5 邪魔
育成中の竜の様々なことを記した記録紙がまとめられた束を手にエリーゼの元へ届けいき終えると、アリアスの今日の仕事は終わった。
「さて、と」
せっかく城に来たことであるし師のところへ行こうかと思うも、城に来る前のこと、急遽の会議のため名残惜しげに去っていったルーウェンとゼロを思い出した。
会議。師は部屋にいない可能性がある。というより行っていればいないだろうが、きちんと会議へ行っているのだろうか。
本来アリアスが抱くべきではないだろう不安が過り、まだ師の部屋へ行こうか宿舎へ帰ろうか迷いゆっくりしていた足をジオの部屋へ向けることにした。
外はすっかり陽が落ちきって寒さが増している。国内にはもう雪が降っている地もあるのかもしれない。王都は雪が積もることは稀だが降ること自体はある、けれどまだ少し先だろう。
寒くなって再び病が流行らなければいいが……。
見慣れた小さめの庭を何気なく見ていると何となく見慣れたものを見逃しかけて、辛うじて意識に引っかかった。
足を止めたアリアスはその位置で暗めの中で目を凝らすと庭に座っているらしき人のシルエットが……。
「……えぇ……」
いやいや昼はまだしもさすがにこんな時間に外で寝ようとしているはずが……と思い浮かんだ人物を否定するが、見れば見るほどにそうとしか見えなくなってくる。思い込みが手伝っているのだろうか。
シルエットに視線を集中させ続けた今となってはサイラスにしか見えないのだ。
いやいや……という感じに自分の予想を否定する声が出たが、この位置からではいくら目を凝らそうが限界がありはっきりしない。
確かめるが早い、といつまで経っても立ち上がりそうにない背の低いシルエットを明らかにしようとアリアスは見つめることをやめた。
ここまでくるとサイラスであるのなら何を言うべきか、と考えが湧いてきていた。こんな寒い中いてはいよいよ体調を崩して寝不足だけではなくなってしまうではないか。いっそはっきり言ってしまうべきか。
以前サイラスはアリアスに、成長したが年頃の女子というよりどこかの母親みたいだと言ってきたがそうさせているのはサイラスの方ではないか。
果たしてアリアスが彼に会わなかった六年の間に成長したのか、アリアスの記憶の中にあるサイラスと今のサイラスを比べて当時にはなかった弱さが垣間見えている気がするためなのか。
「……やっぱり」
今考えても意味のない思考が途切れたのは、人違いである可能性も考えて足音を忍ばせて近寄って行った相手が予想通りと分かったから。
両ひざをついて座り俯いているが、どう見てもサイラスだ。
「サイラス様、さすがにこの時期の夜に……」
薄着では……と薄着とか格好の問題ではないかもしれないけれど、とっかかりとして言いかけたときだった。
サイラスがしている行動に、言葉を止まることになったのはすぐに違和感が芽生えたゆえだろう。
彼は腕をかきむしっていた。
それだけならばいい。その先が普通ではなかった。だからアリアスは動きも声も止まった。
抉る。
見ている間にも何度も行き来する彼の手。爪を突き立てるように行き来するのは彼自身の腕で、シャツは捲られていたから白ではなかった。肌の色でもなく、何物かで染まっていた。暗いから黒だと思ったけれどツウ――と新たに肌の色が残る箇所に伝うそれは、腕を肌の色が見えないほどに染め流れる血。
伝うだけでは済まずにぽたりと落ちた先の地面を染めあげる。
瞬間、ぞっとした感覚が走って何をしているのか完全には認識し難いままアリアスはわずかな距離をなくした。
「何を、してるんですか!」
屈むや最初に腕に爪を立てている方の手を引き離す。近くに来たことと手がなくなったことで、傷ついた腕の様子の詳細が明らかになった。
酷い。
さっきまでの行動からしてサイラス自身がしたことのはず。しかしそうは思い難く深く裂かれた長い傷が肌に刻まれていた。刃物ではないから傷は綺麗な直線ではなくギザギザでより酷い印象を受ける。
それにしても傷がつきにくい爪で自らの腕をこれだけ深く傷つけられるものだろうか。どれほどその行為を繰り返したならばこんな傷ができるのだろう。
アリアスは顔を歪めてしまう。
「駄目じゃないですか……」
サイラスは無反応でそうこうしている間にもだらだらと流れ落ちる血が止まる気配がないので塞がなければと、アリアスは傷の上に手をかざし魔法を使いはじめる。
ゆっくりと傷を癒す魔法の力を注ぎ込む――
「――触るな」
傷のある腕が振られ、手を弾かれた。
その拍子に少し飛んだ血が目に映ったアリアスであるが、手が弾かれた感触があってもここもまた理解ができなかった。
血にまみれた腕。
振られた腕。
離された手。
弾かれた手。
拒絶された手。
拒絶。
――「触るな」と唸りに近い声。
アリアスは呆然として新たに動くことはできずにサイラスを見た。
伸ばされっぱなしの長めの髪が彼の顔を隠していて、どんな表情をしているのか分からなくさせていて……ふいにその間から覗いた目が鋭くアリアスを威圧した。びくりと勝手に肩が跳ねた。
「サイラス、様?」
髪で目の辺りの大部分が隠れているとはいえ、顔が上がればやはりサイラスであった。間違いないのだ。
目の下にあるくまが濃いことが余計に目つきの鋭さを際立たせているにしても――でも、また違うサイラスだ。
髪の奥にある目が宿す光を、アリアスは知らない。怒りではない。
アリアスは彼の名前を呼んで尋ね、見ることしかできなかった。身体が近づくどころか手さえ動かなかった。
身体を支配する恐怖。
なぜ、自分がサイラスに恐怖を。状況が分からず、何よりサイラスの様子がいつもと異なりすぎて混乱する。
アリアスを睨み付けていると言っても過言ではない目が、より普段から遥かに離れて――
「おまえの優しさは今、邪魔でしかない」
獰猛な瞳。それとピキと何かが割れたことを思わせる音がしたことが境。
アリアスの世界は静かになった。
音が消えた。
何かが飛沫をあげた。
同じ色がはしばみ色に散った。
身体が『何か』の衝撃を受けて倒れることが意識の外で分かり、視界から映っていたサイラスが消えていく。
暗い周りが見えて、いや、もっと暗い。これは目が閉じているのか。
何一つとして起こったことを正確に理解できず、アリアスの視界は落ちた。ピシ、と小さな僅かな音が聞こえた気がした。




