7 何もかもが不確かで
――兄弟子が泣いていた。
どこだとか細かくは判断できないけれど見覚えのある場所にアリアスはいた、と思う。
身体が実体がないようにふわりふわりとしているような気がするのは、熱を持っている気もするせいだろうか。その一方で身体が重い感覚もあるような気がするが、どのみち現実味が薄く夢かもしれないとも思った。
側に誰かがいると感じて自分の身体ではないみたいな曖昧な意識の中で目を向けると、兄弟子がいたのだ。
顔は見えず、祈るように手を握り合わせ頭を垂れていて表情は見えなくても何だか辛そうに見えたからアリアスはのろのろと彼にぎこちなく手を伸ばした。
届くだろうかと伸ばす指先が震える中ルーウェンの髪にあとわずかで触れる、その前に。ルーウェンが顔を上げた。
銀色の髪が少しかかってしまっている顔が見えた。それでも明らかになった表情は固まってしまっているようで、そのいつもは澄んでいる青い瞳にアリアスが映る。揺らぐ。
「――ア、リアス」
伸ばした手はあちらから伸ばされた大きな両手で握り包まれた。
身体全体が熱を帯びていると漠然と感じるのに、その手が温かいと感じたことが不思議だった。
でも、そんなことよりも。
「ルー、様……」
「うん?」
「なんで、泣いて、るんですか……?」
アリアスが消えそうなほど小さな声で尋ねると、青空の瞳から新たに雫が生まれ流れる。
ルーウェンはすぐには答えず、やっと口を開く動作はひどく苦労しているように見えた。
「……失うかと思った……」
声も苦労して出している声音で、そう言ったルーウェンは包んだ手にさっきまでしていたように額をつけた。
「失うかと……」
どうして、自分がこうなっているのか。泣いているところなんて見たことのないルーウェンが泣いているのか。肝心なことはぼんやりと靄がかかったような意識の中アリアスは無理に考えようとはしなかった。
けれど彼の方こそ消え入りそうな声で呟き、涙を流している姿が辛かった。
そうしている内に意識が遠ざかっていく。アリアスは抗う気力もなく閉じるままに瞼も意識も閉じていく。
どうか、次目覚めたときは彼が泣いていませんように。
*
見慣れた場所は塔の部屋だった。
そのままにしてあるため時折掃除には来るが久しぶりに来ることには間違いない。というより、一年近くは使っていなかった部屋のベッドにアリアスは横たわっていた。
目覚めたときのまま懐かしさを感じる天井を見上げてどんどん意識が起きることを待っているが、記憶が混濁しておりここに来た経緯が辿れない。しかし少なくとも自分で来た記憶は一切ない。
「……ルーさま……?」
実際に声が出るか出ないかで上手く回らない舌で溢した呟きはおぼろげな記憶の欠片からのもので、試しにゆっくりとベッド脇に顔を向けても誰もいない。
そこで兄弟子が泣いていた光景を見たような気がして思い出そうとするとやはりルーウェンが泣いていた断片が甦り、夢にしては――ぞくりとした悪寒と共に遅れてその記憶はやってきた。
「いたっ……」
毛布をはね飛ばさんばかりに勢いよく起きると腹の辺りが痛み手で押さえて顔をしかめたが、アリアスは動きを止めようとは思わずベッドから滑り下りる。
誰が着替えさせてくれたのか白いゆるいワンピースタイプの寝間着になっていて、冷たい空気が裾の下と中に触れ、裸足の足に床のひんやりとした冷たさが伝わる。
ベッドの脇にはひとつの椅子、部屋の中には誰もおらずアリアスは腹部がそれ以上痛まないことを感じて部屋を出た。部屋の外はより足に冷たさが増し冷えていた。その見慣れた通路を走り出す、とにかくまずは外へ。
あの人を探さなければ、早く、と。
走り出すと腹がさっきりよりじくじくと痛んでいる気がした。完全にはふさがっていないようで、この傷をつけた人を思うとなぜか何よりも焦りが出てくるのだ。だからあの部屋で状況を把握することを待つことはあり得ず走ることを止めようとは思わなくて、下へと向かうべく階段を目指す。
切る空気を感じる肌、足が冷たい。石の通路は低い気温で冷えきってしまっている。今はいつだろう、あのときからどれくらい経ち、サイラスはどこへ――
切る風が止まったのは、くん、と腕に何かが引っかかり身体ごと止まることになったから。
「――アリアス」
前へ前へと足より気が逸り視界が狭くなっていたアリアスが最初に止まった腕を振り返ると、走るアリアスの腕をとり足を止めた正体はゼロだった。
振り向く際に揺れた髪が視界から消え、目にした彼は驚いたものからほっと安堵したものへと表情を移していった。
「本当に目が覚めたんだな」
止めるだけで腕を軽く掴んでいた手に力がこもったことを感じると、腕を引かれるのと彼が近づいてくることが同時。アリアスが瞬きを終えたときには腕の中にいた。
「良かった」
「……ゼロ様」
