量の文献をさらっていた師がそう答えた記憶がある。だから方法を探しているのだと。
その「楽に出来ることではない」封じをルーウェンがやることになったという。
アリアスの心が、悪い予感に、酷く波打ちはじめた。師の話の続きには、きっと悪い事が待っている。
「境目を塞ぎ、封じるためには大きな代償が必要だ。この地にある境目を封じたのは人間、かつてその魔法力と命をもって封じたそうだ」
「……命……?」
「判明した『やり方』は今のところそれのみ。そして、どのみち封じはルーウェンがやる」
「命、って――。そのやり方ですると死んでしまう、ってことじゃ、ないですよね……?」
「いいや、死ぬ」
「――」
淡々と明らかにされた事柄はアリアスに大きな衝撃を与え、呼吸を失わせた。
つまり、どういうことか。楽に出来ない封じは、魔法力のみならず命までも全てで行うというもの?
魔法力は生命力だ。魔法力が枯渇すれば体も疲れる。しかし生命力が魔法力に繋がっているとすると、命を捧げればより強い力が得られるとでも言うのだろうか。
どれにしろ問題は、つまり、ルーウェンが命をもって行うというとんでもない方法をするのだという事実。
「さっき、死ぬ、って、……それのこと、ですか」
どうか否定をして欲しいと心の奥底から思いながらも、
「そうだ」
この時点で疑いようもないことだとは、分かっていた。
師から返ってきた首肯に呼吸を奪われ、刹那、口から溢れる言葉があった。
「――そんなこと、ルー様が、どうして、」
ルーウェンが行うことになるかもしれないと確かにそう思っていた。だが、まさか、命までも捧げなければならない方法なんて。
そんなことをルーウェンがどうしてしなければならないのか。どうして、とアリアスは声にならない声を出した。
「地下の境目を見つけた日、ルーの魔法が勝手に反応していたことを覚えているか」
地下に空間の裂け目を見た日。その前。ルーウェンから突然青みを帯びた光が発せられて、光の色からしてそれは彼が有する結界魔法であった。
覚えているとの意思を示すため、アリアスはどうにか頷く。
「あれが起こったのはルーだけだった。他の王族の血筋には何の異変も起こっていなかったようだ」
「ルー様だけ……? ――ルー様だけに起こったから、ルー様が、封じをすることになるんですか……?」
「簡単に言うとな」
「……どうして、ルー様にだけ、」
あの日兄弟子にだけあの反応が起こったから兄弟子が『そんな方法』で封じをしなければならないのなら、どうして彼だったのかとの思いが生じていた。
しかしジオはすぐに答えることはせず、アリアスから視線を外した。横に移ったと分かり、アリアスも横を見る。
「ルー、どうする。ここから先はお前の個人的な情報になる」
「…………この際ですから、構いません。それはアリアスには、元から知られたのなら知られても構わないと思ってはいたことです。……そんな日が来るとは思ってはいませんでしたが」
ジオがアリアスに部屋の中での会話の真相を話している間中黙っていたルーウェンは、その間に突如起きた状況に落ち着いたのだろうか。ジオに制止の言葉を発しなかった。
と、一見すると先ほどまでの状態と比べて落ち着いたという印象を受けていたが、そうではないとしばらくすると見てとれる。
暗い表情。力ない声。諦め。
「そうか」とジオが言い、彼と兄弟子の間の内容が図れない会話は終わり、師が間の問答がなかったかのように話を再開させる。
「あの反応は、結界に異変があったことに本能に組み込まれた無意識が結界を補おうと働こうとしたのだろう。ルーにだけそんな反応が起きたのは、単純に言えばルーが相応しい力を持っているからだ。今この世に存在する誰よりも結界魔法を良く使え、大きな力を持つ。ただ、これな偶然ではない」
師はこう続ける。
「ルーの魂の運命のようなものだ。生まれた時から、もしかすると生まれる前からさえも決まっていたこと」
「運命……?」
『運命』とは何だ。意味が分からない。
「この世の魂は巡る」
この世の全ての魂は繰り返し繰り返し巡ってくるのだという、似たような話を聞いたことがある気がする。
「魂というものは人間にしろ何にしろ一度生を終えるとまた巡り、新たに生を受ける。この繰り返しだ。だが全ての時代に置いてそれらの魂がただ自然に任せて巡り、生まれているわけではない。特に、今の時代に強い、特別な力を持つ魂が巡る場所には意味がある。なぜそこに生まれるようになったのか」
今度は唐突に『魂』の話をし始めた師の言葉を取り零さないように、アリアスは耳を傾ける。
「境目を封じるためには大きな力が必要だ。今のように、自然に任せていては中途半端な魔法の力しか持たない者が生まれる可能性が大いにある世に置いて、特別な力を大きく持って生まれることには理由がある」
懸命に、ルーウェンとの関連を見つけようとする。
「この地の境目を封じる役目を負っているのはこの国の昔からの王族。その魔法を受け継ぐ者たちだ。だが言っては悪いが、ギルバートをはじめとした今の純王族、比較的その血統が濃く流れ特有の結界魔法を持つ者達の能力はたかが知れている。今やあの結界魔法は受け継ぐことに意味があるとさえなっているからな」
とても不敬なことを言ったジオは、そんなことはお構い無しに頬杖をつき、どこまでもいつもの態度と声音で話し続ける。
「つまり昔はどうであれ、現在境目を封じるための大きな力を持つ者が生まれてきたのは偶然ではない。むしろそのために、遠くない未来に綻びる結界に引き寄せられ王家に魂が舞い戻り、然るべき位置に生まれた」
「然るべき位置……?」
「そうだ。確実に境目を封じることが出来るよう、最も相応しい位置に生まれた。最初に生まれ城におり、いつどの時点で起こっても対処できるよう。王の子という位置にな。――それがルーだ。これがルーにだけ反応が起きた理由だ」
結果的に言うに、よく、話が繋げられなかった。するりと最後に混ぜられた要素にそれまでの思考もたった今動いていた思考も全てを持っていかれて、思考は静止した。
「…………?」
静止して、次に我に返ったときには今何があったのかとそこから考えるはめに陥るほど。
ルーウェンが結界魔法を使い、地下の封じをやり直すこととなった。命までも使うやり方で、それは地下にあった結界が解けかけていると判明したときにルーウェンにだけ反応が起きたから。
ルーウェンにそうした反応が起きた理由は彼に結界をやり直す相応しい大きな力があるから。
アリアスは王族の魔法の力の大きさを、フレデリック以外は知らない。
しかし一般的に見ても、ルーウェンの魔法の力は大きい。これは事実だ。さらに普通の者にならできない規模の結界魔法をかけられることも事実だ。
ルーウェンがそのように大きな力を持ち、結界魔法を扱う能力があることは偶然ではないと。封じをやり直すべき時に合わせるように生まれ、生まれた位置にも意味があった。
――王の子という位置に生まれたのがルーウェンだと、師はそう言わなかったか
その位置に生まれたからこそ大きな力を持って……。
確かにそうであるなら、筋は通るように思えた。そうであるのなら。
「……師匠、何言って……ルー様は」
何を言っているのかというのが、アリアスの最初の感想。
だってルーウェンは……。
ルーウェンは王族ではない。ルーウェンはハッター公爵家の一員、エドモンド=ハッター公爵の息子だ。王弟の子。
それなのに何を言っているのか。
それなのに師は否定を意味する方向に首を振る。
「ルーはエドモンドの実子ではない」
言葉ははっきりと聞こえたのに、
「ギルバートの第一子だ」
すぐに受け入れられなかったのは、仕方ないだろう。