耳に届く声は普段より小さく、囁くようなものだった。抱き締める力は柔らかく、でも後ろに回った腕に力が入っていることを感じたからきっと強くしないようにしているのだ。それが分かったから、アリアスは自分からも身を寄せた。
どれくらい心配をかけていたのか期間は分からないけれどその事実だけは分かり、大丈夫だと伝えたかった。
アリアスを確かめるように長時間抱き締めていたゼロは身を離したが、依然として髪をよけ頬に触れる手つきは確かめるそれであった。
「けどこんなとこで何してんだよ。安静にしてねえと駄目だろ」
咎める口調が混ざり、目が物言いたげに変化。
アリアスは自らの腹の傷がどのようなものか――見るのが怖いのかもしれない――まだ見ていないけれど、おそらく痛みを訴えているということは完全には塞がっていない。
つまりは傷があることを意味している事実を再確認して、感情が再び一気に複雑に絡まり合いはじめた。腹の痛みを意識すればするほどに難解に絡まる。
それを少しでも緩めるためには状況を理解しなければならない、少し怖いけれど。
ゼロはアリアスがここ、塔で横たわっていたことを知っていたからここに来た。記憶が途切れている以上、誰かが運んできてくれたはずではあるが誰がかはあの部屋にいたと思われる兄弟子かどうかも定かではない。もしかするとゼロという線もあり、彼の言動ではアリアスが怪我をしていることを知っていることは間違いようがない。ということはどうしてこうなったのか誰がこうしたのか知っている、可能性が、ある。
アリアスとって今重要に思えるのはその点。
今にも手を引いてアリアスが来た道を戻っていきそうなゼロに、意を決して言葉を口から出す。
「あの、ゼロ様」
「ん?」
「サイラス様がどこにいるか知りませんか……?」
アリアスが慎重に出した名を耳にしたゼロの様子が一変したと雰囲気で、肌で感じた。頬に触れていた手が動きを止め、見上げた右目が凪いだ。感情を読み取ることが不可能に。
「――あいつを探しに行こうとしてたのか?」
「……はい」
「……傷つけられたのに?」
「あれは、……」
二の句が継げない。
そうだアリアスはサイラスに傷つけられた、覚えている。起こったことはすぐには理解できず、しかし意識を閉ざす直前に感じたのは激しい痛みだった。
攻撃的な魔法を感じ、それを放った人物は前に一人しかおらず悲しくも疑いようがなかった。
そしてその記憶が最後にあり目が覚めた現在腹に存在する痛み、確かめるまでもなく怪我は――している。現実、なのだとゼロにも言われて実感することになる。
「……でも、サイラス様が自分でしようと思ったこととは思えなくて……」
アリアスは手で拳を作り握りしめると、爪が肌に食い込む。
現実であってもアリアスは信じられないのだ。
ついこの前まで笑いアリアスの頭を撫で、昔と変わらない動作をしていた彼があのようなことをするなんて、何か何か理由があったはずだ。
何かがおかしかった。突き詰めようとしても不確かで何がと問われればそれまでで、漠然とした感覚でしかないけれど。最近のサイラスは頼りなく揺れていたから。
目の下のくま、横たわったサイラスの弱々しい声、腕に彼自身により幾筋もつけられた傷が思い出された。普段の様子からかけ離れていた。
だからそう言うと、ゼロの顔が目に見えて歪んだ。
「……んで」
声は最初は聞こえないくらいに小さかった。
「なんで庇う」
ゼロの、色だけ見れば冷めている色彩は今はとても苛烈な感情を帯びていた。凪いでいたのではない、たった今までは凪がされていたのだとそうなって遅くも知った。では今になるまで隠されていた強い感情が何か、注意深く見ずとも明確、「怒り」という感情を彼に向けられるのははじめてでアリアスは思わず息を飲んだ。
「死ぬところだったんだぞ」
強い感情を、制御できる声には出さないようにひどく押し殺した声で彼は言う。
その言葉にアリアスは心の隅が衝撃を受ける。死ぬところだった。サイラスが作った傷はそれほどまでに深かったことを示すのだろうか。ルーウェンが泣いていた、それはアリアスが危険な状態にあったことを示すのではないのか――?
サイラスが自分を殺そうとしたというのか。
「それでも、」
それでも。と次に繋げる言葉が自分でも見つからないのに、さっきから要領を得られることを言えていないのにアリアスは言おうとする。
まとまらない思考がまとまることを待たずに抗おうとする。
「それ以上言うな」
「ゼロ様――」
なおも言いつのろうとするアリアスは再度――さっきより手荒に抱き寄せられて頭の後ろに添えられた手に引き寄せられて息が詰まる。
「じゃあ言うけどな」
アリアスの口を塞いで何も言えなくした上で降ってきた声は、吐き出すようで低かった。
「俺があいつを殺すって言ったらどうする」
きつく抱き締すくめられて彼の温もりを感じながら聞く言葉はどこかちぐはぐで、アリアスは上手く、理解できなかった。したくなかった、のだろうか。
何も答えることができなかったことは確かだった。




